アメリカの対台湾政策の歴史的変化

封長虹(軍事科学院)

 アメリカの対台湾政策はかなり長い変化の過程をもっている。

 第二次世界大戦の後期、アメリカはそのトータルな戦略的利益から出発し、台湾を日本の手から中国に帰還させることを主張するとともに、その他の同盟国と斡旋して、「カイロ宣言」の調印に漕ぎつけ、それによって台湾の帰属と地位の問題を正式に国際法に確認されるようにした。第二次世界大戦終結後、台湾問題に対するアメリカの態度にも変化が生じ、「台湾地位未定論」を持ち出すとともに、いわゆる「台湾信託統治」の計画を制定し、台湾を中国から分裂させようとした。台湾問題はここからちくじ現れ始めたのである。

 国民党は台湾に撤退してから20世紀60年代末期までの間に、アメリカは國際において「二つの中国」、「一つの中国、一つの台湾」を盛んに推し進め、アメリカの対台湾政策と米台関係が形成され始めた。

 19494月、アメリカは台湾問題を再審議し始め、「外交と経済のルートを通し」て「共産党が台湾を占領するのを阻む」よう主張した。しかし、国民党の敗退によりアメリカの幻想もそれに従って破滅した。195015日、当時のトルーマン大統領は「干渉しない」声明を発表して、台湾が中国に帰還し、「アメリカとその同盟国が台湾問題に介入し、中国の内政に干渉する気がない」と改めて表明せざるを得なくなった。ところが、朝鮮戦争勃発後、アメリカ政府は機に乗じて再びその「干渉しない」立場を改め、再度台湾問題に介入し始め、公然と第7艦隊を派遣して台湾海峡を封鎖し、最初の台湾海峡危機をつくり出した。その中国内政に干渉する行為を弁解するため、トルーマン政府はまたもその政策決定圏で長い間秘密に画策した「台湾地位未定論」を持ち出した。これは中華人民共和国成立後のアメリカの対台湾政策の大きな転換点であり、アメリカは20年続いた中国の統一を妨害し、台湾をその保護地にする時期を始めた。

 195412月、アメリカと台湾は「共同防御条約」に本調印し、アメリカは必要な時に武力を行使して大陸が台湾を解放するのを阻止することを約束した。この条約の調印はいわゆる米台軍事安全関係の基礎を築き、アメリカもその時から、台湾が中国から分裂するのを促し、世界に「二つの中国」あるいは「一つの中国、一つの台湾」を形成するという対台湾政策の実質を公然と顕示するようになった。

 この時期のアメリカの対台湾政策変化の特徴は、戦後のアメリカの利益を守ることを中心とし、共産主義勢力の強大を防ぐことを出発点とし、アメリカが異なる状況の下での自国の必要に基づいてその対台湾政策を制定、調整し、台湾をアジアにおけるアメリカの「不沈空母」として、新生の中華人民共和国の発展を封じ込み、それによってそのグローバルな戦略的目標を実現しようとすることである。

 20世紀70年代初期から80年代末期にかけて、アメリカは北京との戦略的関係の発展を米台関係の上に置き、アメリカの対台湾政策が弱体化に向かい、中米関係がちくじ正常化していたが、アメリカは台湾を本当に放棄するつもりがなかった。

 20世紀60年代末期から、アメリカは対中国と対台湾の政策を再調整し始め、北京との戦略的関係の発展を米台関係の上に置き始めた。19722月、ニクソン大統領が訪中し、中米上海共同コミュニケの中で初めて「一つの中国」の原則を受け入れることを公に表明した。上海共同コミュニケの調印とその後の中米関係の逐次改善は、米台関係の基盤をひどく動揺させ、アメリカの対台湾政策が弱体化に向かい始めたが、米台のいわゆる「政府関係」はたとい台湾が国連から追い出されても依然として維持してきた。台湾問題に対するフォード政府の立場の後退はまたかなり大きな程度においてすでにスタートした中米関係正常化のプロセスに影響を及ぼした。カーター政府が登場してから、中米関係正常化のプロセスはようやく再スタートした。19781216日、中米は国交関係樹立コミュニケを発表し、アメリカは「一つの中国」の原則を受け入れ、「中華人民共和国政府が中国唯一の合法政府であり」、世界に「中国が一つしかなく、台湾は中国の一部分である」ことを承認すると表明した。これでアメリカは台湾との「外交関係」を断絶し、一年以内に台湾から軍隊を撤退させ、台湾との条約を廃棄するという約束を実現した。

 ところが、アメリカにとって、米中の国交関係樹立は台湾問題に対するその根本的立場を放棄することを意味しない。19794月、カーター大統領が調印した「台湾関係法」はこの点を十分に物語っている。同法は実際にはアメリカ政府が一種の特殊な基礎の上で、元の対台湾政策を維持、調整する結果であった。米台関係のその後の変化の状況から見て、同法はアメリカに台湾との実質的な関係を引き続き保持、発展させ、米台関係を「半政府関係」あるいは「準政府関係」に位置付けるとともに、台湾への兵器売却を通じて引き続き台湾にいわゆる安全保証を提供している。レーガン政府は同法を十分に利用し、重点を台湾への兵器売却に置いた。そのため、兵器売却問題はアメリカの対台湾政策の重要な構成部分となった。

 この時期では、アメリカはソ連を抑制することを出発点とし、アメリカのグローバルな戦略の需要に基づいて中国政府との関係を発展させ、その対台湾政策を調整し、対台湾政策をその対中国政策に従わせたが、台湾におけるアメリカの重大な利益を絶対に放棄しなかった。

 20世紀80年代末期から、アメリカは中国大陸に接触プラス封じ込めの政策を実施し始め、同時にアメリカの対台湾政策にかなり大きな逆転が現れ、米台関係のグレードアップで台湾独立勢力が盛り返して、台湾海峡情勢を緊張させた。

 冷戦終結後、アメリカは中国と連合してソ連を制約する戦略的基礎もそれに従って消え失せた。このような背景の下で、アメリカは米中戦略関係の重要性がすでに小さくなり、この時に対中国封じ込めを強化すればアメリカの一極世界づくりの目標と必要にかない、中国封じ込めの戦略を実施するには対台湾政策を調整し、台湾をもって中国を抑制しなければならないと見た。とりわけ、ソ連解体後、先代ブッシュ政府の対中国政策は弱体化に向かい始め、その対台湾政策は逆に強化され、アメリカの対台湾政策に一連のかなり大きな逆転を形成された。

 クリントン大統領が就任後、中国との接触を保つとともに対台湾政策にもいっそう力を入れた。この期間に、アメリカの対台湾政策調整の核心は中米両国間の3つの共同コミュニケと双方が交渉を通じて達成した関係取決めを突破し、米台関係の実質を昇格させようとするものである。アメリカはまた戦略から台湾海峡情勢に対する影響力を大きくし、同時に中国人民解放軍が台湾海峡軍事演習を行う時に空母編隊を派遣して台湾海峡付近を遊弋して中国大陸に威嚇を行ったが、これはアメリカ政府が台湾海峡情勢に対する警戒と台湾海峡危機に対処する戦略的準備を強化したことを示している。このような背景の下で、台湾当局は公開あるいはひそかに実質上の二つの中国をやり始め、いわゆる「実務外交」を大いに推し進め、国連加盟のために積極的に活動し、つづいてその台湾独立を実施する基礎として、「両国論」を持ち出した。これで、アメリカのやることなすことはすべて、アメリカがすでに台湾と「外交関係を断絶し、条約を廃棄し、軍隊を撤退させる」立場から大いに後退し、台湾当局の「実務外交」が望んでいるアメリカが外交関係樹立コミュニケから上海共同コミュニケの立場に後退する要求に近づいたことを表明している。

 ところが、アメリカは対台湾政策においても中国政府側の要素を真剣に考慮せざるを得ず、北京の立場と態度を配慮せざるを得ない。そのため、クリントン政府は台湾との関係を発展させると同時に、次のいくつかの立場と態度を取った。一つは「台湾独立」を支持せず、両岸が「現状を維持する」よう望むと繰り返して強調した。1998年、クリントン大統領が中国を訪問した際、「台湾の『独立』を支持しない、『二つの中国』と『一つの中国、一つの台湾』を支持しない、台湾が主権国でなければ参加できない国際機構への加盟を支持しない」という「新しい3つのノー」政策を発表した。二つは台湾の過激行動を「制約」し、台湾当局が慎重に事を運び、大陸をあまり刺激しないようにし、「大陸に挑戦」する「外交冒険主義」をなおさらとってはならないと要求する。三つは過去の両岸の事務的相談に対する冷たい態度を改め、台湾と大陸ができるだけ早く会談を再開するように促す。これらの政策もある程度中米関係を緩和した。

 ブッシュ政府は登場後態度を大きく変えて、「台湾の防衛に協力する」ことがアメリカ政府の義務であると公然と表明するとともに、台湾に先進的な兵器と設備を大規模に売却している。ブッシュ政府の対台湾政策がクリントン政府の台湾に対する「3つのノー」という政策から大いに後退し、台湾を利用して中国を封じ込める戦略的意図をさらに体現したと見ることができる。

 この時期のアメリカの対台湾政策の変化の特徴は、アメリカのグローバルな利益を強固にすることを中心とし、一極世界の構築と強権政治の実施を出発点とし、対中国関係で対台湾関係を主導し、対台湾政策の面では台湾の政治的地位と作用を高めようとし、台湾問題を手段として中国を分化させ、西洋化させ、これによって中国を効果的に封じ込める戦略的目標を十分に実現することである。