中国不動産業界の革新家――潘石屹氏

――この金もうけの上手な伝奇的人物はしばしば人々をびっくりさせるような挙動に出、たえず新しい概念、センセーション、争議をつくり出している。

唐元ト

首都空港高速道路から北京に入り、東部の三号環状線か四号環状線に車を走らせると、「SOHO現代城」(SOHO New Town)の最上部が目に入る。SOHOは巨大な実体であり、その住宅概念はその提唱者、開発業者である潘石屹氏により、終始業界内外の関係者と住宅購入者の視線を集めている。

中国の不動産業界では、潘石屹氏はいちばんの金持ちではないが、いちばんよく利潤を獲得できる人である。氏が取締役会長と共同総裁(Chairman&Co-CEO)を勤めるSOHO 中国有限公司(SOHO China Ltd.)も規模最大の企業ではないが、人々をいちばんよく引き付けている。このすこぶる伝奇的色彩があり、中国西北地方の甘粛省から来た中国の第一世代の不動産業者(北京に来た時は若冠27歳であった)は質朴かつ聡明であり、しばしば「人々をびっくりさせる挙動」に出ている。

1990年代、潘石屹氏は現代の中国住宅を考えはじめた。周りに反対の声が聞かれたが、氏と夫人の張欣女史はそれには動かされず、魄力をもって北京の東部地区で「SOHO現代城」を建設した。1996年、オフィスビルと団地が一体となったところで建設にとりかかった時、潘石屹氏は、北京市の福祉による住宅分配制度がまだ取り消されておらず、不動産の市場化がまだまだほど遠いという市場環境に直面していた。不動産市場がまだ計画経済から抜け出していない背景の下で、いかなる「先行」と革新もきわめて大きなリスクを担うことを意味する。

その時、潘石屹氏はSOHO(Small Office Home Office、家庭に設けた小さな事務室)という新しい概念を導入するのは一つのチャンスであることを鋭く発覚した。それは氏が市場の発展と時代の向う方向に対し、情報化時代では、家、事務室、工場の間の機能の限界がますますはっきりしなくなっていると判断したからである。

権威ある機構の行ったあるアンケート調査も潘石屹氏の判断の正しさを実証した。それによれば、未来の価値を決める方向を前にして、73%以上の北京人は、自分のいちばん追求したいのは現代化の生活をし、家で仕事をし、安定した投資リターンを獲得することであると考え、84%の人は現代の生活は生活の多くの方面を含むべきであるが、最も主要なのはやはり自分の生活空間である「家」の現代化であり、「まず現代化した家をもってからはじめて現代化の生活について話すことができる」と考えている。

一歩進んで分析してから、潘石屹氏は目標の対象を決定し、つづいて成功を収める不動産業者の才能を十分に見せ、場所の選択、概念設計と企画から知能化概念の導入、外形の設計に至るまで、「SOHO現代城」は人々の耳目を一新させるものがある。

まず「現代城」は北京に強い視覚衝撃を与えた。それは簡単な線条で大きなドアと窓の輪郭を描き出し、中国大陸部の大多数の住宅が常用する千篇一律と規格化の方式を完全に放棄している。しかも、家屋の外側の壁はいろいろの鮮やかな色に塗られている。それ以前の北京の建物はたいてい色彩がなかった。もっと確実に言えば、主に灰色であった。潘石屹氏は、中国の歴史的伝統がどうであっても、中国人は一日中単調な色彩と環境の中で生活する必要がないと確信した。

「現代城」は北京の国内向け建て売り住宅市場で初めて高級インテリアを実現した。外形設計の最も突出した点はバルコニーの代わりに地面までの窓をつくった。これは当時、北京の住宅では唯一のものであった。

「SOHO」は北京人にまったく新しい生活理念と生活様式をもたらした。家庭にある小さな事務室は居住と仕事の機能を情報技術で結びつけ、中国経済の最も活力のある小型私営企業が急速に増加するという大きな趨勢に順応した。

潘石屹氏は、不動産事業に従事する最も基本的な点は、人の行為から出発し、異なる人にどのような空間をつくってやるかを考慮することであると主張し、「家を建てるのは服をつくるのと同じで、大人は大人のものをつくり、子供は子供のものをつくる」と語った。氏は「現代城」は確かに異なる人の必要を満たせると思っている。

「現代城」を鑑賞する消費者はずいぶんいる。一セットの平均価格は人民元192万元(約24万ドルに相当)、全部で48万平方メートルある住宅はあっという間に売り切れてしまった。売上高は人民元41億元であった。

潘石屹氏は最も売りにくいものを最も売りやすいものに変える腕がある。氏はよくも最も売りにくい家をすぐにも売ってしまい、しかも売り値はおおむね普通の値段より30%も高いものである。その原因は経営者がそれに個性化の概念を与えていることにある。つまり、1階と2階を複式のものにし、それに単独の駐車場と芝生式の花園をつくって、「花園別荘型」と呼んでいる。「あなたの家は一戸建てだから、あなたの家に行く時は広間の門から入る必要がなくなった。」この「強み」によって、これらの家はあっという間に売り切れてしまった。同様に、最も上部の売りにくいセットに対しては、経営者は27階と28階を結びつけ、これも複式の住宅にし、「空中別荘型」と呼んでいる。上は給水塔やエレベーターの機械室などいろいろのものがたくさんあるが、その周りも芝生にして、一軒に100平方メートルずつプレゼントしたので、値段も高くなった。

いま建設中の「建外SOHO」(Jianwai SOHO)の建設設計の手法は迷宮のように通りが走り、いたるところに小さな広場、随意に上下できる2段式の花園、小さな橋、くねくねと曲がった通りがあり、見上げるとどこもかしこも高くそびえるガラス張りの建物である。「それは混合した都市の雰囲気を展示し、一つの団地で生活、仕事、娯楽、レジャーなどいろいろの活動を行うのができるようになった」。潘石屹氏によると、当初「現代城」を建設する時より多く考慮したのは一つ一つのセットをいっそう中性につくって、仕事をすることもできれば住むこともできるようにすることであったという。「建外SOHO」を計画する時考慮したのは小都市のシステム全体であった。

その他の開発業者の指導思想がまだ土地を手に入れたあと、どのような種類の家を建てるかにとどまっていた時、「建外SOHO」の設計と理念は明らかにこの段階を超えて、70余万平方メートルの都市の中心地帯でまったく新しい実験をすることであった。

他の不動産開発業者が品質問題で所有者と悶着している時、潘石屹氏は「理由なき住宅返却」の承諾を提出した。

氏の言い方によれば、開発業者は住宅を売るだけではなく、より重要なのはアフターサービスである、「このサービスは表面上のいんぎんさを指しているのではない」。氏は生命力のある企業は製品の質を見るだけでなく、より重要なのはサービス意識である。これは理由なき住宅返却を提出した根本的原因であるとしている。

いままでに、住宅を返却したのは10戸足らずである。住宅を返却したある人は「どうしても金を別のところに使わなければならなくなった」ので、「割愛」せざるを得なかったと言っている。しかし、彼は住宅返却は「あまりにもたやすい」と言っている。手続きもサインするだけでよく、関係部門に家屋所有証明書を返却するなど他の手続きがみな企業がやってくれるからである。

投資家、開発業者として、潘石屹氏は「現代城」プロジェクトの最大の強みはその価値増大の潜在力であり、場所、交通、設計、地域社会の知能化などが価値増大の欠くべからざる条件となっているとくり返し強調している。

「現代城」は「透明な」価格解釈策略をとって、その「価値増大の売りどころ」を非常に力強く表わしている。この売りどころをめぐって、経営、画策する人は買手のためにはっきりした家賃リターン率(家屋売却後の家賃レベルと住宅代金回収速度の指標)を設計し、説明する。

潘石屹氏はリースサービスを開発業者の提供する「終極的サービス」としている。「ある不動産の真の価値は販売を通じて体現するのではなく、リース市場におけるその状況を見なければならない」。というのは、家屋の売り値はいろいろの要素の影響を受けるが、家賃リターンレベルはこのプロジェクトの価値を最も真実に反映する要素であるからだ。そのため、「現代城」はいちばん早く不動産企業の中でリース部を設立し、一方では不動産購入の投資家と積極的に連絡し、当面のリース市場の状況を通報し、他方では多額の広告代を注ぎ込んで、北京の各大手仲介企業と密接に協力し、積極的にリース市場に推薦、紹介している。

いまから見て、投資家は「現代城」の不動産を購入した人の約半分を占め、一定の規模に達している。いま、現代城マンションの毎月の家賃レベルは平均1平方メートル10〜20ドルであり、投資家の投資リターン率は10〜20%に達している。同時にアフターサービスとすかさず所有者とリースする人の要求をフィートバックすることは、不動産業サービスの質をかなり高め、より多くのユーザーを引き付けている。

潘石屹氏は、企業にとって最も重要なことは市場に適応することであると見、企業は「水のように液態のものになるべきだ」と提唱している。氏によれば、市場が四角いものであるか丸いものであるかをとわず、または急須のようなものであっても、いずれも中に水を入れることができ、しかもすべてのすきまを満たすことができる。「企業の状態が固体のものであったら、市場は丸いものから四角いものに変わり、四角いものが平たいものに変わってしまうかもしれず、そうすると企業は必ず失敗する。中国の多くの企業の発展はこの点を立証している。」

氏はたびたび、市場経済条件下でプロジェクトを実施するのはとても簡単であり、「プロジェクトを選ぶ時、製品の質がいいかどうか、ユーザーにとって便利、快適であるかどうか、未来の発展の趨勢に合うかどうかという三つの問題を見れば、決定できると指摘した。多くの開発業者の頭を痛める問題は、潘石屹氏から見てさほど複雑なことではない。氏は自分なりの考えの筋道がある。まず人と市場の需要を基本的に理解、把握し、しかるのちにこの都市の計画を調べ、つづいて市場へ行って、使える資源がどれだけあるかを見れば十分である。

事実上、潘石屹氏はまさに市場という海洋で「泳ぎ」を覚えたのである。

早年の創業段階では、氏と数人の意気投合する友人が「特別区」海南の土地不動産の市場潜在力を発見し、利子が20%で、成功した暁は利潤を対等に分けるという条件で北京のある企業から500万元を借りた。金を借りてから、彼らは1平方メートル3000元近くの値段で8棟の別荘を買った。この8棟の別荘は1992年1年だけで4、500万元もうけた。

またその年に、潘石屹氏は海口企画局で調べた結果、北京市の当時の一人当たり住宅面積は7平方メートルであったのに対し、海口市のそれは50平方メートルにも達していることがわかった。多額の資金がこの開発中の土地に流れ込む状況の下で、潘石屹氏はその協力仲間を説得して引き揚げていった。「海南は貧しい市場だから、これだけ大きな購買力がない」。氏は5万元の出張費をもらって北京に来た。2、3日後、氏は営業許可証を入手した。当時、氏は北京にあるいくつかの大型立体交差橋の名前さえ知らないのに、あちこちへ行って土地を探した。ある人はある土地を氏に紹介した。氏はその土地を見て、下に地下鉄が走っているので、わるくないと思い、それを買って「万通新世界広場」をつくり始めた。その後、この広場は『北京不動産』誌によって「1994年の傑出プロジェクト」に選ばれた。販売の成功で、潘石屹氏は英才の多勢いる北京で頭角を現し始めた。

国務院が最近下達した「不動産市場の持続的、健全な発展促進に関する通達」(18号令と略称)に言及すると、潘石屹氏は支柱産業、市場化という二語にその通達のマクロ精神を概括的にまとめた。

潘石屹氏は、「通達」は初めから国民経済の支柱産業としての不動産業の地位を確立し、同時に不動産市場発展の指導思想をいちだんと明確にしているが、これは政府が今後不動産業の発展に対し、計画調整ではなくて、市場化という基本的方向を堅持することを表明していると語り、この基本的方向を堅持し、不動産市場体系をたえず整備し、資源配置における市場の基本的役割をより大きく発揮しなければならないと見ている。

中国の不動産状況に基づいて、潘石屹氏は住宅をもっている人のために住宅を建ててやってこそ住宅をもたない人ははじめて住宅をもてるようになると見ている。「住宅改革を行わず、住宅所有者に所有権がなく、中古住宅市場をつくらなければ、住宅は市場で取引することができない。」そこで氏は「80平方メートルの住宅に住む人が120平方メートルの住宅に引っ越し、50平方メートルの住宅に住む人が80平方メートルの住宅に引っ越すなら、50平方メートルの住宅は住宅をもたない人の住宅問題を解決することができ、そうすれば市場は活性化するのではないのか」と問いただした。氏はさらに反証を例挙した。「いま、カラーテレビ、コンピューターが急速に更新されており、そういう時に白黒テレビさえ見れない人がまだいるからと言ってそれを生産すれば、それは後退であり、社会に対し責任を負わないことである。」氏は、低所得者を優遇する「経済的な適用住宅」の建設ばかり強調すれば、貴重な土地資源を浪費し、市場の法則にも背くと見ている。

「上海の中古住宅市場は北京よりずっとよい。」最近上海へ行って取引をしたあと北京に戻った潘石屹氏は「カギは上海の市場化程度がもともと北京より高い」と語った。

国際大都会としての上海の地位とその影響から、潘石屹氏はとても上海へ行って発展をはかりたいと思っている。しかし、氏は地代が高すぎ、場所がよくないので、交渉がうまく行かなかったと不満をこぼしている。

潘石屹氏は自分たちの世代の開発業者の責任が最も重いと思っている。氏は「都市の姿および数世代の人の居住空間と環境は、かなりの程度において、われわれに頼って型を決めなければならず、立ち遅れたゴミのような家屋をこれ以上建ててはならない」と語り、また強大な生命力をもつ建築風格を独創することは氏が役人に残す最も貴重な遺産になるかもしれないと語ったこともある。