生命を代価として極限に挑戦

 102日、陝西省の青年、王家雄さんは自転車に乗って天津市の黄崖関長城を飛び越える時、自転車が城壁にぶつかって墜落するという意外な事故が起こり、不幸にも死亡した。

 事後、天津自転車運動クラブの責任者、王松さんは記者のインタビューに応じた際、快速降下飛び越え用の自転車は、とても厳しく要求され、その前と後はとくに震動防止の機能がなければならず、選手が自転車に乗ると、足をしっかりとペダルに踏んづけなければならない。こうしてこそはじめて空中で自転車から離れるのを防ぐことができる。写真を見ると、王家雄さんが使った自転車はごく普通なもので、足も自転車にしっかり踏んづけていなかった。そのため、何かにぶつかると自転車から離れやすく、生命の安全を保証するのがとても難しいと語った。

 調べによると、国家体育総局はサッカー、バスケットボール、バレーボールなど96種目のスポーツを規定しており、その中に自転車競技も含まれているが、自転車に乗っての飛び越えは含まれていない。体育総局はその規定したスポーツ種目に対し厳しい管理を行っているが、自転車に乗っての飛び越えが自転車運動ではないため、それを管理するのが難しい。

 ここ数年来、各種の自然と非自然の地形を飛び越えることから山の頂上に登ることに至るまで、全国で極限に挑戦するブームが大いに盛り上がった。そのために生命を落とした人も一部いる。8月、北京大学の5人の学生はチベットのシシャバンマ(希夏邦馬)峰の西峰の頂上に登ったとき、雪崩に遭って遭難した。これは北京大学登山隊員の2度目の遭難である。第1回は1999年で、北京大学の1人の学生が四川省内にある雪宝山の頂上に登ったとき遭難した。

 極限への挑戦や探険は無意味な冒険ではなく、このために生命の代価を払う値打ちがあるのかどうか。理性的による制約と精神の呼びかけを前にして、われわれはどちらに従うべきか。

冒険は生命を大事にする必要がある

 『南方都市報』原稿執筆者 鄒雲翔 王家雄さんが自転車に乗って長城を飛び越えることに失敗して死亡したという消息に接して、とても不幸に思った。人はすでに死んだが、われわれに残した教訓は非常に深刻である。われわれは一体どんな冒険を提唱すべきなのか。

 その前に関係報道を読んだことがある。王家雄さんが7月から長城飛び越えの準備作業を始めたもので、3ヵ月近くの準備期間は短いとは言えないが、どうしてこのような惨劇が起こったのか。104日の報道から見ると、専門家は王さんの惨死が準備や設備の不十分と関係があると見ている。ここから、災禍の原因が百パーセント冒険に付きもののリスクにあるのではなくて、生命を大事にせず、個人の安全面の準備が不十分であったために引き起こされた人災であることがかわる。

 生命は無駄にするのではなく、大事にすべきである。これが冒険の本質である。われわれが冒険を賞賛するのは、他人がどのように滅亡に向かうかを見たいのではなく、どのように自己に打ち勝つかを見たいからである。われわれは冒険を認識し直す必要がある。冒険運動は生命を顧みないのではなくて、生命に潜在するエネルギーを徹底的に発揮するのであり、生命の光を消えさせるのでなくて、それをいっそう盛んに燃え上がらせることである。

 冒険は時には生命を代価とする必要があり、それで生命の悲壮さを示している。これは否定できない。しかし、一部の冒険活動は資金などの原因で、極めて重要な人の安全を全然気にかけず、冒険運動を生命を代価とする賭博と見なしている。たとえば、ある大学登山隊は手元不如意で海洋電話を借りられないため、2台の携帯用無線通話機を携えて登山に出掛けた。その結果、遭難した数日後にやっとその情報を外部に知らせることができた。これでは惨事になるのも当然である。このようにやるのは、冒険の主旨に背き、生命を冒涜するのとまったく同じである。

 私は冒険者の勇気を賞賛するが、冒険が軽率な命知らずの冒険者の行動とは思わない。冒険は勇気と現実精神の結晶のはずである。人を根本とする現代社会では、他人の死亡を観賞の対象とすることができない。大きな危険性をもつ冒険は、当然制止すべきである。

 どんな冒険でも人の安全を第一位に置くべきであり、科学的精神は従来から冒険と矛盾しない。世の中の最大の冒険は宇宙旅行であるが、各国は有人宇宙飛行を行う前に、無人飛行を何回も行うのはなぜだろうか。それは最終的にはその生命を守るシステムをいっそう完全にし、人の宇宙旅行をいっそう安全なものにするためである。アメリカのスペース・シャトル「チャレンジャー号」の爆発という悲劇が免がれないとはいうものの、努力を払っても意外な事故が起こるのは、宇宙飛行に付きものの危険であるとしか言えない。そのため、われわれは理性的に懸命にそれに献身する必要があるが、献身の前提条件はできるだけ人の安全を真っ先に考慮する要素とすることである。

 災禍がすでに起こった。われわれは死者を痛惜すると同時に、このような惨劇が二度と繰り返さないように祈る。生命はなによりも貴重なものであり、人の安全を最優先に考慮しない冒険は人間性に背く冒険であり、永遠に称賛に値せず、法律で禁止しなければならない。

 北京市民 野地  悲劇を前にして、われわれは感情的になるのではなく、理知的に対処する必要がある。探険は意義のある人類活動の一つであり、それは科学的認識および着実、漸進を基礎として行うべきである。以前のすべての資料が示しているように、チベット西部にある海抜の高い雪山に登る最もよい季節は春と秋である。78月は気温が高く、雨がよく降り、雲層が厚く、可視度が悪く、山の上の積雪が固まらないため、この時に山に登ると、きわめて遭難しやすい。以前は「人の意志は天に勝つ」とよく言われたが、実際には人の力は大自然と比べて、時には全くとるに足りないものである。

 崇高さと偉大さは平凡な生活に存在しており、文明の社会はもはや冒険的征服を崇高かつ偉大な事と見なすべきではない。冒険は何人かの犠牲者の愛好であったかもしれず、われわれはそれを評価しようがない。われわれは死者を高く評価する原因をはっきりさせたいだけである。そのため、個人的英雄主義は自分が強者と自認する多くの人の追求となっており、これらの人がますます個人奮闘を目指し、一夜で名をあげようとしているのを発見して、われわれは悲しみを覚えた。夏休みの前に、北京大学の山鷹登山隊がチベットへ行くことが大いにはやしたてられた。これは彼らの「英雄」の意識を強めたに違いない。軽率な行動を粉飾するのはより大きな悲劇を引き起こすだけである。彼らの死に何か意義があるというのなら、それは無知の衝動を勇気と見なさないように後継者を戒めていることである。生命を大切にしてほしい。

 『北京青年報』評論員 張天蔚  人類にもともと極限に挑戦する衝動と需要があるため、各種の極限運動が行われるのであり、しかも人々の注目を集めている。しかし、ここ数年来、行きすぎた各種の飛び越え活動を観察すると、経済的要素の過度の介入によって、その運動はますます頻繁、軽率に行われ、ますます極端に走っている。大まかな統計によると、全国に飛び越えが行われたあるいはこれから行われる地点は黄河、長江、長城沿線の景勝地および寧夏回族自治区西部にある大峡谷、遼寧省の千山、?江支流の燕江、チベット自治区ラサ市のポタラ宮広場などがある。自動車、オートバイ、三輪車、トラックなどを使い、尋常でない方式で、わずかの時間のうちに人々の耳目を驚かせる冒険行為を集中的に行うのは明らかに極限運動の本意と守るべき法則に背くものである。ある特定の経済的目的に左右されて、各種の飛び越え運動あるいはその他の極限運動は十分に奇異で険しいものでなければメディアを引きつけ、人々の耳目を驚かせ、「注意力を集める経済」の目的を達することができない。同時にメディアやある特定の時間に合わせるため、それを定めた時間内に完成しなければならない。さもなければ、関係各方面に申し開きができないという受動的な局面が現れる。このような日ましに極端になり、しかも退路がないという苛酷な制約の下で、毎回の飛び越えは成功する可能性はあるが、意外な危険もはらんでいるのである。

 極限に挑戦するのは崇高にして厳粛なことであり、綿密な態度と科学的精神が必要である。それは経済的支持を必要とするが、経済の目的と行為はあまりにも直接に介入したりひいては主導的要素となってはならない。中国では極限運動は一部の先進国よりずっと遅れて始まったが、経済行為と経済目的の間の緊密な関係は世界の先頭に立っている。この運動の発展から言えば、よい事ではない。

 「自転車に乗って黄崖関長城を飛び越える」活動は現在の「飛び越えブーム」の一部分であり、「飛び越えブーム」の中に存在している各種の問題も今回の活動の中にたくさん現れた。王家雄さんの不幸で、各種の飛び越え活動に熱中する企業、メディアおよび各種の組織者は頭を冷やし、上調子や軽率さを捨て、「極限」にいくらかでも畏敬の念を抱くようにすべきである。

冒険によって生命はすばらしくなる

 天津市 張紅衛 精神は最も貴重なものである。北京大学の学生が雪山で命を落としたのは悲しいことである。それをする値打ちがないというなら、おおかた犠牲者が出たからである。しかし、登山に成功すれば、値打ちがないと思うだろうか。おそらくそうは思わないだろう。そのため、惜しいのは生命であり、残ったのは精神である。限りのある生命で無限な精神を模索するのは深遠な意義がある。惜しいがそうする値打ちがあると思う。

 『北京青年報』評論員 蔡方華 登山は人類自身と大自然に対する二重の挑戦であり、危険な運動であるが、その魅力もまさに危険から生まれている。極限の環境の中で、人々は自然のもたらす困難と人間性の弱点に打ち勝つことを通じて生命を昇華させたことである。

 民間登山界で名高い北京大学の山鷹社は、組織が厳密で、厳格なトレーニングを行い、豊富な経験をもっており、彼らの困難と危険を恐れない精神は北京大学の人々を励ましている。今回のシシャバンマの西峰に挑戦した行動も綿密に手配され、関係方面の許可を得たものである。休暇期間しか登山できないため、登山の時機は確かによく、同時に、民間組織であるため、専門器材を完備させることも不可能であり、これは確かに危険性を大きくした。これは否定できないことである。しかし、今回の事故が発生したからと言って、山鷹社の存在の必要性を完全に否定することができず、自然に挑戦し、自己に挑戦する彼らの行動をなおさら無意味な青春による衝動と見なしてはならない。小さな失敗で登山をやめるならば、5人の優れた若者を失っただけでなく、冒険の勇気、模索の精神、征服の渇望をも失うだろう。ひな鷹を失ってはならないように、これらの精神的富を失ってはならない。

 雲南省 付春鴻 私は蔡方華さんの見方に賛成する。ある意味から言って、これは北京大学の精神であり、このような精神は無数の人が自分の努力、自分の行動、ひいては自分の生命で作り上げたものである。物欲がはん濫する現実社会では、中国が依然として5千年の文明をもつ国であることをわれわれに感じさせる精神的富があまりにも必要である。

 公司職員 駱建東 極限運動自体は危険があり、死を恐れるならば、それをすべきではない。彼らの死は何も証明できないというなら、われわれが生きているのは何を証明しているのかと聞き返したい。生命は何かを証明するために用いるものではなく、死んだあと、人々に彼らがかつてこの世にいたことを思い出させることができれば、十分である。少なくとも彼らが死んだあと、こんなに多くの人は彼らのことを心にかけているのである。私が死ぬ時に、このようにできれば満足だ。中国人はどうしても功利の目で人を見がちで、死人もその例外ではない。

 画家 伊人 そうする値打ちがあるかどうかを討論すること自体に問題がある。だれが悲劇の発生を願うだろうか。大自然に近づき、極限に挑戦するのは必然であるが、悲劇の発生は偶然にすぎない。私自身は冒険の運動をする勇気がないが、これらの事をやる人がいなければだめだとも思う。これで生命を失うのは、まさに生命が必死に頑張ることによってすばらしくなることを物語っている。