長い付き合い

 1969年夏、私は120名の学生訪問団の一員として、文化大革命真っ只中の中国を訪れ、3週間余りにわたり、各地を回った。当時、大学で中国文学を専攻することを決めたばかりの私にとって、それは余りにも刺激の強すぎる旅であった。出発時に団を班分けした際、誰も班長に立候補する人のいなかった私の班で、私はあっさりジャンケンに負け、いやいやながら班長を務めることになった。連日、中国革命ゆかりの地や工場を見学し、夜遅くホテルに戻ったあとは日本側で班会を開き、その日の総括をする。そんな日々が続いたある日、私の班の一員が食堂でビールを1本買って飲んだ。それを知った他班の人から、私は班長として呼び出しを受け、他国の臨戦体制下(その頃、中国は当時のソ連と国境で衝突を繰り返していた)でビールを飲むとは不謹慎だと怒られ、言い合いになった。憮然としている私に、中国側の通訳の女性は、中国人だってビールくらい飲みます、問題ありません、とそっと慰めてくれたものだ。私は、日本側の一員の余りの狭量さにひきかえ、中国側の通訳のごく自然な対応に救われる想いがしたものだ。その時から、私にとっての中国は、その通訳の女性とイコールで結ばれた。一度も日本へ来たことがないという彼女の達者な日本語、尊大でも卑屈でもない堂々とした態度、軽いユーモア感覚、そのいずれにもひたすら敬服するばかりだった。

 当時、日本と中国の間に正式な国交はなく、中国への出入りはすべて香港、深セン経由で行われていた。1カ月足らずとはいえ、もっともっと長く感じられた中国の旅を終え、深センで彼女と泣きの涙で別れたときには、自分はもう二度とここに来ることはあるまいと思ったものだ。

ところが、幸いにも私の予感は見事にはずれ、そのわずか3年後の1972年、日本と中国は国交正常化を果たしたのである。そして80年代初めから、私は日本からの団体旅行の添乗員として、頻繁に中国各地を訪れることになった。

 「仕事」を媒介に中国と接してみると、正直なところ、腹の立つことも多々生じた。そのころ改革・開放が始まったばかりの中国では、今とは異なり、航空機の絶対数がかなり不足していたようで、国内を航空機で移動する際はとりわけ緊張を強いられた。出発時刻になっても何のアナウンスもなく、定刻通りに出発できるのか、遅延するのか、さっぱりわからないまま、係員に聞けば「わからない」の返事だけ。空港で数時間待たされた挙句、キャンセルと決まり、ホテルに引き返す、といったことが何回か続いた。当時、中国側のガイドさんから最もよく言われた言葉は「別焦急(焦らないで)」。駅のエスカレーターを駆け上って出勤を急ぐ人々の住む都市、東京から来た私は、ひたすら焦りまくっていたわけだ。だが、場数を重ねるうち、「郷に入っては郷に従え」精神を実践することを覚えるようになった。まず、係員の人と雑談をする。「あなたのマニキュアすごくきれい、どこで買ったの?」云々。そして徐々に本題に入っていく。「ところで、私たちの乗る飛行機は何時ごろ出るのかしら?」。すると、笑顔で情報を教えてくれるのだ。ハナから険しい顔で詰問したのでは、心を閉ざされるのも当然だということに、やっと気づいたわけである。中国における「聊天児」(雑談)の大切さ、それに気づいてからは、仕事も雑談も楽しくなった。

 そして2000年、私が学生時代に中国を知るための数少ない情報源の一つであった『北京週報』の一員として仕事をすべく、中国に初めて長期滞在することになった。これまでの2年間、国内ツアーに入って旅行したり、環境NGOの人たちが組織したツアーに加えてもらい、バードウォッチングに行ったり、華南虎に会いに行ったりと、休暇のたびにあちこちに出かけ、多くの中国人と知り合う機会を得た。中国各地には日本が残した戦争の爪あとが今も残されており、1944年末に二等兵として中国へ来た父から日本軍の侵略行為の一端を聞いている私には内心忸怩たるものがあるが、彼らはそうした私の内心のこだわりを突き抜けて等身大の私と接してくれた。だが、日本において米国のことが知られているようには中国のことが知られていないのと同様に、中国においても、日本人のありのままの姿を知る人が存外少ないことも知った。テレビドラマにたまに登場する日本人の姿は、男は粗暴、女は夫に三つ指ついて従う無人格者という固定観念で表現されることが多く、それが一般的な日本人のイメージとして定着している傾向がある。それは日本のテレビドラマに登場する中国人が、往々にして犯罪がらみの人物として描かれ、それが一般的な中国人のイメージにつながってしまっているのと軌を一にしている。

 今年は、日中国交正常化からちょうど30年という節目の年に当たり、さまざまなイベントが計画されている。30年前に政府間に始まった関係は、その後、経済分野にとどまらず、あらゆる分野において個人と個人の関係が築かれるまでになった。

いま、北京に住む日本人は、企業の駐在員や中国語を学ぶ人だけでなく、京劇を学ぶ人、音楽学校で教鞭をとる人、環境NGOに参加する人、比較教育学を研究する人、中国武術を学ぶ人等々、実にバラエティに富んでいる。年齢層も80年代当時に比べ、ずっと若くなっている。関係が深まれば深まるほど、ちょっとしたトラブルが生じることもあるかもしれないが、日本と中国にとって、本音で対等に付き合える、今ほど幸せな関係はこれまでなかったように思う。

この関係を大切にし、さらに飛躍させていけば、等身大の日本人、中国人のイメージが日本で、中国で定着する日もそう遠くはないだろう。そのために少しでも役に立てれば、と思っている。

清水 由実