民主についてのいくつかの考え

中国人権研究会名誉会長 朱穆之

 民主は形式だけを見るべきではなく、実質が大事である。

 人びとが民主を求めるのは、自分の要求や利益を追求し、実現するためである。人びとが自分の要求や利益を追求し、実現することができない時は、民主を勝ち取るために動くだろう。そのため、民主はいつでも人びとの要求や利益につながっている。人びとの要求や利益につながり、合致するかどうか、これは民主の実質である。人びとは自分の要求や利益と関係がないかあるいはそれに背く民主を必要としない。人びとの要求や利益と関係がないかあるいはそれに背くいわゆる民主は形式的な民主あるいはにせの民主にすぎない。

 新中国成立前、人びとが民主を求めたのは帝国主義、封建主義、官僚資本主義に反対するためである。清王朝も末年にすこしばかり民主をやろうとしたいが、それは帝国主義に反対するためではなく、なおさら封建主義に反対するためではなく、自らの反動的支配を維持するためにすぎなかった。そのため、いわゆる民主はまったく人を欺くものであった。清王朝はついに民主を求める人びとに覆された。国民党もかつて民主などをさかんに宣伝したが、それは帝国主義、封建主義に反対するためではなく、官僚資本主義を大いにやるものであり、その後抗日にも反対し、いい加減な気持ちで抗日した。これは抗日戦争期になっても人びとが終始民主を求めた原因である。抗日戦争勝利後、国民党は内戦に反対し、平和的に建国するという人民の要求にまったく背き、国民大会とか総統選挙などのいわゆる民主をやったにもかかわらず、最後にはやはり民主を求める人びとに見放された。

 中国共産党は創立の時から終始民主の旗印を高く掲げ、革命根拠地であくまで民主を実行した。これはつまり終始人民の要求にしたがって、断固たる態度で帝国主義、封建主義、官僚資本主義に反対し、抗戦し、抗戦勝利後は、平和的に建国し、内戦に反対することを主張して、人民の支持を得た。これは中国共産党が革命の勝利をおさめた原因である。

 新中国成立後の人民の要求は、中国の特色ある社会主義を建設することである。これは中国人民が長期にわたる苦難に満ちた闘争を経、大きな犠牲を払って選択した道である。この道が正しいものであり、「中国を救えるのは社会主義だけであり、中国を発展させることができるのは社会主義だけである」が実践によって証明された。そのため、中国の特色ある社会主義を建設するという人民の要求に従うかどうかは、中国の民主の実質である。

 社会主義を建設するには、民主を実行しなければならない。ケ小平氏は「民主がなければ、社会主義がなく、社会主義現代化がない」と述べた。というのは民主がなければ、人民の要求に従って、社会主義を建設することができないからである。社会主義を建設する過程でも、民主を実行しなければならない。なぜなら、社会主義建設が人民が自身の利益をはかることでもあれば、できあいの青写真もなく、その間にいろいろ予想できない問題と困難にぶつかり、いろいろな曲折が現れるからである。民主を実行してのみはじめて人民の知恵と力に頼り、社会主義の方向をしっかりと把握することができるのであり、またはじめて人民の積極性と能動性を引き出し、心と力を合わせて、社会主義建設を進めることもできるのであり、たとえ誤りや挫折が生じても、容易にそれを発見、是正し、できるだけ速く正しい道に戻ることができるのである。これは中国が社会主義建設の中でさまざまな困難を克服して大きな成功を収めた原因である。

 民主を西側の民主の形式、例えば多党選挙、二院制、三権分立などを実行することだと見なし、人民の要求と利益に従い、それを実現するかどうかを問わない人がいる。これは形式主義の民主である。西側の民主の形式を実行しさえすれば、民主を実現することができると見る人がいる。これは実際に合わない。中国もかつて西側の民主の形式を模倣したことがあるが、もたらしたのは民主ではなくて、内乱であり、人民の要求と利益に完全に背くものであった。中国だけでなく、西側の民主の形式を模倣する発展途上国もたくさんあるが、人民の要求と利益が実現したかどうか。

 民主の形式はもちろん非常に重要であり、民主の実行に影響を及ぼす。しかし、各国の状況が異なっており、民主を実行する形式も必然的に大きく違ってくる。一体どんな形式がよいのかは、最終的には民主を真に実現できるかどうか、つまり人民の要求と利益に本当に従い、それを実現できるかどうかを見なければならない。ある種の民主の形式の実行を求めるだけで、人民の要求と利益を実現するかどうかを重視しない、つまり形式だけを重視して、実質を重視しない、こうした観点は極めて大きな欺瞞性と危害性があり、人びとに真の民主とにせの民主の区別をはっきりできないようにしている。このような観点を極力鼓吹する人ははっきり認識していないのでなければ、下心をもっているのである。

 西側の一部の人は、中国が不民主であると非難しながら、中国の経済がめざましく発展していることを認めざるを得ない。これらの人は不民主がなぜ経済を持続的かつ快速に発展させることができるのかを解釈することができない。そこで持続的かつ快速に発展させることができる原因は不民主にあり、民主を犠牲にして経済の発展を手に入れたのである、または専制を実行した結果だという結論しか引き出すことができない。このような言い方は明らかにでたらめきわまるものである。アメリカの国務省はそのようにしている。同国務省は2001年、2002年に発表した人権レポートの中で、中国では専制の実行は「主に社会安定を守る能力に頼り、……約13億人口の大部分の人の生活レベルを絶えず向上させている」と非難した。ここでは、中国の経済発展が、社会を安定させ、人民の生活レベルをたえず向上させることは反民主の恐ろしい手段となっている。

 実際に言って、道理は複雑でない。民主こそ一国の経済を持続的に発展させ、繁栄させ、人民の生活を改善することができ、専制は必然的に一国の経済を停滞させ、衰えさせ、人民の生活を苦しくする、たとえ一時的に少しばかり発展をとげても、それは広範な労苦の大衆を損って労せずして利益を得る少数の人を肥やすだけで、長く続くのが難しく、最終的には失敗する。これは普遍的な真理であり、中国もその例外ではない。西側の一部の人は中国で実行しているのが民主であることを認めたくないだけである。中国で実行している民主は西側の民主と同じではなく、社会主義の民主である。西側の一部の人は民主が西側にしかなく、そのほかはすべて不民主であると見ており、よしんば社会主義民主がすでに中国にめざましい発展をもたらし、全国人民の生活レベルが絶えず向上しても、これが民主によるものだということを否定するのである。

 大衆路線は中国の民主路線であると言える、それはすべての活動が従わなければならない路線である。大衆路線は人民大衆が社会の主人公であり、限りない知恵と創造力を持っているという思想認識の上に確立されている。それはすべてが人民大衆のため、すべてが人民大衆に頼ることを要求している。これはつまり政策を制定、実施する時、大衆の中から大衆の中へを実行しなければならないことである。まず大衆の意見を幅広くて十分に聴取し、これらの意見を集中して政策に変え、それから再び大衆の中へ持って行き、実践の検証を経て、改正、補充、発展させる。これはいかなる政策の制定と貫徹も始めから終わりまで大衆の意思を根拠とし、誠心誠意大衆の知恵と力に頼らなければならないことである。この路線は、中国人民を本当の主人公にならせ、中国の革命と建設についての重要な政策と方針が人民大衆の支持を得て勝利を収めるように保証している。中国の大衆路線が体現する民主は、思想認識から実施過程に至るまで西側の民主と明らかに根本的な区別があり、それはいまだ西側の一般の人びとに理解されていない。

 今日の中国において、経済の発展は中国人民の最も差し迫った要求である。経済が発展してこそはじめて衣食問題を解決し、生活を豊かにし、人民を豊かにし国家を強大にすることができるからである。そのため、政治が民主的であるかどうかは、主に経済の発展に力を注ぐかどうかを見る。経済を発展させることは民意を執行し、民主を体現している。経済を発展させないことは民意に従わず、民主に背くものである。西側の一部の人は中国の経済発展と民主を完全に切り離し、ひいては対立させているが、その多くは中国の実状を知らないためにそうしているが、中には意識的に中国の顔に泥を塗る人もいる。

 民主と経済の関係については、民主が先で、経済が後と見る人もいれば、経済が先で、民主が後と見る人もいる。この二つの見方はともに民主と経済を完全に切り離したものであり、中国に適用しない。経済問題が中国人民が解決を希望する主な要求となった時に、経済を離れて、民主を語る場合、このような民主は内容を伴わない形式だけの民主であり、その結果は人民に見向きもされないかまたはいたずらに紛争を引き起こし、はては混乱さえもたらす。これは飢えた人について言えば、その最も関心をもっている問題はどのようにパンにありつくかであり、パンを探さないでパンと関係のない討論会に参加するのは、当然いささかの興味もないのと同じである。どのようにパンにありつくかを討論する会にだけ、彼は積極性があり、逆に経済だけを重視し、民主を重視せず、人民をそっちのけにして、少数の人が独断専行するなら、経済問題は必然的に解決することができないかまたは逆に人民をいっそう損うだけである。

 民主と言論の自由は切り離せないものであり、民主は言論の自由を必要とし、言論の自由がなければ、民主もない。しかし、どのようにしたら言論の自由であると言えるのか、どのようにしたら言論の自由が民主と言えるのか。

 言論の自由はもちろん内心で考えていることを言えるべきである。もし言うことが内心で考えていることでなければ、もちろん言論の自由とは言えない。西側が標榜する言論の自由はまさに人びとが口でなにかを言っているが、しかし、言っているのはたいてい自分が思っていることではないのである。というのは、企業主に金で口止めされたからである。もし自分の言いたいことを言えば、首にされるであろう。このような管制の仕方の面白いところは形は言論の自由だが、実際には言論の自由がないことにある。

 もう一つ状況がある。だれでも自由にものを言えるが、口が一つしかない。しかし、新聞、放送、テレビ、情報ネットワークなどさまざまな伝播手段を持ち、それらのものに大きな声でわめき立てさせ、すべての声音を圧倒できる人がいる。そのため、話をする人が絶えず言っても、それを聞こえる人がいない。西側の選挙はそうである。金と宣伝手段をたくさん握っており、大きな声を出せれば、勝つ可能性がある。口しかない人は選挙に参加する資格がまったくないのである。これも言論の自由が形式上のものだけである表れである。

 そのため、言論の自由は本当に内心で考えていることと言うことが一致しなければならないばかりでなく、またそれを聞く人がいなければならず、もしそれが聞こえなかったり、あるいは言っても聞かないならば、独り言を言うのにひとしい。このような言論の自由はいささかの意義もなく、民主にとっていかなる価値もないのである。

 人びとが言論の自由を求めるのは自らの要求と利益を実現するためであるが、一人一人の要求と利益が異なり、すべての人の言ったことを実現することができず、多数の人の言ったことを実現することしかできない、つまり多数の人の意見に基づいて事を運ぶのである。そのため、民主はもとより個人の言論の自由がなければならないが、個人の言論の自由があってもまだ民主とは言えない。民主を実現するには、個人の言論の自由がなければならないばかりでなく、多数の人の意志にも従わなければならない。中国語の民主という言葉の意味はとても適切であり、民主とはつまり人民が決めることであり、大衆が決めるともいってもよい。

 民主について個人の言論の自由だけを重視し、多数に従うことを重視しないならば、非常に片寄ったものになり、重大な結果を引き起こすことがある。文化大革命は個人が極端な言論の自由があった例である。だれでも他人を攻撃し、罵り、ひいてはデマを飛ばして中傷することができ、その結果は互いに罵りあい、闘争しあい、はては暴力を振い、全国を混乱状態に陥らせた。

 民主とは個人に言論の自由であると極力鼓吹し、多数に従うことを重視しない人に対し、高い警戒心を保つべきである。このような人は下心をもつ可能性がある。西側の一部の強権政治、覇権主義をやる勢力は、しばしば個人の言論の自由という看板を利用して、一部の追随者がある国の政府に反対するように策動し、この国を左右する目的を達しようとしている。個人の言論の自由の権利を口実にすれば、ほしいままにこの国の政府に反対し、争論を引き起こし、混乱をもたらすことができ、混乱の中で政権を奪取するのに役立つ。もしこのような企みを制止するならば、言論の自由を圧制し、不民主だと非難するのである。