経典篇

「生き返った。まったく奇跡だ。同仁堂の薬が彼女の命を救ったのだ」。蘆桂蘭さんが救われたニュースが大地震後の唐山にあまねく伝わっていった。

 19767月末、中原地区にある唐山で大地震が発生した。唐山市の女性従業員蘆桂蘭さんは天井板に押さえられ、驚きと痛みで気を失ってしまった。

 14日後に、人びとは廃墟の中から彼女を見つけ、病院にかつぎ込んだ。入院して20日たったが、蘆さんは依然意識不明のままだった。外傷感染による高熱がなかなか下がらず、死神は彼女の命を脅かしていた。唐山の病院は北京に救急の電報を出した。唐山に赴いた北京市薬材公司地震災害救援グループはそれを知ると、病状を明らかにしてから同仁堂の安宮牛黄丸を服用させることにした。

 病床のそばで、医者は安宮牛黄丸を汁状にして、ゆっくりと蘆さんの口の中に入れた。それを飲ませてから2時間足らずで、蘆さんの高熱が下がり始めた。あくる日、もう一粒を飲ませたところ、半日して奇跡が現れた。蘆さんは40日間昏睡したあと、目が醒めた。ついに意識を取り戻した。その後、体もだんだんよくなり、再び仕事ができるようになった。

 「処方は入手しやすいが、効き目は得がたい」。これは同仁堂のいろいろの処方を比べていいものを選ぶ優良な伝統である。宮廷に薬品を納める同仁堂は中国で最も多くの処方を集めていると言われている。民間の効き目のある処方、門外不出の家伝の処方、宮廷侍医の優れた処方、文献にのった効き目のある処方などなんでもあるが、同仁堂は百家から精華を集めているが、古いものがいいということにこだわらず効き目を求めるために諸家の学説を集め、漢方医の論証に基づいて、処方の配合、薬の効用について繰り返し研究し、何回も調整して、できるだけいいものをつくるようにして、同仁堂の薬品を著しい治療効果で全国の同類薬品より優れたものにしている。安宮牛黄丸は昔の処方の基礎の上で何回も薬の種類を増やしたり減らしたりして得たすばらしい処方である。それは脳血栓の早期症状、高熱昏睡などの病症に対し顕著な治療効果があることでたたえられ、救急の良薬と称され、毎年国家品質金メダルを獲得している。

 西太后と如意長生酒

 如意長生酒は同仁堂が製造する伝統的な薬酒で、病気を治し、体を丈夫にする効き目があり、とりわけ壮年や老年の人の保健にとっては優れた薬品である。封建社会ではごく少数の支配階級しかそれを飲めなかったが、いまは一般の人にも利用されるようになった。

西太後にも如意長生酒にまつわるエピソードがある。

光緒13年(1887年)、西太后が53歳の時、二度目に幼帝に代わって政をきいた。彼女はまだ野心満々だったが、体力が衰え、消化不良、横隔膜の具合が悪いため、時々目眩がし、全身がだるく感じた。侍医は、脾臓が弱く、肝臓の陽気が足らず、気血が不足し、湿気が溜まって引き起こされたと診断した。そのため、西太后は気が滅入り、いらいらして、顔が晴れ晴れしなかった。自分の病気を治し、長生きできる薬がないかと考えた。

 ある日、西太后は腹心の宦官李蓮英に自分の心配事を話した。顔色をうかがうのが得意な李蓮英はすぐ西太后の気持ちが分かった。

 西太后のところから戻ってきた李蓮英は一日中智恵を絞った。ある日、悩んでいるところ、外から「同仁堂の薬品が着いた」という声を耳にした。李蓮英は急に悟りを開いた。「なぜ同仁堂のことを思い出せなかったのか」。李蓮英は宮廷の病院に至急「同仁堂薬品調合簿」を持ってこさせて、自ら調べた。李蓮英は注意深く読み、目は如意長生酒といういくつかの字に引き付けられた。この薬名がすばらしいと思い、侍医を呼んできてこの薬について尋ねた。侍医によると、如意長生酒は皮膚をうるおい、髪と歯を固め、髭と眉を伸びさせ、筋骨を通じさせ、血脈をよくし、元気につけ、経絡を通じさせ、精気を補う働きがあり、人の気血を充実させ、筋肉をほぐし、髭や髪を黒くし、気持ちをよくし、長生きさせる。

 まもなく、如意長生酒が西太后のところに送られてきた。薄黄色い如意長生酒は琥珀のように澄んで、いい香りがする。李蓮英は如意長生酒を指して、その効用を西太后に詳しく説明した。西太后はそれを聞いてとても喜んだ。その後、西太后は毎日時間どおりに如意長生酒を飲んだ。西太後はそれを長年飲みつづけ、年をとっても、髪の毛が相変わらず黒く、顔色もよく、足元がしっかりして、あまり病気にかからなかったという。