中資銀行の「手数料をとらない待遇」
は取り消すべきかどうか

 李礼輝中国工商銀行副行長は6月初めに、中資銀行は預金額が100元以下の預金者から手数料をとることを考慮していると表明し、同時に、広東省の東莞市と虎門市では、預金の最低額を2000元と決めた銀行さえあることを明らかにした。

 それを先立ち、上海で発生した「シティー・バンク風波」が中資銀行の手数料徴収を促した。4月中旬、上海市の呉さんという人がシティー・バンク浦西支店に800ドルを預けようとしたが、預金額が5000ドル以下の場合は、毎月6ドルか50元の手数料を払わなければならないと言われた。呉さんはこのようなやり方は少額預金者に対する差別であり、法律が許さない消費制限行為でもあるとし、シティー・バンクを浦東新区人民法院に訴え、銀行に陳謝するとともにそのために使った34元の交通費を賠償するよう法院に要求した。この事は社会で大きなセンセーションを巻き起こした。シティー・バンクのやり方は国際慣例に基づくものであり、非難すべきところがなく、中国人は観念を変えるべきだ、とする人もいれば、少額預金者締め出しのやり方は人々が平等であるという道義の原則に違反し、とるべきところのないものであると呉さんの観点に賛成する人もいる。

 今回、中資銀行が国際慣例を参照して、中国の消費者が長年来慣れてきた「手数料をとらない待遇」を取り消すことは、再び人々の強い反響と熱烈な論争を引き起こした。論争の内容は中資銀行が国際とのリンクを口実に手数料をとろうとしているなのか、それとも中国人が適時に観念を変え、時代の前進のテンポについていくべきなのか、銀行は社会的道義を担う義務があるかである。

 65日、中国人民銀行のある責任者は次のように語った。商業銀行が少額の預金に手数料をとるのは「商業銀行法」に違反するものである。中国銀行業協会が起草した「国内銀行の中間業務手数料徴収調整に関する申請」はすでに中国人民銀行と国家発展計画委員会に提出された。中資銀行が手数料をとるべきかどうかについての論争は社会の転換期にある人々の困惑と異なる観念の衝突を反映するものである。

中資銀行のやり方が明知ではない

 中国経済時報 包月陽 WTO加盟後の競争の情勢を前にして、中資銀行、とりわけ4大国有銀行が「少額預金者を犠牲にして多額預金者を保護する」対策を取っていることをさまざまな兆しが示している。

 中資銀行は2年前から少額預金者から手数料をとることを考えている。今年は「国際慣例」を受けて、中資銀行はその考え方の実現に取りかかった。ある国有銀行の高級責任者は次のように語った。100元の預金を管理するコストは100万元の預金を管理するコストと同じだ。そうであれば、中資銀行はどうして預金額の基準を高めて、多額預金者によりよくサービスすることができないのだろうか。手数料徴収の方法を通じて銀行にマイナスの利潤をもたらすような少額預金者を締め出すべきである。

 一部分の少額の預金を締め出すのは国有銀行の経営政策の動きとなっている。

 ちょっと見るだけでは、国有銀行の考えは理性的に見える。現在、銀行はもはや「人民に奉仕する」を目的とする準公共部門ではなく、利潤獲得を中心とする企業なのである。そのため、コスト計算をするのは当たり前のことである。コスト計算をしなかった過去のやり方と比べて進歩だと言える。そして、WTO加盟後の中国は、金融市場をちくじ開放し、外資銀行と中資銀行が競争する第一歩は高い口座であり、そのため、4大国有銀行はなんとかして多額預金者を確保し、拡大するのも、非難する余地のないことである。

 しかし、外資銀行と「多額預金者」を争奪する大手中資銀行は、数量が多く、範囲が広い「少額預金者」に対し、軽視するために無視し、ひいてはその一部分を捨てるという誤った策略をとっている。言い換えれば、4大国有銀行は少額預金者を負担と見なしている。

 少額預金者はほんとうに大銀行の負担なのか。技術的から言って、この考え方は誤っている。中国工商銀行の関係筋の言うように、目下、中国工商銀行に預金額100元以下の少額預金者が2018万戸あり、預金者総数の5.16%を占め、1人当たりの預金額は13元しかない。少額預金者が多すぎると、銀行は損になる。しかし、中国の国情とWTO加盟後の中資銀行と外資銀行の競争の枠組みから見ても、少額預金者が中資銀行の強味のあるところであって、銀行が義務を尽くす必要のある負担ではないことがわかる。その理由は次の三つある。

 都市と農村をカバーしている4大国有銀行の営業ネットワークは計画経済が4大銀行に残した貴重な富みであり、このネットワークの潜在力をうまく発揮すれば、外資銀行とその他の小型中資銀行がかなり長い間比べものにならない競争の強味となる。

 多額預金者と少額預金者は互いに排斥するものではなく、中資銀行のネットワークが大きく、人的資源が豊富な上相対的に安いため、少額預金者にサービスすると、多額預金者へのサービスに影響するようなことがない。

 都市化を経歴している中国は少なくともあと20年の経済高速成長期がある。広範な住民の収入も長期にわたって高速に増加する勢いをを保ち、今日の少額預金者は明日の多額預金者になる可能性がある。しかも、多くの少額預金者は同時に多額預金者でもある。4大銀行が意識的に少額預金者を見捨てることは、現在の市場と未来の市場を失うことを意味するであろう。

 企業の競争の中で、自らに属し、替えることができない競争力を探し当てることが一番よく、最も頼りになる方法である。中外銀行の競争の中で、資産とサービスが自分よりはるかに強い相手を前にして、中資銀行は自らの最大の強みをおろそかにし、ひいては意識的に放棄し、単に同一なものを相手と競争するのは、翼が生えていない時まだ歩ける両足を自ら断ち切るようなことで、その冒険は小さいものとは言えないだろう。

 喜ぶべきなのは、民営の性格をもつ多くの中資小銀行は自らの身分をはっきり知っており、いまあらゆる機会をとらえてユーザーを育成し市場を占領していることである。いまは銀行が競争の枠組みを建て直す歴史的時期であるかもしれない。

 中国経済時報 羅永波 国際慣例として、中資銀行が手数料をとることはいずれやることである。しかし、国外の銀行が手数料をとるのは、その金融市場の発育が相対的に成熟し、ユーザーが細分化され、銀行がユーザーによって異なるサービスを提供することができるからであるということにも留意すべきである。中国の状況はまったく違い、1人当たりGDP900ドル足らずで、銀行の歴史がまだ浅く、貯蓄が銀行発展の基礎であり、その上銀行とユーザーの関係が安定していない。そのため、現在、中国の銀行が直面している最も重要な問題は手数料をとるかどうかのことではなく、市場を育成し、ユーザーを安定させることである。条件がまだ成熟していない時に待ちきれずに手数料をとり始めるなら、利潤を得られないばかりか、外資銀行に多くのユーザーを追いやることになろう。

 中国は中国なりの国情があり、中資銀行にはこのほか、4大国有銀行が多かれ少なかれ政府の代わりに社会に公共サービスを提供する義務があると国民は考えているという論争する必要のない事実があるという現実がある。これはおそらく国有銀行が負っているより大きな、より重い負担であろう。長年来、「手数料をとらない」ことになれてきた中国の消費者は、銀行の手数料徴収が利益追求と考えるようになるかもしれない。上海の「提訴事件」はある意味では一部消費者の不満と抵触の心理を具現している。彼らからすれば、銀行が少額預金者から手数料をとることは、事実上少額預金者をサービス対象から締め出そうとするもので、商業銀行の法定義務を逃避することであり、社会の公衆の権利を侵犯することでもある。これを見てもわかるように、今後、中資銀行、とりわけ国有商業銀行は短期間内に消費者の黙認を得て手数料をとるのはまだ難しい。

 要するに、銀行の手数料徴収はあせってはならない。手数料徴収は最後にどうなるかは、まずサービス、それから観念の転換を見なければならない。金融業務のサービスの質がなければ、銀行の手数料徴収に基礎がない。ユーザーの考え方が国際とリンクしなければ、銀行の手数料徴収のサービス対象がないであろう。

手数料徴収は大勢の赴くところ

 上海市数量経済学会理事、博士コース大学院生 夏暁燕 1人の市民がシティー・バンクが「少額預金者を差別している」ことが自分の消費権を制限したと、裁判所に訴えたことは、多少意外である。

 「銀行はすべてのユーザーに無料サービスを提供しなければならない」という国民の観念は、国内の銀行業の長年来の経営方式がもたらしたものである。WTO加盟後の金融市場の競争は人々にこの観念を改めるように求め、「商業銀行が実益性、安全性、流動性を経営原則とし、自主的経営を実行し、リスクと損益を自己負担し、自己を制約する」ものであり、市場の主体であり、市場経済の発展につれて、銀行の機能が大きく変わり、預金業務はすでに貯金のための単純のサービスから区別のある財務管理に発展し、商業機構としての銀行は、預金者の預金を受け入れるかどうか、手数料をとるかどうか、いくらとるかは、預金者がどの銀行に金を預けるかと同じく、選択権がある。預金者と銀行の関係は平等な関係であり、契約関係である。外資銀行はサービスメニューをユーザーに提供するのは合理的、合法的なことである。報道によると、目下、国内の一部商業銀行も、条件つきで、段階に分けてサービスを実行することを考え始めた。金融市場活動の参与者としての預金者は観念を変えなければならず、「消費者権利保護法」に基づいて「商品またはサービスを自主的に選ぶ権利」を行使すべきである。

 中国青年報 劉以賓 商業の倫理と社会の道義とは別々の範疇であり、それぞれ特定の内包があると思う。商業に従事する人は、法によって経営し、規則に従って税金を納め、消費者に真実の製品とりっぱなサービスを提供し、信用を守らなければならない。これらができたら、商業の倫理を守ったことになる。社会の道義は人と人の平等、公平を強調し、困難のあるものを援助するのを提唱している。この別々の範疇にある原則と基準を混用すれば、人々が戸惑い、秩序が乱れるだけで、経済の発展と社会の進歩にとって不利である。

 金融企業であろうと生産企業であろうと、ともに「市場での位置付け」という問題がある。つまり、特定の発展の理念や目標および考えの筋道によって、自らのユーザーを選択、育成することである。シティー・バンクは預金額5000ドル以下の少額預金者から手数料をとる意図もここにあるだろう。このような製品とサービスに価格を定めるやり方は公平取り引きの原則に違反しない。預金額100ドルの預金者と預金額1万ドルの預金者が銀行にもたらす利潤が明らかに明白に違うが、両者とも同じように銀行の設備と管理資源を占用するからである。銀行は100ドルを預ける預金者が銀行にもたらす収益がその占用している銀行の資源コストにつり合わないと思うなら、合理的な手数料をとる理由が当然ある。

 いまでは、人々は一般の企業がユーザーを選択する行為をますます理解、寛容するようになり、言いかえればすでに慣れていると言ってもいいが、商業銀行に対し道義の面でより高い要求を提出したのはなぜだろうか。これは銀行の真の市場進出がやや遅れたことと関係がある。シティー・バンクのやり方はあるシグナルを出した。これは、商業の倫理とはつまり商業の倫理であり、社会の道義を担う必然性がないことを人々に教えている。