国宝の流出と文化財条約

趙 宏(中華社会文化発展基金会主任補佐)

 文化財は一つの国家、一つの民族の歴史と文化継承の重要な媒体、そして実証する文化財であり、また文化の血脈でもあり、歴史と現実を結ぶものでもある。実証する文化財のない歴史は灰色の歴史であり、証明する文化財を喪失した文化は不完全な文化である。

国宝の流失

 アヘン戦争後の百年余りの間、中華民族は西側列強から侮辱と略奪を受け、大量の国宝級の文化財は悲惨にも悪運に見舞われ、長期にわたり他国に流出したままである。大まかな統計によると、47カ国の200を超す博物館だけでも、優れた中国の文化財は百万点をくだらない。世界各地の個人の手にある貴重は文化財は、それを更に上回る。

 英国――古い帝国主義国家として、かつて中国に対し欲しいままに略奪を働いた。大英博物館に展示されているのは九牛の一毛に過ぎないが、それでも大ホールところ狭しと並び、なかでも敦煌の壁画は際立っている。だが、スタインが盗んだ文化財の下には、発見者の名は表示されていない。英国人自ら慙愧の念に耐えられないのだろう。

 フランス――フランス帝国も同様、中国の文化財に対し勝って気ままな略奪を行った。国立図書館などに収蔵されている敦煌文化財の価値は計りしれない。

 ロシア――ツァーロシアも欲しいままに略奪行為に出た。中国史で一時輝かしい光を放った西夏王朝の文化財も含まれており、中国近代の西夏歴史と文字の研究については、ほとんどすべての資料をロシアに求めなければならない。

 米国――新興の西側列強である。銃砲や大量のドルを借りて中国の優れた文化財を大量に占有した。近年、オークションでは常に中国の文化財は高額で競売に売り出されている。2001年には、湖南省で出土した青銅器が長い年月を経た後に、924万ドルで売買契約が成立した。その蓋だけが中国に残っているが、強制的に引き裂かれた悲劇である。2002年には、米国人が砂や犬の小便を中に入れた、清代・雍正年間の燭台である花瓶が約4000万香港ドルで中国人に売却されている。

 日本――日本は中華文明を破壊する過程において、極めて面目ない役柄を演じた。日本は1902年から次々と略奪を始めていった。1943年以前は、書籍だけでも、日本人が略奪したものは1500万冊をくだらない。1945年の抗日戦争時には、中国政府の大まかな統計によれば、日本が略奪した文化財は360万点で1879箱、破壊した古跡は741ヵ所に達する。だが戦勝国として中国政府は、ようやく周口店で出土した化石10箱、古書3万5000冊余、張学良将軍が収蔵していた絹製の古画58軸を取り戻した。

 世界各地に散逸した中国の文化財は多くが悲惨な道を辿っている。残骸のみとなった圓明園は歴史を無言で語る生き証人である。

 圓明園とは長春園、万春園(元の名は綺春園)を含めた総称であり、旧名は「圓明園三園」と呼ばれ、北京西郊外の海淀区東部に位置する。周囲の長さは10キロ余り、敷地面積は350ヘクタールである。

 三つの園は隣接し、水で結ばれた圓明園は清代の帝王150年余りの間に建造された華麗な風格を見せる皇室の庭園である。園内には約200の建築物があり、中国と西洋が合体した景勝地は100カ所余りを数える。

 だが、このように「人類の奇跡」と言われた花園は、1860年10月18日に英国軍によって焼き払われてしまった。火は三日間燃え続けたという。以下の数字から、外国の侵略者が銃を手に圓明園の宝玉を損壊させた情景が想像できる。

 康熙年間以後の歴代の帝王が所蔵してきた純金、銀メッキ、玉彫、銅鋳の仏像は10万体以上にのぼり、失われてからは復元されたものは極めて少ない。

 文源閣に収蔵されていた『四庫全書』は乾隆年間に編纂され、参与した人は3000人余り、費やした年月は10年である。収められた典籍は3503種で計7万9337巻、分冊は3万6304冊、合計230万頁で7億7500万字に達し、喪失後に復元されたものは極めて少ない。

 商・周代の青銅器、歴代の磁器の逸品、1冊しか現存しない古書、名人による書画、宮廷の絵画、皇帝の玉印、玉器、漆器、象牙彫刻・瑪瑙、七宝焼、珊瑚、琥珀、推奨、宝石、真珠、絹織物、木彫など絶世の宝物は数多にのぼり、散逸後に復元されたものは極めて少ない。

 フランスのナポレオン3世は圓明園の宝玉を収蔵するため、そのため中国文物館を建設している。

 大英博物館は東晋時代の顧かい之の『女史箴図』(唐人の模本)のほか、乾隆年間の官吏が没収した長さ3尺、高さ2尺の白玉馬を収蔵している。

 以下は、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴが1861年11月25日に圓明園が略奪に遭遇したことについて最も多くの文字を使って記した最も著名な文である。

 「世界の一隅に、人類の大奇跡が存在している。その奇跡こそが圓明園だ。芸術には二種類の深淵がある。一つは理念であり、そこからヨーロッパの芸術が生まれた。いま一つは幻想であり、そこから東洋の芸術が生まれた。圓明園は幻想の芸術である。超人に近い民族が幻想したすべてが圓明園に集約されている。幻想にも原型があるとするならば、圓明園は規模巨大な幻想の原型である。描くことのできない建築物を想像したのが、それこそ圓明園である。人類の想像力を集めて大成した燦爛と輝く宝の窟があるとするならば、宮殿や廟や寺院のイメージで出現させたもの、それこそが圓明園である。圓明園を建造するために、人々は二世代にわたる長い労働を経てきた。城のように規模が巨大であり、何世紀もかけて営造してきた庭園は畢竟、誰のために建てられたのであろう。人類のためである。歳月が流れても、すべてを全人類の所有に帰すことができるからだ。」

 「この奇跡が忽然と姿を消してしまった。ある日、二人の強盗が圓明園に闖入した。強盗の一人は勝手気ままに略奪行為を働き、もう一人の強盗は焼き尽くした。」「二人の強盗のうち、一人はフランス、いま一人は英国である。」

 「わたしはフランスが重い重責から解き放たれ、罪を洗い清め、これら不浄な物を略奪された中国に引き渡すよう渇望してやまない。」

国内の立法と国際条約

 近代中国の文化財保護に関する立法は1930年に始まった。

 1926年、スーウェン率いる調査隊が中国を訪れ、知識界から強い抗議の声が上がり、その圧力に押されて、国民党の南京政府立法院は1930年に『古物保存法』を公布した。こが中国史で最初の文化財保護の法規である。その後、税関は文化財の輸出に対し、相応する規定を制定した。

 1949年の新中国建国後、政府は文化財保護の面で多くの試みを行った。1982年11月19日に施行された『中華人民共和国文物保護法』は文化面で中国初の専門の法律である。これを前後に、国務院や対外貿易経済協力部などが文化財の保護と管理について関係する文書や通知を出し、文化財保護法で実際的問題が解決されるようになった。また『憲法』や『刑法』など国の重要な法律にも、文化財と文化財保護について専門の規定が設けられている。

 2002年10月28日に新しい『中華人民共和国文物保護法』が施行され、新たな歴史的時期を迎えて、文化財や文物販売、文化財保護に関し従来とはだいぶ異なる見解や要求が提起された。

 中国政府は国際間の協力を益々重視するようになった。1985年11月22日に中国政府は、ユネスコの第17回総会で1972年11月16日にパリで採択された『世界文化・自然遺産の保護に関する条約』への加盟が認められ、中国の歴史文化遺産の保護は世界と共に進められることになった。

 現在、中国は『世界文化・自然遺産の保護に関する条約』や『文化財産の不法な輸出入とその所有権の不法な譲渡を禁止・防止する方法に関する条約』(1989年9月25日加盟)、私法国際統一協会の『盗難または不法輸出された文化財に関する条約』(1997年3月7日加盟)、『武力衝突の状況下での文化財産保護に関する条約』(1999年10月31日加盟)など4件の文化財保護の国際条約に加盟している。

 『文化財産の不法な輸出入とその所有権の不法な譲渡を禁止・防止する方法に関する条約』の主要な宗旨は、締約国の文化財が窃取、極秘発掘、不法輸出の危険から免れるよう保護することにある。このため、各締約国は文化遺産を保護する国家機関を設置し、資格に合う人員を配置するとともに、文化遺産の適切な保護、特に重要文化財産の不法な輸出入と不法な譲渡を防止することを旨とする法律或いは規約の草案を協力制定して履行するほか、考古学的発掘に対する監督、枯渇の著しい重要な公共及び私有の文化財産のリストを制定して絶えず更新し、全ての文化財産の喪失に対する適切な調査などの職責を履行するという義務を担っている。

 『世界文化・自然遺産の保護に関する条約』は世界の文化遺産と自然遺産が破壊と脅威を益々受けつつある状況に対応し、一部の国ではこの種の遺産保護事業が完璧ではなく、経済や科学、技術力に欠けているため、国際間の協力などが必要であるという現実に立って制定された。同条約は文化・自然遺産の定義、文化・自然遺産の国の保護と国際的な保護、世界文化・自然遺産保護の政府間委員会、世界文化・自然遺産保護基金、国際援助の条件と実施などの事項を規定しており、なかでも文化遺産の保護は非常に重要な側面である。

 私法国際統一協会の『盗難または不法輸出された文化財に関する条約』は締約国による窃取された文化財の返還、締約国がその文化遺産を保護する目的のために制定した文化財輸出に関する法律に違反して当該国から流出した文化財などの返還を求める国際的な請求に適用される。条約で言う文化財とは、宗教或いは世俗的な理由から、考古学、有史前史、歴史、文学、芸術或いは科学面で重要性を備えており、当該条約に列挙された分類に属する物品のことである。条約の規定に基づいて、窃取された文化財の所有者は当該物品を返還しなければならず、締約国は別の締約国の裁判所に請求でき、或いはその他の主管機関は請求国の領土から不法に輸出された文化財を返還するよう命令することができる。

 『武力衝突の状況下での文化財産保護に関する条約』は『ハーグ条約』とも呼ばれ、同条約は被占領地からの文化財産の輸出を禁止している。一旦この種の財産が不法に輸出されれば、従来の地に返還しなければならない。議定書は更に略奪した文化財産を戦争の賠償にすることを禁じている。

 人類の文化遺産を保護する多くの国際条約に加盟して以降、中国政府は厳正なる立場を堅持しており、歴史的に見て盗難に遭い、また不法に輸出された中国の文化財を追跡しており、外交や法的手段を講じて、流出した文化財の追跡に何度も成功している。