わたしはいまの仕事が好きだ

 中国共産党第16回全国代表大会代表、湖北省党委員会書記の兪正声氏は武漢市で本誌李栄霞記者の特別インタビューに応じた際、わたしに選ばせるなら、北京で部長になるよりか地方で仕事をしたい、わたしはいま就職のプレッシャー、農民の負担、幹部の腐敗という三大問題に直面していると述べた。問答は次の通り。

 問 あなたは湖北省に来てもはや1年になるが、地方官として、まずこの地方を理解しなければならない。あなたは湖北省をどう見ているか。

  湖北省は大きい省である。第1は人口が全国第9位を占めている。第2は工業大省であり、国有企業の従業員数と生産額は工業の70%前後を占め、重工業は工業生産額の70%前後を占めている。第3は農業大省であり、糧食と綿花の主産地であり、淡水魚の生産量は全国トップである。第4は科学教育大省であり、大学・高等専門学校の在校生数と研究機構がわりに多い。そのほか、地理的位置から見れば、全国の中心地帯にあり、水路、鉄道、自動車道路の全国の主要な交通幹線が交差するところであり、交通と戦略の位置は非常に重要である。湖北は貧しい省でもあり、財政収入は385億元しかない。湖北は災害特に水害が多発する省でもあり、1998年の水害で数百億元の損害を蒙った。

 これらの特徴はその強みと弱みを構成している。強みは3つある。1は制造業の強みであり、2は科学技術開発の強みであり、3は農業の強みである。弱みは4つある。1は沿海都市と比べて開放地区が少なく、予想できる未来に、沿海地区に追いつく見込みがあまりなく、格差を縮小することしかできない。2は国営企業が多すぎ、一時帰休者が多く、再就職のプレッシャーがわりに大きい。3は糧食と綿花の主産地で、食糧の価格が下がって、農民の収入増が緩慢である。農業構造調整のプレッシャーが大きく、糧食と綿花が非常に大きな比重を占めている。農業人口が多すぎ、土地を離れる農民が少なすぎ、就職のプレッシャーが大きい。4は工業の中で重工業の比重が大きすぎ、構造調整のプレッシャーが大きい。

 問 1年近くの仕事の中で、いちばん頭が痛い問題は何か。

 答 いちばん頭が痛い問題は金がないことである。現在、わたしの直面するチャレンジは主に3つの問題がある。

 1はどのように就職問題を拡大するか。国有企業改革の問題と言ってもよい。就職問題のプレッシャーが大きく、その及ぼす範囲がかなり広く、多くの家庭にも影響している。一部の貧しい県では、県と鎮(町にあたる)の幹部の子女は全員一時帰休し、失業し、完全に自分の給料に頼っている。ある軍需企業の従業員の生活はかなり苦しい。これらの人にどのように新しい状況に適応させ、新しい生計を支えるポストを探させるかは、短期間で解決できる問題ではない。

 2番目のチャレンジは農民の増収問題である。これも短期間で解決できない問題である。われわれは今年料金を税金に改めることに力を入れているが、これは枝葉の問題を解決する措置で、農民の負担を軽減し、農民との関係を緩和するだけで、根本的な問題を解決する措置は農業の生産を向上させ、経済を発展させ、農民の収入を増やすことである。これはとても困難に満ちた過程である。

 3番目のチャレンジは幹部の腐敗である。これも短期間で解決できるものではない。一部の幹部の腐敗は聞いてびっくりするほどのものである。明日にどんな事件が起こるか知らない。誰も腐敗分子が現れないのを保証できないが、腐敗分子は現れると党の威信に非常に大きい影響を及ぼす。この3つの問題はわたしに対する試練である。

  一時帰休者の再就職問題をどう解決するか。

  一時帰休者の生活問題を解決するために、一連の措置をとった。その中に一時帰休者が個人生産経営に従事するのを励ます政策、都市の個人経営、サービス業に従事する一時帰休者の税金・料金を減免する政策を制定することが含まれている。大手企業では主業と副業を分離する政策を実行している。例えば武漢鋼鉄公司は、一時帰休者を副業に配置し、社会に推し出すだけという方法をとっていない。こうして主業と副業の分離も解決すれば、一時帰休者も配置した。企業改革は従業員の権益を保証する政策と規定を厳格に遵守し、一時帰休者の最低生活を保障しなければならない。もちろん、最も根本的なのはやはり発展を加速することであろう。ここ数年は、投資の導入と企業体制改革の強化など、百方手を尽くしてわれわれの条件を改善し、ポストをつくって一時帰休者を再就職させている。これらすべての措置は一時帰休者の権益を守り、全省の社会の安定を促進した。

  国の西部大開発政策は湖北省にどんな影響を及ぼしているか。

 答 西部大開発はわれわれにとっても大きな促進であり、主に湖北省西部のインフラ建設を促進している。鉄道を例にとってみれば、恩施に現在鉄道はないが、画策中の宜昌=万州鉄道が恩施を通過する。西部大開発がなければ、この鉄道プロジェクトは実施できない。それから上海=成都高速道路は湖北省を通過する。次に東部の労働力集約型企業を湖北に移転することができる。東部の労働力の価格は湖北より高く、一部の外資工場はすでに移転してきた。今後湖北省は労働集約型産業と農産物・副業生産物加工業を大いに発展させ、百方手を尽くして外部の投資を導入する。特大都市としての省都武漢市は、引き続き人材と科学技術の強みを十分に生かして、ハイテク産業を発展させることになろう。

 問 湖北省は水害多発の省であるが、長江の水害問題をどう解決するか。

  長江の堤防を築く面では、ここ数年中央と湖北省は多額の資金を投じ、堤防の高さは1.5ないし2メートル高くなり、幅は3ないし5メートル広くなり、多くのところでコンクリート舗装の道路をつくり、すでに著しい効果をあげた。湖北省の水害防止能力は大幅に増強され、1998年以降連続して何度かの大水害の試練に耐え抜き、重大な危険状況が現れず、人びとは暮らしが安定し、楽しく働いている。しかし、堤防を築いたからもう大丈夫だと考えてはならず、水害防止は終始湖北省の大きな事柄であり、いかなる時も油断することができない。

  建設部部長から省党委員会書記にポストが変わった。感想は何か。

  北京で部長を務めていた時、いちばん大きな感想は、一つの事をやるのがとても難しく、部門がたくさんあって、観点や考えを統一するのが難しく、部門間の協調がとても困難なことである。地方に来て省党委員会書記になってから、仕事の面で妨害がわりに少ないが、現実的な困難が多く、大衆が多く、この二つの面にはそれぞれ難しいところがある。部にいた時、難しいのは部門の間が互いになすり合うことで、地方の難しいところは大衆の現実的な困難をどう解決するかということである。どっちの仕事に興味があるかと言えば、わたしはやはり地方で省党委員会書記を務めたほうがよいと思う。部では仕事ができない。地方では仕事をすれば、感受感を持ちやすいが、部ではなかなかそれをもてない。わたしに選ばせるなら、部ではなく、わしたは地方で仕事をした方がいいと思う。しかし、部の仕事はさほど疲れない。祝日と休日が保証され、遊びに行くことができる。地方では遊びに行くことができない。わたしはテニスと旅行が好きだが、今ではそれをする時間がない。

 問 あなたは大勢の幹部に囲まれているが、庶民の本当の声を耳にすることができるか。

  できる。わたしは末端に行く時、幹部をあまり連れていかない。末端に行くと庶民と触れ合うことができる。湖北省の庶民はとても率直だ。例を挙げると、監利県に行って税金・料金の改革を考察した時、ある郷を検査してみると、うまくやっている。わたしは税金・料金の改革が遅い村を探してくれないかと言った。その村に行き、車を降りて見ると、税金・料金改革についての一覧表が壁に貼って、公表している。よく見ると、あとの何枚かの紙の裏側が湿っており、のりがまだ乾いておらず、前の夜に貼ったものである。この時、庶民がわたしを囲んできた。ある農民は一枚の紙をもって、「ご覧なさい、省政府が庶民に出す手紙は昨晩やっと渡されたのだ」と言った。わたしは「税金・料金改革を知っているか」とたずねると、その農民は「知らない。なにもかも昨夜突貫作業でつくったものだ」と言った。庶民はやはり大胆にものを言っている。

 ある時、わたしはある学校へ行って教員の給料支給状況を調べた。ある教員は、先月の給料はまだ支給していないと言った。その時県や郷の幹部も居合わせていたので、帳簿を探し出して突き合わせてみると、給料は郷・鎮のところで差し止められていた。農村に行ったら村長だけと接触してはならず、農民と触れ合わなければならない。学校に行ったら校長だけと接触してはならず、教員、生徒と触れ合わなければならない。教員室に行って給料のことを聞いたり、教室に行って生徒に学費をどう納めているかと聞いたりする。校長は言う勇気がなく、止めさせられることを恐れている。生徒は気になることがなく、教員も気になることがない。末端に行って状況を調べる際、本当の状況を知りたいカギはどんな方式で調べるかであると思う。

 問 個人の生活について話してもらえないか。

 答 いまわたしは湖北省に単身赴任しており、家族は北京にいる。妻は定年退職したばかりで、湖北に来るかもしれない。湖北省に来てから、祝日と休日がなく、しょうちゅう家に帰るわけにもいかない。北京ヘ行って会議に参加する時だけついでに家に帰ることしかできない。11月は、北京開かれる党の16回全国代表大会に出席するので、ついでに家に帰ってみることができる。


兪正声氏の略歴

 中国共産党湖北省委員会書記、湖北省人民代表大会常務委員会主任。

 19454月生まれ、浙江省紹興市出身。1963年仕事に参加し、196411月中国共産党に入党した。

 1967年、ハルビン軍事工学院自動制御学科卒業。張家口市第6ラジオ工場技術員、第7ラジオ工場責任者、電子工業部第6研究所副技師長、副所長、電子工業部コンピューター工業管理局システム処処長、副技師長、電子工業部計画司副司長を歴任。1984年、中国身体障害者福祉基金会副理事長に就任。1985年から中国共産党山東省煙台市委員会副書記、副市長、市長、中国共産党山東省青島市委員会副書記、書記、市長に就任。19933月、山東省青島市市長に就任。199410月、中国共産党青島市委員会書記に就任。19979月、建設部副部長、党グループ書記に就任。19983月、建設部部長に任命さる。200112月、中国共産党湖北省委員会委員、常務委員、書記に就任。20022月、湖北省人民代表大会常務委員会主任に当選。20026月、中国共産党湖北省委員会書記に就任。

 中国共産党第14期中央候補委員、第15期中央委員、第7期全国人民代表大会代表。