北京の観光知識(十二)

北京の胡同

 初めて北京に来たお客さんであろうと、または長い間都を離れていた人であろうと、きっと暇を見つけては、北京の風韻にあふれる小さな胡同(路地)を連れと一緒に気のむくままに歩き回ったり、あるいは自転車か輪タクに乗って遊覧して、古都の雰囲気にひたり、はるか昔の胡同への思いを追懐したりするものと信じる。

 『胡同の景観』と題するこの画集は、とりもなおさず異なる側面から古都北京の胡同のもつ独特な魅力を展示し、胡同をめぐるいろいろの不思議な物語について述べている。

 「胡同」は都市の幹線道路を貫通するネットワークであり、中国のその他の都市では一般には「坊」、「里」、「弄」、「巷子」などと称されているが、北京だけが小さな路地を胡同と呼んでいる。

 北京の胡同の起源は、元代の大都城の建造にまでさかのぼる。

 1215年、ジンギス汗の率いるモンゴルの軍隊は、火を放って金朝の王宮を灰燼に帰させた。その後、ジンギス汗の孫、元の世祖フビライは、かつて金朝の中都であった燕京に来て、その北東郊外の水域のほとりに内裏の「霊囿」および隆福、興聖の三つの宮殿を再建し、この三つの宮殿を囲むようにして城壁を築いた。これはその後皇城と呼ばれるようになった。これを中心として、鐘鼓楼を北側の起点とし、南の城門に至る都市の中軸線を確定した。全城に南北と東西に走る九本の幹線道路を建設して、九経九緯の枠組みをつくり、これを基礎として、都市住民の暮らしがたえず変化するにつれて、碁盤のように四角く整然とした胡同が形成された。

 北京の胡同と四合院(四角形の庭を囲んで、東西南北の四面にある四棟の建物で構成される住宅)は、歴代の北京人が身を寄せるところであり、北京人は胡同と四合院を離れることができず、胡同と四合院も、歴代の北京人のたえず変化する生存条件の下で、たえず進化、発展、変化した。

 胡同にあるさまざまな人物、あらゆる生業、住宅や通路などは北京人が先祖代代生活の中でつくり出した北京の風韻をもつ文化を具現している。北京の胡同をのんびりと歩き、独特な視角で胡同の現在と過去を注意深く見る時、あなたの精神と感情が新しいものと古いものを介して通い合い、沈殿した往事ので昇華する時、きっと気分が広々として爽やかになり、いろいろのことを思い浮かべ、遊覧の興味が倍増するであろう。

 北京の胡同をやっくり遊ぶ

 北京城は完全に中国の伝統的哲理に従って企画、設計、建造されたもので、細かいところでも王権の威厳および市民文化の状況を具現している。

空から鳥瞰すると、紫禁城を中心に、永定門から鐘鼓楼に至る全長7.8キロの南北中軸線が見える。南北中軸線に合わせて、南北に延びる大通りがあり、東西の方向には、あまたの胡同が碁盤のような街道ネットワークをつくり、また城楼、壇台、廟宇、古い王府などは豊富多彩な街道の景観を織り成している。

北京の小さな胡同を歩き回ると、大観園(『紅楼夢』に描かれた華麗な庭園)に入ったような感じがする。例の古びた仏寺の白塔の下に静かな長い路地があり、胡同の中にある門楼、目隠しの塀、門の土台石は一般庶民の家を飾り立て、いくつもの池にまたがっている銀錠橋は、昔のいろいろのことについて話しているようで、道の両側に高くそびえる古樹は、胡同の古い歴史を証明している。

 北京の小さな胡同を歩き回ると、多彩な画廊に入ったような感じがする時もある。朝と夕方、晴れた時と雨の降る時、春夏秋冬の景色が変わる中で、古都の独特な風韻を展示している。

 北京の小さな胡同を歩き回ると、博物館に入ったような感じがする。その豊富な文化の蘊蓄は人々を賛嘆させるばかりである。胡同両側の住宅の表門の形はさまざまである。壁が白く塗られ、八の字の形をしており、門が大きく、漆が塗ってあるのは、役人と金持ちの邸宅であり、表門が軒を支える柱の間にあり、門わくの両側は煉瓦の壁で、門の上にある横木の両側に「吉祥如意」を喩える如意の図案を彫った煉瓦が飾ってある。この門は大きさと高さがまちまちで、住人も千差万別である。胡同の最も小さな門楼は、庭を囲む塀の口の開いているところにつくられた塀式の表門で、隨墻門とも呼ばれている。この種の門楼は塀と連なり、門の上にある横木、屋根、屋根の棟の飾りはいずれもわりに簡単、素朴なもので、小型の四合院と三合院(四合院のうち倒座という南側の建物がないもの)の表門であり、住人はたいてい一般庶民である。このほか、胡同両側の表門の内外にある土台石、目隠しの塀、煉瓦彫刻、石刻などは、なおさら豊富多彩で、静かを胡同の中で長い間風雨にさらされ、世の移り変わりを残らず経てきている。

 北京内城北西部の地名は、朝天宮、馬市橋、四牌楼、毛家湾、蒋養房および火薬局胡同胡同などと多彩である。その実、この一帯にはそれよりも珍しく、不思議な胡同の名称もたくさんある。例えば、三不老胡同、針尖胡同、十八半截胡同、大月芽胡同などがそれである。その他の地区の胡同の名称にもっと面白いものがある。悶葫蘆罐胡同、耳朶眼児胡同、九道湾胡同、小椅子圏胡同、車道溝胡同はそのいくつかの例である。これらの胡同は一般には当時の地形、地貌および実際の状況に基づいて命名されたものである。これら口から出まかせの胡同の名称は、通俗的でユーモラスな北京風の言葉でもあれば、最も原始的で最も北京の特色をもつ胡同の名称でもある。

 このほか、胡同に住んだ有名人や歴史的出来事などにちなんで命名された胡同も一部分ある。例えば、三不老胡同は明代に七回も南洋に行った三保太監の鄭和がかつて住んだことがあるためにつけられた名称で、「三保老 」がなまって「三不老」となったにすぎない。霊境胡同は、清代の林清蜂起が王朝を震撼したので、人々はこの史実を記念するため、「林清」の発音をもじって「霊境」という名称をつけたのである。また一部の胡同はもとの名称が奥ゆかしくないために、その発音をもじって別の名称をつけたものもある。例えば、「小唖巴」を「小雅宝」に改め、王寡婦を「王広福」に改め、鶏罩を「吉兆」に改めるなどがそのいくつかの例である。

 これら胡同の名称の来歴を知ってから、さらに胡同の実景を映した写真と対照してみれば、北京の胡同に含まれている地域的特徴と豊富な文化の蘊蓄をおよそ会得することができるだろう。

四合院の門を開ける

 北京の胡同と四合院は古い北京のシンボルである。

 胡同の中に並んでいる四合院に入ると、静けさを感じ、安らぎを覚える。これは古い北京人にとって理想的な「安楽なねぐら」である。四合院は大きいものも小さいものもあるが、いずれも周りが高い塀に囲まれて、すっきりした庭がある。ほかならぬこの温かく、荘重な四合院で、礼儀と家庭のしつけを重んじ、濃い伝統的文化の内包をもつ北京人が次々と育てられたのである。

 北京の胡同に大小さまざまな四合院があり、大きいものは王府(王族の邸宅)、大宅門(大きな屋敷)があり、小さいものは三合院、大雑院(一つの庭を囲んで立て込んだ建物に何世帯もの家族が住んでいるところ)などがあり、これらの四合院は互いに影響し合って発展し、多彩な胡同の景観をつくり出している。黒い煉瓦と灰色の瓦、白い階段と赤い大きな柱、曲がった廊下は静かで、建物は朝焼けと夕焼けで赤く染まり、庭を囲む高い塀は通りのやかましさを遮り、庭に植えた木や花は、小さな庭に生気をもたらしている。旧城の改造につれて、新しい北京、國際化した大都会が形成されつつある。地震の時避難する小屋や小さな炊事場を建てて、昔の不揃いではあるが趣のある小さな庭が立錐の余地もないものになった。古い塀は歳月が経つにつれて、外側がはげ落ちて平らでなくなり、正門も原形をとどめないほど壊れている。しかし、人々は喜ぢにあふれて新居に引っ越す時、この隅から隅までよく知っている古い庭、古い胡同に対し、また数十年ないし数百年も暮らし、いくたの艱難辛苦をなめたところに対し、どうしても離れがたい気持ちになり、懷旧の涙を流す時さえある。

 海外在住の北京人は、肌寒い秋の明月が昇り、星がきらめく夜、独り立っている時、以前住んだ家のまだらになった煉瓦の壁、広く明るい通路、静かな胡同を思い出すと、感概を覚え、名残を惜しむのはよくあることだ。

 各地に漂泊している遊子たちは、帰ってきたらいい。往年の旧居を見たり、今日の新しい北京を見物したりしたらいい。北京に来たことのない世界各地の賓客も、北京に来て参観し、胡同や四合院で、昔から伝わってきた民俗の美談に耳を傾け、東方文化の情趣を味わうのもいいだろう。

市井の風情を味わい知る

 長い歴史をもつ文化の古都北京には、この上なく精美な宮廷建築もあれば、柳や槐の木におおわれた胡同および四合院に住み、胡同を行ったり来たりする北京の風儀に富む北京人もある。

 「東富西貴」、「南賎北貧」。これは百余年前の清代の北京城の住民に対する概括である。「東富」とは金持ちの商人と紳士がみな東城(北京城内の東側)に住んでいることを言い、西貴とは西城には清朝の高位高官の名望家が大勢住んでいることを指し、南賎とは南城に卑しい人と見られた民間芸人と組織されていない勤労者が大勢住んでいることを言い、北貧とは北城の交通が不便で、住んでいる人がたいてい満州族八旗の北京城を守備する兵士の子孫であり、彼らの暮らし向きがわるくなる一方で、ますます貧しくなっていることを指す。1911年に辛亥革命が決行されてから、「東富西貴」に変化が現れた。軍閥の混戦で実権を握った新しい高官と貴人は大多数繁栄しつつある東城に住むようになった。例えば、朝陽門内北小街の吉兆胡同に国務総理段其瑞の花園があり、東四十六条の流水巷に北洋元老徐世昌の邸宅があり、鉄獅子胡同に外交総長顧維均の私邸がある。孫文も北京に来た時にそこに泊まった。一部の金持ちの商人は商業が繁華な西単、西四一帯に引っ越していき、庭の手入れをしたり、門楼を飾り立てたりして、西城の一部の通りや胡同に「富む」兆しを出現させ、「西富東貴」という新しい枠組みを形成した。南城と北城に住んでいるのは相変わらず一般庶民であった。今日では、海淀区にハイテクと文化・教育関係者が集中しているほか、その他の各区ではたいてい各方面の人が雑居し、多くの有能な人が集まって、団結して仲よく付き合っている。

 今日、北京で暮らしているのは正直、善良、熱情的、豪快な新しい北京人である。朝、数百万もの人が自転車やバスに乗ったり、マイカーを運転したりして、それぞれ自分の仕事場へ行き、夕方には胡同の中にある家に帰ってきて、家事をやり始める。月夜に、胡同の街灯の下で老人たちが集まって将棋をさし、ほかの人もたかって観戦し、広い空地では、人々が武術を習ったり、ヤンコーやスクエアダンスを踊ったりする。また庭から北京情緒たっぷりの胡弓の音と耳馴れた西皮、二簧の唱(うた)が伝わってきて、古い伝統と現代都市のリズムを一つに融け合わせる特もある。