大運河の真珠――淮安

周恩来総理の故郷からの報道

郁 ?

 淮河は中国の母なる川――黄河、長江の間を流れているが、この流域は中国の亜熱帯湿潤地区と温暖地帯半湿潤地区に属する。

 淮河は河南省の桐柏山に源を発し、江蘇省淮安市を横断して洪沢湖に流れ込んでいる。世界の最も長い人工の川である京杭大運河(北京=杭州)は淮安を縦断している。そのため、淮安は昔から塩を運ぶ要衝、漕運の中枢となり、明・清の最盛期に蘇州、杭州、淮安、揚州は大運河沿岸の四大都市となり、2200年の歴史を持つこの有名な歴史文化都市に豊かな文化の蓄積を残した。

 淮安とは淮水が静かに流れ、氾濫しないという意味である。数千年来、淮河と大運河の豊富で優れた文化は一世代また一世代と淮安の人をはぐくみ育て、大軍事家の韓信、「西遊記」作者の呉承恩、民族的英雄の関天培、梁紅玉らを生んだ。1898年、新中国の初代総理の周恩来が淮安で生まれ、同地で12年間暮らし学んだ。

さんぜんと輝く大運河の文化

 面積1万余平方キロ、人口510万人の淮安市は清浦、清河、淮陰、楚州の四区および漣水、洪沢、金湖、??の四県を管轄している。千余年らい、京杭大運河は両岸の人民をはぐくみ育て、さんぜんと輝く大運河の文化をつくり上げ、淮安は大運河のほとりにある光り輝く真珠となった。

 7世紀初めから20世紀中葉まで、大運河はずっと中国の南北を貫く主な輸送ルートであった。大運河の淮安から揚州までの区間は最も古いもので、2489年前、都を蘇州においた呉王夫差がそれを開通させ、長江の文明と黄河の文明を一応接続させた。明清時期になると、淮安は漕運の要衝となり、大運河文化における淮安の地位はいっそう際立つようになった。

 そのため、淮安は9省を結ぶ交通の要衝となり、このような交通が便利という強みは今日まで保たれてきている。現在、寧連(南京=連雲港)1級道路、寧徐(南京=徐州)高速道路、京滬(北京=上海)高速道路、同三(黒竜江同江=海南三亜)国道道路および北は隴海(蘭州=連雲港)線の新沂から南は浙江省長興に至る新長鉄道はいずれも淮安で交わっている。

 大運河の漕運、塩の運輸など長江流域から北京までの運輸任務は前世紀初めの1901年になってからやっと陸路に取って代わられるようになった。新中国成立後、大運河は浚渫された。今日の淮安では、大運河、淮河、淮?新河、塩河、古黄河という五本の川が交わり、長江と海に通じ、中国の南北を結ぶゴールデン水路となった。海に通じる淮河の水路は淮河と黄海を結ぶ最も便利な水上交通大動脈である。都市化戦略を推進する下で、淮安は江蘇省北部の後背地の重要な交通中枢の役割および放射の機能を発揮している。

 世界に堤防のある川がたくさんあるが、堤防のある湖があまり多くはない。淮安の南にある洪沢湖は、堤防のある湖である。洪沢湖の湖底の部分は堤防外の多くのところの民家より高いため、洪沢湖は世界唯一の地面より高い湖である。

 三千余年前、黄河、淮河の土砂が堆積し、水面に変化が生じたため、にぎやかな泗州城および明朝の皇帝の陵墓はすべて洪沢湖の下に沈んで文物となった。新中国成立後、中央政府が確定した最初の水利工事は淮河を整備することである。淮河の上流にダムを建設し、樹木を植えたほか、国は淮河のために淮安から東の黄海に注ぐ減河を掘り、淮河の一部の水を直接海に流れ込ませ、淮河の南の長江に流れる通路を整備した。

 淮安は引き続き大運河文化の真珠となる。淮河の発展史が教えているように、通じれば痛くなくなり、通じなければ痛くなり、自己閉鎖をすれば、発展するのが難しく、世界に通じてこそ活路がある。

資源を富に変える

 淮安の歴史文化資源は、企業誘致と資金導入、世界との相互理解増進に対し非常に大きな推進的役割を果たしている。それだけでなく、周恩来を誇りとするこの有名な都市は人気のある観光地となりつつある。淮安に観光に来る前、まず淮安の歴史上の有名人を知る必要がある。淮安の昔の栄誉を追憶する時、同地で生まれた傑出した人物に思いを馳せないわけにはいかない。

 大軍事家の韓信は漢の高祖劉邦の「三傑」の一人であり、敵が強く味方が弱い状況の下で、劉邦を助けて、四面楚歌、八面埋伏の戦法で西の楚国の覇王項羽を打ち負かした。若い頃の韓信は貧しく落ちぶれ、かつて漂母という洗濯おばさんからもらった食べ物を食べて、やっと死なずに済んだ。また市井の無頼漢の挑発に屈服して、その人の股ぐらをくぐったこともある。韓信が劉邦を助けて天下を統一した後、故郷へ帰って漂母のために祠を立て、また例の無頼漢を探して、あの時は自分が耐え忍んだから、大きな謀が乱れないで済んだと言い、さらに相手の勇気を褒め、軍職に任じた。韓信が成功してもおごり高ぶらなかったため、故郷の人々は彼を深く崇敬している。今では、淮安市内にある漂母祠、股ぐらくぐったところは人気のある観光地となっている。

 中国に貢献をした淮安の最も重要な人物は現代の偉人周恩来である。周恩来の本籍地は浙江省紹興であるが、祖父の周攀竜から淮安に引っ越した。1898年3月5日、周恩来は今の楚州区鎮淮楼のそばにある?馬巷で生まれた。周恩来は共産党員の風采だけでなく、またその人格の魅力で、中国人民ないし世界人民に慕われている。周恩来が自ら提唱した平和共存五原則は今でも国と国が付き合う政治的基礎となっている。今日、淮安市は全国人民の願いに基づいて周恩来旧居、少年時代に勉強した東廂房の装いを一新し、記念館と銅像を建てた。東廂房の外に樹齢百年の蝋梅の木が一株あり、周恩来がかつて水をやったことのある寒梅は今でも毎年黄色の花を咲かせている。

 中国文学史上の名著『西遊記』の作者呉承恩は明代に淮安府山陽県(今の淮安市楚州区)で生まれた。『西遊記』は中国の長編神話小説史の最優秀の作品であり、その描いた理想の化身孫悟空のイメージは世界の無数の人を魅了している。

 女傑の梁紅玉は淮安の生まれである。彼女は南宋元帥韓世忠の妻だけでなく、自身も金国と戦う戦士であった。彼女は自ら陣太鼓を打ち鳴らし、鎮江金山の水上で金軍と戦いを繰り広げ、大勝を収めたことがある。

 イギリス軍に抵抗する提督の関天培も淮安で生まれた。1841年初め、60の坂を越したこの老将は虎門の砲台で戦死し、アヘン戦争の最後の幕を下ろした。関天培祠堂は淮安楚州区にあり、祠の中に林則徐の書いた対聯がある。

 『老残遊記』の作者劉鶚も淮安出身である。上述の淮安有名人の遺跡とともに、枚乗、鮑照、周信芳、郎静山、李公朴らの旧居も歴史の記憶に残っており、淮安を訪れる人々がぜひとも見に行くところとなっている。

 1970年代、洪沢湖の底で300年近く眠っていた明朝の皇帝の陵墓は再び日の目を見るようになり、今でも水底にある泗州城も文物保護と観光開発が始まる。水上長城の洪沢湖大堤、国立森林公園の??第1山、鉄山寺の景色は四方八方の観光客を引きつけている。

 淮安は中国の四大伝統料理の一つである淮揚料理の発祥地であり、淮揚一帯のおいしい料理と風味軽食は国内外で名声を馳せている。淮揚料理の発掘と革新によって淮安の世界との親和力を深めた。

 2002年、中国淮安淮揚グルメ文化祭が淮安の大運河文化広場で催され、淮安の飲食文化も世界に向かい始めた。

 今日の淮安市街区は面積が75平方キロ、人口が73万人で、市街区を流れる川が6本あり、大気の質、川水の質はそれぞれ国の2級と3級の基準に達し、「水の中の城、城の中の水、緑の中の城、城の中の緑」という自然生態と区域中心都市となっている。周恩来記念館、周恩来旧居、呉承恩旧居、関天培祠、韓侯祠、股ぐらくぐり橋、漂母の墓、梁紅玉祠、劉鶚旧居など有名人の古里や見所は真珠のように淮安の大地で光り輝いている。

資金を導入

 現在、淮安が直面している最大の問題は発展が十分でなく、速くないことであると同市党委員会書記の丁解民氏は次のように語った。

 われわれは終始発展を人民を豊かにし市を強くする最も重要な事とし、発展を速める面でさまざまな妨害によって変わったり、さまざまな論議によって動揺したり、さまざまな矛盾に困惑したりしてはならない。淮安は質を確保し、水増しがない前提の下で発展をスピードアップさせ、500万人民のためにレベルのより高いいくらかゆとりのある社会を全面的に建設しなければならない。われわれの要求は第10次5カ年計画期の残りの3年間に国内総生産(GDP)の伸び率を約12%保つことである。

 中国の東部から見て、淮安は経済がまだ発達していない地区である。丁解民氏は次のように見ている。低いレベルの基礎の上でいくらかゆとりある社会を全面的に建設し、開放度が高くない状況の下でWTO 加盟のチャレンジに対応し、工業化の任務がまだ達成していない状況の下で情報化のテンポに追いつき、就職のプレシャーが絶えず大きくなる状況の下で各項の改革を深めるには、緊迫感と憂患の意識がなければならない。革新をすれば事業が栄えるが、古いしきたりにこだわれば衰える。革新の核心はしきたりを突破し、伝統を打ち破ることである。淮安で大胆に考え、大胆に突き進み、大胆に試み、大胆に角頭を現す雰囲気をつくり出し、法律の枠組内、科学の旗印の下で淮安の人が考え出せず、やれない事はない。

 改革・開放の20余年来、淮安は新興工業都市となり、冶金、機械、化学工業、紡績、煙草などの支柱産業を形成し、バイオテクノロジーと医薬、省エネと環境保全、機械・電子一体化、新素材などのハイテク産業が興起している。工業増加値は全市のGDP総額の40%以上を占め、淮安鉄鋼グループ、清江石油化学工業グループ、淮陰煙草工場など一部の重点企業の総合経済指標はすでに全国同業者の上位にランクされた。一品梅印巻きタバコ、淮鋼印特殊鋼、清江印特殊電機、輝煌印太陽エネルギー湯沸かし器など多くのブラント品は内外でよい売れ行きを見せている。淮安にはまた開発の値打ちがある岩塩、硫酸ナトリウムなどの鉱物資源が豊富にある。

 淮河は源から河口まで整備する必要があり、淮安の発展は、経済グローバル化の角度から方策を決定する必要がある。丁解民氏は企業誘致と資金導入は淮安が発展を加速するにあたって真っ先にやらなければらないであると語った。

 淮安も確かに経済グローバル化に融け込むのを速めており、淮安の商品は五大洲の100余ヵ国・地域に輸出されている。韓泰タイヤ社、チャ・タイ・グループ、イタリアのダオリ社など20余社の大手企業財団は淮安に投資し、そのうち、韓国タイヤ社の投資額は1億7200万ドルに達した。淮安はフランス、ロシア、アメリカ、韓国、イタリア、日本の六ヵ国の都市と友好都市関係を結んだ。全市は八つの開発区を設置し、税関、検査検疫、外国為替管理、外事、プロジェクトの審査・認可センターなどのサービス施設がそろっている。淮安は企業誘致、資金導入にいっそう力を入れ、その効果を高めている。

 企業誘致面の大量の仕事はソフト環境を整えることで、ソフト環境は淮安人の一人一人が観念を更新し、先輩がこの土地で創出した伝統的文明を現代化、グローバル化と急速に結びつけることができるかどうかによって決定づけられる。淮安市は関係部門の妨害問題を解決し、誠実と信用で投資家に対処し、商業に親しみ、商業を優先させる気風を提唱し、投資に来た人に礼儀正しく接し、友人として付き合い、賓客に対しては軽々しく承諾しないが、承諾した以上は必ず守り、全市民の力を十分に発揮して企業を誘致し、資金を導入すべきである。

 2002年、淮安のGDP総額は前年比11.6%増の375億元、財政収入は22%増の43億元にそれぞれ達し、都市部住民の1人当たり可処分所得は7157元、農民の1人当たり純収入は3365元で、伸び幅はいずれも全国の平均レベルより明らかに高く、教育、科学技術、文化、医療・衛生の諸事業は空前の発展をとげている。

 淮安は依然として物産が豊かな所であり、野菜、家禽、水産物、林業果物、ブタ飼育産業の規模は絶えず大きくなっている。淮安は40万ヘクタールの耕地、20万ヘクタールの内陸水域があり、土地が肥え、汚染がなく、全国の重要な商品食糧生産基地、商品ブタと商品牛の飼育基地、レンコン産地、家禽・たまご産地となっている。第9次5ヵ年計画期の淮安農民の1人当たり純収入は11.2%伸びて、江蘇省の上位にランクされた。

 淮安の美味しいものは皆様が味わうのを待っており、淮安の美しい景色は皆様が観賞するのを待っている。もちろん、この大運河沿岸の真珠も皆様がその近代的な文明に融け込み、淮安ととも美しい未来を迎えるのを望んでいる。