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長い付き合い
当時、日本と中国の間に正式な国交はなく、中国への出入りはすべて香港、深セン経由で行われていた。1カ月足らずとはいえ、もっともっと長く感じられた中国の旅を終え、深センで彼女と泣きの涙で別れたときには、自分はもう二度とここに来ることはあるまいと思ったものだ。 ところが、幸いにも私の予感は見事にはずれ、そのわずか3年後の1972年、日本と中国は国交正常化を果たしたのである。そして80年代初めから、私は日本からの団体旅行の添乗員として、頻繁に中国各地を訪れることになった。 「仕事」を媒介に中国と接してみると、正直なところ、腹の立つことも多々生じた。そのころ改革・開放が始まったばかりの中国では、今とは異なり、航空機の絶対数がかなり不足していたようで、国内を航空機で移動する際はとりわけ緊張を強いられた。出発時刻になっても何のアナウンスもなく、定刻通りに出発できるのか、遅延するのか、さっぱりわからないまま、係員に聞けば「わからない」の返事だけ。空港で数時間待たされた挙句、キャンセルと決まり、ホテルに引き返す、といったことが何回か続いた。当時、中国側のガイドさんから最もよく言われた言葉は「別焦急(焦らないで)」。駅のエスカレーターを駆け上って出勤を急ぐ人々の住む都市、東京から来た私は、ひたすら焦りまくっていたわけだ。だが、場数を重ねるうち、「郷に入っては郷に従え」精神を実践することを覚えるようになった。まず、係員の人と雑談をする。「あなたのマニキュアすごくきれい、どこで買ったの?」云々。そして徐々に本題に入っていく。「ところで、私たちの乗る飛行機は何時ごろ出るのかしら?」。すると、笑顔で情報を教えてくれるのだ。ハナから険しい顔で詰問したのでは、心を閉ざされるのも当然だということに、やっと気づいたわけである。中国における「聊天児」(雑談)の大切さ、それに気づいてからは、仕事も雑談も楽しくなった。
今年は、日中国交正常化からちょうど30年という節目の年に当たり、さまざまなイベントが計画されている。30年前に政府間に始まった関係は、その後、経済分野にとどまらず、あらゆる分野において個人と個人の関係が築かれるまでになった。 いま、北京に住む日本人は、企業の駐在員や中国語を学ぶ人だけでなく、京劇を学ぶ人、音楽学校で教鞭をとる人、環境NGOに参加する人、比較教育学を研究する人、中国武術を学ぶ人等々、実にバラエティに富んでいる。年齢層も80年代当時に比べ、ずっと若くなっている。関係が深まれば深まるほど、ちょっとしたトラブルが生じることもあるかもしれないが、日本と中国にとって、本音で対等に付き合える、今ほど幸せな関係はこれまでなかったように思う。 この関係を大切にし、さらに飛躍させていけば、等身大の日本人、中国人のイメージが日本で、中国で定着する日もそう遠くはないだろう。そのために少しでも役に立てれば、と思っている。 清水 由実
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