移転生活

李小柔

概要

三峡ダムが完工する2009年までに移転住民総数は113万人に達する。すでに移転した住民は72万4000人、大部分がその土地で安定した生活を送っている。こうした大規模な移転によって、経済的に立ち遅れたダム周辺地区に暮らしていた絶対多数の農民の生活レベルは向上した。

今年46歳になる劉安興さんが住んでいた家は湖北省宜昌市の太平村。ダムに最も近く、海抜は72メートル、貯水後に最初に水没した村だ。彼はすでに海抜180メートルのところにある柏樹湾に移転している。一家四人が暮らす新居は二階建てで、面積は240平方メートル。

村は1995年3月に住民移転大会を開き、海抜90メートル以下のところに住む村民に対し1996年12月までに移転するよう求めた。劉安興さんは率先して応じ、同年8月に移転。ほかの30世帯余りも期日以前に引越しを完了した。移転後の生活の変化について劉さんは「土と泥の家だったのが、二階建てに変わった。水道があるので、河に水を汲みに行かなくてすむようになった。交通が便利になり、道路もアスファルトになった。電話はもちろん、衛星テレビアンテナもある」と、新しい生活に満足のようだ。

6月1日、三峡ダムで貯水が始まった。その日、劉さんは以前暮らしていた場所に足を運んだ。「昔の家は水面の下、30メートルのところに水没してしまった……」。

ダム地区に暮らしていた住民の生活も変わった。住民は狭く古い通りから、斬新で清潔な庭園式の団地に移り住んだ。どの家にも都市ガスや電話があり、ケーブルテレビも愉しめる。

70歳になる黄徳金さんもその一人だ。彼女は毎朝6時20分に夫と一緒に広場に行き、ダンスをしたり、太鼓を打ったりするのが日課。黄さんの部屋は3LKで95平方メートル。冷蔵庫にテレビ、ステレオなんでもある。「昔のところと違って、この街はきれいだし、道路も広いし、環境もいい。どこにいてもすがすがしい。家は雨漏りもしないし、トイレもあって、煩わしいことはなくなった」と生活の改善を喜んでいる。

三峡ダムが完成すると、都市が2カ所、県所在地11カ所、鎮116カ所、総面積632平方キロの陸地が水没する。ダム工事で移転する住民総数は113万人と、古今東西の水利プロジェクトで史上最多となる。

移転住民の長期にわたる生活安定のため、中国政府は1993年から円滑な引越しや安定した暮らし、生活の向上を目標に「三峡百万住民移転プロジェクト」をスタートさせた。政府は移転する住民に対し、水没による財産の損失を補償するだけでなく、移転先に電気・水道、環境衛生施設、道路、公共緑地などを確保する措置を講じている。

1993年に移転が始まって以降、ダム地区の交通・生活条件は改善し、また工業・農業構造も調整が行われた。農民は従来の単一穀物の生産から高効率の農作物、優良品種の家禽飼育業に従事するようになり、生活は豊かになっていった。汚染の深刻な小企業を閉鎖したほか、低コストで高収益の環境保護産業を発展させたことで、就業の機会も創出された。

関係機関の統計によると、2003年3月までに移転した住民は72万4000人にのぼる。ダム地区にある21の区・県の2002年の総生産高は1993年より3倍近く増加し、財政収入も2倍強の増。労働者の生活レベルは著しく向上し、移転住民の生活は引越し以前より好転した。

重慶市のサンプル調査によれば、ダム地区農民一人平均純収入は2399元に達し、全市平均を11ポイント上回る。移転住民一人平均住宅面積は41平方メートルで、同10平方メートル広い。 

三峡両岸では、次々と清潔で新しい都市が生まれている。以前の雑然とした街に比べ、移転住民の生活と生産条件は大幅に向上した。

三峡から移転した住民14万人は現在、上海や江蘇、浙江、安徽、福建、江西、山東、湖北、湖南、広東、四川など11の省・直轄市で暮らしている。今後2年の間にさらに2万5000人がこれらの地区に移転する予定だ。

陳虎さんが移転したのは、山東省の維坊市。三峡での生活は貧しく、住まいもひどいもので、30歳過ぎても嫁をもらうことはできず、山東に来た時には着の身着のままだった。維坊に来ると、政府は移転住民一人ひとりに家具やテレビの揃った広い部屋を用意してくれた。市の民生部は花嫁候補を紹介、陳さんは半年足らずの間に結婚した。「政府の素晴らしい政策がなかったなら、今の私はない」と陳さんはしきりに喜んでいた。

政府は移転政策の策定に当たっては住民をできるだけ保護するよう配慮し、全国の経済が発達した豊かな11の省・直轄市を受け入れ先に指定するとともに、専門資金も拠出し、土地を接収して住宅を建て、医療保険や子女の入学などの優遇政策を実施してきた。

だが、住民はどこへ行っても故郷のことが忘れられない。美貴さんは三義村から湖北省の荊江に移転。一家6人には以前よりもかなり多い0.67ヘクタールの土地が分け与えられた。住まいは3LK。雑貨屋を開き、小さな酒工場も造り、酒糟を使って10頭余りの豚を飼育している。収穫時にはこれまで見たことのないコンバインを目にして、長年使ってきた鎌を手放した。易さんはそれでも、やはり眠れないと言う。「古里病にかかったみたいだ。船頭のラッパの音が耳から離れないし、白い帆が目から離れない」。ほかの移転住民も故郷を想う気持ちは易さんと同じようだ。