宇宙飛行人物

中国の有人宇宙飛行プロジェクトは中国の宇宙飛行事業の規模が最も大きく、システムが最も多く、最も複雑なプロジェクトであり、かかわる分野が非常に多く、総体的には宇宙飛行士システム、応用システム、宇宙船システム、ロケットシステム、打ち上げ地システム、モニタ通信システム、着陸地システムの7大システムに分けている。この7大システムの中に、優秀な宇宙飛行士が大勢おり、ここではその中の3人を読者に紹介する。

楊利偉 中国の有人宇宙飛行の最初の宇宙飛行士

楊利偉氏は1965年6月21日、遼寧省綏中県のある教師の家庭に生まれた。姉と弟が一人ずつおり、一家5人は睦まじく、のびのびとして静かに暮らしている。

1983年の夏、楊利偉氏は入学試験にパスし、中国人民解放軍空軍第八飛行学院に入学した。同学院での4年の学習では、氏の学習訓練成績はずっと非常に優秀であった。

1987年、楊利偉氏は同学院を卒業し、空軍某師団の攻撃機操縦士となった。

1996年初夏、身長1.68メートル、体重65キロの楊利偉氏は宇宙飛行士の体格検査に参加し、各種のチェックに次々と順調にパスした。体格検査を受けた人の中で、氏は最も幸運であり、また最も優秀であった。氏の臨床医学と宇宙飛行生理機能の各種検査の指標はいずれも優秀であり、審査委員会の専門家は全員これを信用した。

1998年1月、中国最初の宇宙飛行士の一人として、楊利偉氏は夢想と追求を携えて、北京宇宙飛行士トレーニングセンターに来た。

楊利偉氏の戦友、胡岳彪氏は、楊利偉氏は生まれつき飛行士になるのに向いており、生活習慣がよく、タバコを吸わず、酒を飲まず、受け入れ能力が強く、スポーツで体を鍛えるのが好きである。飛行学院で飛行を学んだ時、氏の理論知識、身体素質、心理素質はクラスの中では抜きんでたものであると評価した。

楊利偉氏がクラスメートに与える印象は、成熟し、穏重で、心理素質がとくによい、というものであった。胡岳彪氏は、楊利偉氏は心理「早熟」の部類に属すると回想する。1985年の夏、彼らはパラシュート降下訓練に参加したが、空中の風速が速すぎたため、楊利偉氏ともう一人のパラシュートが空中で重なって、状況が非常に危急であった。地上の指揮員は慌てて大きな声をあげたが、楊利偉氏は少しも慌てず、落ち着き払って冷静に操作し、速やかに危険な状態を脱して、無事着陸した。

楊利偉氏の体力づくりの習慣はとぎれたことがなく、バスケットボールをよくやり、テレビがアメリカのNBAバスケットボール試合を中継する時は、飛行に影響しない限り、必ず観た。普段はよく飛行場近くの山に登って体を鍛えた。高さ800余メートルの山腹を、十数分で走って登り下りできた。

徐万華氏は楊利偉氏所在の連隊の連隊長になったことがあり、氏は「楊利偉氏の飛行事業心がとくに強く、宇宙飛行を夢見るのを一刻もやめたことがない」と一言でしめくくった。

かつて楊利偉氏と一緒に宇宙飛行士選抜に参加した孫華培氏は、当年の体格検査を回顧して、感慨深げにこう語った。その年、わが連隊では6人の飛行士が初選に参加したが、楊利偉氏は2000人近くの飛行士から選ばれて、中国第一世代の宇宙飛行士12人の一人となった。楊利偉氏はわが空軍飛行士の傑出した代表である。

楊利偉氏は地球に戻ったあと中央テレビ局記者のインタビューに応じた際、宇宙で食事をし、睡眠する状況はわるくなく、いちばん疲れたのは十数時間飛行した時であったが、それでも飛行時間をもう少し延ばすことができたらよかったと思う。帰還船が着陸した時、とても大きな衝撃を感じたが、心の中ではとても喜んだ。というのは、自分がまたも地球に戻ったからだ。氏は心から祖国のために誇りを感じた。

楊利偉氏は、飛行の全過程では、緊張や恐怖のことを考えなかった。というのはずっとプロセスを考え、操作していたからだ。宇宙に滞在した時の感受をしめくくって、今後のために経験を積むと語った。

王永志 中国有人宇宙飛行プロジェクト総設計士

王永志氏は1932年11月17日、遼寧省昌図県に生まれた。1952年、入学試験にパスして清華大学航空学部飛行機設計学科に入学した。1955年、モスクワ航空学院に留学し、飛行機設計とミサイル設計を専攻し、1961年同学院を卒業した。氏はロシア宇宙飛行科学院の外国籍アカデミー会員、国際宇宙飛行科学院と中国工程院のアカデミー会員である。かつては中国運搬ロケット技術研究院院長として、6種類の新型ロケットの開発と製造を指導、主宰したことがあり、国家科学進歩賞特等奨1回、一等賞2回を獲得した。1986年は「863計画」有人宇宙飛行プロジェクト研究グループの組長に就任し、いまは中国有人宇宙飛行プロジェクト総設計士である。

王永志氏は1986年から有人宇宙飛行の研究にたずさわり、1987年中国に有人宇宙飛行分野の専門家委員会が設置された時、氏はその7人のメンバーの一人であり、みなと一緒に有人宇宙飛行発展計画を研究した。1992年1月から有人宇宙飛行の経済技術実行可能性論証を始め、論証のあとは立件準備段階に入った。1992年1月17日、氏は有人宇宙飛行プロジェクト経済技術実行可能性論証グループの組長となり、同年8月1日、上級の関係部門は発展計画に全面的に同意し、同年9月21日、党中央は論証報告を聴取した。こうして、プロジェクトがようやく決定された。これはつまりいまの「中国有人宇宙飛行プロジェクト」である。

王永志氏はこう語った。「実際に言って、私は最初宇宙飛行の仕事をやることなど考えたことがなかった。1952年高校を卒業した時、私は清華大学航空学部を選んだが、これは私の生涯の中で非常に大きな転換点であり、その時から航空と宇宙飛行の道を歩み始めたのである」。

生涯の宇宙飛行コンプレックスを回顧して、王永志氏は次のように語った。「有人宇宙飛行プロジェクトはとても複雑、困難なものであるとはいえ、それ自体は私の各方面の発展を促す作用がある。誰も自分自身の成功を望んでおり、このような理想をもっている。しかし、この目的を達するのは容易なことではない。個人の努力はもちろんだが、仕事の環境、チャンスもとても重要である。私がこのようなチャンスにめぐり合えたのは思いも寄らないことである。私個人から言えば、私はこの仕事がとても好きだ。この仕事に執着し、自分の利益を犠牲にし、力を集中して仕事をりっぱにしとげることができる。中国人がこれほど多くいるのに、強大になれないのはなぜか、中国人の一人一人が大いに努力するなら、その力はどれだけ大きいものになるかとよく考える。いつの日にか、わが国の国防が強大になる。私はずっとこのような信念を抱いている。だから、私にどのような任務を渡されても、それを立派に果たすように努力する」。

しかし、氏は「この仕事はハイテクの仕事で、リスクが大きく、同時にとても重要かつ貴重なものであるため、失敗、挫折するのをとても心配し、いつもびくびくして、少しもおろそかにできない。やり終えたあとは何回も検査、回想して、問題があるかないかを調べ、何回もくり返したあと、やっと安心できる」とも率直に語った。

氏はまたこう語った。「有人宇宙飛行プロジェクトをいままでやってきたのは、並大抵なことではない。どの一歩を踏み出すのも大変であった。われわれは先輩の宇宙飛行関係者の足跡に沿って進んできた。有人宇宙飛行は中国のすべての宇宙飛行関係者の願いであり、私の最後の願いでもある」。

氏はさらに言葉をつづけた。「いま私の最大の希望は中国の有人宇宙飛行、中国の宇宙事業により多く貢献するため、あと数十年余計に仕事をやることだ。実際に言って、われわれの世代の宇宙飛行関係者はみなこのような願いをもっている。宇宙船をつくって、われわれ中国人を宇宙に送り込む願いもとても強いものである。宇宙は際限のないものであり、宇宙を模索し、開発する仕事を期限のないものだ。私の最大の願いはより多く仕事をして、われわれの事業をいちだんと前へと推し進めていくことである」。

袁家軍 中国有人宇宙飛行プロジェクト「神舟」宇宙船総指揮

今年41歳の袁家軍氏は目に光があり、体がまっすぐ伸び、若く、才能が人に優れ、おおらかで、腕がさえている。若いが、肩書をたくさんもっており、国際宇宙飛行連合会副議長、中国空間技術研究院院長、全国十大傑出青年、中国有人宇宙飛行プロジェクト「神舟」宇宙船システム総指揮はその中のいくつかである。

袁家軍氏は理想を口にするがあまりなく、激昂することもあまりない。方向を見定めて一歩一歩と着実に進んで追求する。氏は中国最初の人工衛星「東方紅一号」が打ち上げられた時から宇宙飛行の夢を見るようになった。1980年、袁家軍氏は大学入試を受ける時、志望校は「北京航空学院」一つだけ、学科は「飛行器設計」一つだけしか書かなかった。氏の願いはかなえられた。1984年、氏は中国空間技術研究院の飛行器設計大学院生となった。1989年はドイツ宇宙飛行科学院力学研究院へ行って研修した。1990年に帰国してから、構造室副主任、衛星の型の主任設計士となり、主として中国の宇宙飛行器総体構造の設計作業を担当した。1995年は「神舟」宇宙船常務副総指揮になり、2002年10月、満40歳にもならない氏は国際宇宙飛行連合会副議長に当選した。

袁家軍氏は「成功で祖国に報い、卓越したことをして輝きを放つ」という格言がある。氏は完全無欠を主張し、そのように努力する人で、どの仕事に取りかかっても、事前に真剣かつきめ細く準備する。中国空間技術研究院有史以来の最大プロジェクトである北京空間技術開発テストセンターの「大管理人」をりっぱに務めるため、また中国有人宇宙飛行プロジェクト「神舟」宇宙船開発の指揮者をりっぱに務めるためには、自分の知識がまだ足りず、大いに「充電」しなければならないと思った。そのため、氏は戚発?氏らベテラン科学者からむさぼるように知識を学び、管理を学んだ。当時、氏の事務室では電燈は深夜までともされ、その下で氏は各種の技術資料を調べた。

袁家軍氏はだんだん仕事に打ち込むようになった。宇宙飛行基地の建設規模が大きいこと、要求が高いこと、建設項目が多いこと、時間がきついこと、施工の協調が難しいことは、前例を見ないものである。しかし、袁家軍氏はこのような状態を前にして慌てない。なにごとも世界一流のレベルに照準して、りっぱにやりとげる。これは氏の性格である。1996年9月28日、ついに中国宇宙飛行史上初めての帰還船をつくり上げた。

袁家軍氏は多くの名言があり、よく口にするのは「成功こそ真骨頂である」、「使命は困難だからこそ光栄であり、生命は奮闘するからこそ精彩である」の二句である。