人々の目に映る胡錦涛氏

新たに国家主席となった胡錦涛氏には、名門大学の卒業、控え目で沈着、実直で実務的、地方行政で豊かな経験と非凡さをもつ人物――といった評価がある。

章文・孫亜菲

 「胡錦涛氏はしっかりとした専門教育を受け、地方行政で経験を積み、国内の実状に明るく、ここ数年は党中央の仕事に一途に取り組んできた」。中国共産党中央党学校の王貴秀教授はこう強調する。これが多くの人の見方だろう。

 胡錦濤氏は1942年12月の生まれで、安徽省績渓の出身。少年時代に江蘇省・泰州に移り住んだ。泰州は京劇の名優、梅蘭芳の故郷でもある。高校時代に胡氏を教えたことのある教師によると、芸術的才能に溢れ、とくに演劇が上手だったという。

 「彼は決して自己宣伝する人ではなかった」。88歳になる劉秉霞女史(夫の姉は胡氏の祖母に当たる)は、昔のことをよく覚えていた。「級長に選ばれても家族には誰も知らせず、後に同級生から聞かれされたものです」。ある元教師は「級長として、クラスをまとめることに心を砕いていた」と話す。

 1959年の夏、17歳の胡氏は優秀な成績で理系の名門校・清華大学に合格し、水利工程学部で河川中枢発電所を専門に学んだ。これが胡氏の人生の大転換となる。当時の清華大学は6年制で、成績評価は5点満点。大学時代の成績は1科目が4点以外、その他はオール「5」だった。文芸活動に積極的に参加し、ダンスを得意とする胡氏は、学生文芸工作団舞踊チーム共産主義青年団の書記となった。共青団畑を歩む人生はここからスタートした、と言っていいだろう。

 在学中に後に妻となる劉永清さんとめぐり合う。その後、二人は結婚する。卒業して数年後、胡氏は環境の劣悪な西北部に赴任することになるが、劉さんも北京での仕事や生活を捨てて夫についていく決心をした。

 1964年、胡氏は中国共産党に入党し、また清華大学の学生政治指導員となり、この期間に行政経験を積んでいく。1965年に大学を卒業。胡氏は母校に残って教鞭を執るかたわら、学生政治指導員を続けた。そして1968年、西北部の甘粛省にある劉家峡水力発電所に赴任。1982年に共青団中央書記処の書記に任命されて北京に戻る。1984年には共青団中央第一書記に就任し、様々な形で青年たちに思想を解放するよう呼びかけていった。

 1985年、経済の遅れた辺境の地、貴州省の省党委員会第一書記に就任。その年、省党委員会と省政府は「教育の発展と知力の開発は省の経済を振興し、省を豊かにする大計である」とする『教育体制改革の推進に関する決定』を制定した。省財政がかなり逼迫するなか、胡書記はその他の支出を圧縮して、4000万元の教育資金を追加し、さらに3年間に2億4000万元を投入して倒壊寸前にある220万平方メートルの小中学校の校舎を立て直す方針を打ち出した。

 1987年の秋、中国共産党は第13回党大会の後、政治体制の改革に乗り出し、胡書記も貴州省の改革を開始した。1988年、貴州省党委員会は政治体制について総合計画を策定。党と政府の分離、省クラスの機関と企業の分離から着手し、省党委員会と省政府の機能区分を重点的に解決するとともに、省クラスの党委員会の組織形態と省党委員会の作業機関を相応に調整することを趣旨とした「貴州省省クラス党政分離の実施計画」「中国共産党貴州省委員会機関機構改革の短期実施計画」を制定した。

 胡書記の指導の下で大規模な機構改革が始まり、人事局や労働局、統計局、会計検査局、商工業局、物価局、対外経済協力弁公室、計画出産委員会、人民戦争防備弁公室、省教育委員会、国防科学技術工業弁公室など11の機関と党グループが廃止され、行政指導者責任制が徐々に確立していく。

 1988年10月、貴州大学で一部の学生たちの間に紛争が生じ、街頭デモにまで発展する事態となった。胡書記は連夜、緊急会議を開いては省の関係機関に対し、「学生たちには情をもって動かし、理をもって諭す」ようにと求め、自らも学生たちと接して彼らの意見に耳を傾けた。こうした穏やかな姿勢が学生たちの怒りを解消させた。

 1988年末、胡氏は生活環境がより厳しく、政治環境もより複雑なチベット自治区の党委員会第一書記に就任。チベットでは当時、少数派が分裂活動を行っていた。胡書記は経済の発展と庶民の生活改善に追われる一方で、「チベット独立」分子に対しては強硬な手段を講じることを強く主張した。

 「庶民の声によく耳を傾けていた」。1959年からずっとチベット自治区ラサ市城関区住民委員会党支部書記を務めてきたローザン全人代代表は、胡書記がチベット自治区に赴任していた時の様子について、「何度も胡書記にお会いしたことがあるが、胡書記はとくに村や下層部に行くのが好きで、都市部や農業・牧畜地帯、どんな小さな村にでも足を運んだ」と話す。

 1992年10月19日、胡氏は当時最年少で中央政治局常務委員に選ばれた。

 1993年から2002年まで、中国共産党中央党学校学長を十年近く兼任。同校中国共産党建設教育研究部主任の盧先福教授は「彼は実務家で、とくに理論の研究では、幅広い思想と理論を模索するよう学者たちに提唱した。教職員の間では信望が厚く、評判のいい人だった」と振り返る。

 「彼は実務のみならず、改革・革新の意識を持ち、機敏で柔軟性があり、他人の意見をよく聴いていた」と、70歳を過ぎた同校の葉。、初教授は語る。

 外国の専門家や学者、政府高官を講義や講演に招き、市場理論面の書籍を導入してテキストとし、学者に対しては政治制度の研究や民主的な自由な討論を行うよう奨励した……胡学長の指導の下で、党学校という高級幹部の養成拠点は思想が活発で、学術的雰囲気に溢れ、実践の精神を備えた政治改革研究の前線基地となっていく。

 中南海入りは、胡氏にとって高次元な政治生涯の始まりとなった。中央書記処書記として、複雑な党務を処理していくなか、事務を整然とこなし、新たな考えを打ち出す洞察力が鋭く、意志の強い政治家とての有能さが示された。毎年のように下層部や地方に実地調査に出かけることも欠かさなかった。

 1999年初め、政府の機構改革が行き詰まった際、胡書記は専門グループを発足させ、国務院に協力して機構改革の実施を推進よう命じられた。

 胡書記は「大胆に若手幹部を起用する」と主張し、幹部抜擢の基準として(1)思想・政治的資質を重視する(2)態度・姿勢を重視する(3)行政上の業績を重視する(4)大衆の認知度を重視する―――の4点を掲げた。この時の胡書記の談話は、メディアが報道しているように、民主的政治の確立という改革が深化していることを示すものである。

 党務をもっぱら担当していた胡錦涛氏は外国訪問が少なく、外交手腕にやや劣るのは間違いない、との声があった。だが実際は、外交分野でもいささかも遜色がなく、物腰が柔らかで、傲慢にもならず卑屈にもならない態度は、各国の指導者に好印象を残した。1998年、胡氏は国家副主席に選ばれて間もなく、韓国や日本など隣国を訪問し、成功を収めた。

 2001年10月、胡副主席は初めてヨーロッパを訪問。だが、真に世界の政治舞台に登場したのは、2002年5月の初の米国訪問からである。ワシントンでブッシュ米大統領や政府高官と会談した際、中国の立場を固く守る外交姿勢をより鮮明に示した。この時、胡副主席は「台湾問題を適切に処理することが両国の建設的パートナーシップを増進する鍵であり、台湾問題にいかなる面倒なことでも生じれば、中米関係のさらなる発展は難しくなり、ひいては後退することもあり得る」と指摘した。

 2002年11月15日の第16回党大会で、胡副主席は7人いる政治局常務委員のうち唯一の留任者として党中央総書記に選出された。

 その時の記者会見で、胡総書記は次のように述べた。

 「中国共産党は時代とともに進み、開拓と進取の気象という良好なイメージを世界に向けさらに顕示していくであろう。われわれ全党と全国各民族人民は、さらに一致団結し、一心に建設に取り組んで発展を目指し、引き続き改革・開放と現代化建設の事業を推進していく。中国の明日は必ずや麗しいものとなり、中国の発展と進歩は必ずや世界の平和と発展に大きく寄与するであろう」。

 あるメディアはこう評している。「胡錦涛氏は長年にわたるその行動で、慎重かつ忠実で、柔軟性のある共産党国家の指導者としてのイメージを示してきた。だからこそ人々は、胡錦涛氏が後継者としての役割を立派に果たし、中国の経済建設や改革・開放事業を新たな段階へと推し進めていくと信じているのである」。