新疆の歴史と発展

中華人民共和国国務院報道弁公室

2003年5月

目次

まえがき

一、新疆は昔から多くの民族が集まり住むところ

二、新疆における多種宗教の並存と伝播

三、歴代中央政府の新疆に対する管理

四、「東トルキスタン」問題の由来

五、新中国成立後の新疆経済の発展

六、教育・科学技術・文化・医療衛生事業の進歩

七、人民生活のレベルアップと質的向上

八、民族の平等・団結、宗教信仰の自由の堅持

九、新疆生産建設兵団の創立、発展とその役割

十、新疆の発展に対する国の支持

あとがき

まえがき

新疆ウイグル自治区(以下、新疆と略称)は中国の北西辺境、ユーラシア大陸の後背地にあり、面積は中国国土面積の六分の一を占める166万4900平方キロ、陸地の国境線は5600キロで、周辺は8カ国の国土と接しており、古代シルクロードの重要な通路である。2000年の統計によると、新疆の人口は1925万人、そのうち漢族以外のその他の民族の人口は1096万9600人である。現在、新疆には47の民族があり、主にウイグル、漢、カザフ、回、蒙古、キルギス、シボ、タジク、ウズベク、満州、ダオール、タタール、ロシアなどの民族が住んでおり、新疆は中国の五つの少数民族自治区の一つである。

新疆は昔から多くの民族が集まり住み、多種の宗教が並存する地区で、前漢(前206年〜24年、いずれも西暦、以下同じ)時期から中国という統一的多民族国家の不可分の構成部分となり始めた。中華人民共和国成立後の50余年来、新疆の各民族人民は団結、協力し、開拓に努め、共同で新疆の開発、建設、辺境防衛の面で輝かしい一章を書き上げ、新疆の社会的様相に天地がひっくり返るような変化が生じた。

一、新疆は昔から多くの民族が集まり住むところ

古代において、多くの部落と民族が新疆に集まり住んだことがある。新疆の住民がどの民族に属するかについて、漢代(前206年〜220年)から明確な記載があり、当時は主として塞(Sak)人、月氏(Yueh_chih)人、烏孫(Usun)人、羌人、匈奴(Hun)人、漢人があった。

塞人はもともと東のイリ川、ツー川流域から西のシル川流域までの地区で遊牧していたが、月氏に排斥されて西遷し、一部の人はシル川の北岸に退去し、他の一部の人はパミールに南下し、各地に分散して居住した。月氏人は戦国(前475年〜前221年)時期に河西回廊からタリム盆地までの広大な地区で活動し、秦(前221年〜前206年)・漢時期にその勢力が最も強大であった。前176年前後に匈奴の攻撃を受けて、余儀なくイリ川流域へ移転し、当地の塞人を追い出してその地に居住した。烏孫ははじめは河西回廊で活動していたが、秦代末期と漢代初期に、月氏人の攻撃を受けて匈奴に付き従い、後に匈奴の支持の下で月氏人を襲い、それをイリ川流域から追い出した。羌人ははじめは黄河の上中流地区で活動していたが、春秋(前770年〜前476年)・戦国時期に、一部の羌人は河西回廊を経て祁連山、崑崙山に沿って西遷し、新疆に足跡を残した。匈奴人は主に前176年前後に新疆に入った。漢人はわりに早くから新疆地区に入った民族の一つである。前101年、漢王朝の軍隊ははじめはロンタイ、ロプヌル一帯で農地を開墾したが、後に新疆全域に拡大し、各開墾地は漢人が新疆に入ってから最初に分布する地域となり、前60年に西域都護府が設置されてから、漢人は相次いで役人や軍人や商人になって新疆に入った。

魏・晋・南北朝(220年〜589年)時期は中国の民族大融合の時期であり、各民族が頻繁に移動、往来し、また、柔然(Jorjan)、高車、??、吐谷渾など多くの古代民族が新疆に入ってきた。柔然は北部草原の古い民族である東湖人(中国の古代民族名)の子孫であり、5世紀初めに蒙古草原で興起し、402年に強大な政権を樹立し、北魏(386年〜534年)と西域を奪い合った。高車は、敕勒(Tolos)、鉄勒(Teli)とも称され、はじめはバイカル湖およびオルホン川、トゥラ川流域で遊牧し、487年、高車のプウルグノレ部族の首領アボチロとその弟のチュンチは所属部族の10余万戸を率いて西遷し、車師前部(いまのトルファンのジャホー古城)の北西で高車国を樹立した。??は塞北(昔は長城以北の地区を指した)で興起し、5世紀末にタリム盆地に東進し、南の月氏を攻撃し、政権を樹立し、またパミール高原を越えて、一度は新疆南部の一部地区を支配したことがある。吐谷渾は鮮卑(中国の古代民族名)から生まれ、4世紀初めに、遼東(一般に遼河以東地区を指す)から西遷し、徐々にいまの甘南(甘粛南部地区)、四川と青海地区の?(中国の古代民族名)、羌などの民族を征服し、政権を樹立した。

隋(581年〜618年)・唐(618年〜907年)時期、突厥、吐蕃などの古代民族は新疆の歴史の発展に重要な影響を及ぼした。突厥は6世紀から8世紀にかけて中国の北西部と北部の草原で活躍した古代の遊牧民族であった。552年、突厥の首領トゥメンは柔然を打ち破り、漠北(蒙古高原大砂漠以北地区)を中心に政権を樹立したが、その後、東西二つの部分に分裂し、統治権を争奪するためとめどもなく争った。8世紀中葉に、東、西突厥汗国が相次いで滅び、その子孫は他の民族に融け込んでいった。吐蕃はチベット族の先祖であり、6世紀末に青海・チベット高原で興起し、青海を占領した後、唐王朝と西域を奪い初めた。755年、中原地区で「安史の乱」(唐代の安禄山、史思明の起こした反乱)が起こり、西域に駐屯していた唐王朝の軍隊の多くが中原地区に移動したため、吐蕃はその機に乗じて新疆の南部と北部の一部地区を占領した。

840年、多くの回鶻(ウイグル人の古代の呼称)人が新疆に入ってきた。回鶻はもとは回?といい、鉄勒(中国の古代民族名)の部族の一つで、最初はセレンガ川とオルホン川流域で生活し、後はトゥラ川の北部に移住した。744年、強大になった回鶻は漠北で政権を樹立し、しかも二回も出兵して、唐王朝の中央政権が「安史の乱」を平定するのを援助した。840年、回鶻汗国は自然災害、統治集団の内訌および黠戛斯(中国の古代民族名)の侵攻などで滅び、大部分の人は西遷し、そのうちの一部の人はいまのジムサルとトルファン地区に移り、後にゴーチャン回鶻王国を樹立した。ほかの一部の人は中央アジア草原に移り、中央アジアからカシュガル一帯に分布し、葛邏祿、様磨などの民族と一緒にカラ汗王朝を樹立した。その時から、タリム盆地の周辺地区はゴーチャン回鶻王国とカラ汗王朝に統治され、現地の住民は西遷してきた回鶻と融け合い、その後のウイグル族の形成のために基礎を築いた。

1124年、遼王朝(916年〜1125年)の王族のヨリグ・タシンは部族の人を率いて西遷し、新疆地区を征服して、西遼政権を樹立し、多くの契丹人(中国の古代民族名)がその時から新疆に入ってきた。13世紀初め、ジンギス汗は軍隊を率いて新疆に入ってから、その征服した土地を子孫に分け与えた。回鶻人は一部の契丹人、蒙古人といちだんと同化、融合した。

瓦剌(Dyrat)は明代(1368年〜1644年)に漠西の蒙古に対する総称であり、はじめはエニセー川上流地区に分布していたが、後にたえずイルティン川中流、イリ川流域に拡がっていった。17世紀初めに、凖?爾(ジュンガル)、杜爾伯特(トゥルボテ)、和碩特(ホソーテ)、土爾扈特(トゥルフテ)の四部族が徐々に形成された。1670年代に、ジュンガルはイリ川流域を占拠して、四部族のかしらとなり、新疆南部を統治した。

1760年代以後、清朝(1644年〜1911年)政府は新疆の国境警備をいちだんと強化するため、東北地区から陸続と満州、シボ、ソレン(ダオール)など諸民族の将兵を新疆に駐屯させ、彼らは新疆の少数民族の新しいメンバーとなった。その後、ロシア、タタールなどの民族も新疆に移住してきた。19世紀末になると、新疆にはウイグル、漢、カザフ、蒙古、回、キルギス、満州、シボ、タジク、ダオール、ウズベク、タタール、ロシアなど13の民族があり、ウイグル族を主体として、多くの民族が集まり住む新しい分布の枠組みが形成された。

二、新疆における多種宗教の並存と伝播

新疆は古代の東方と西方の経済・文化交流の主な通路、中枢として、昔から多くの宗教が並存する地区である。早くもイスラム教が伝来する前から、?教、仏教、道教、マニ教、ネストリアン教など多くの宗教が相次いでシルクロードに沿って新疆に伝播され、現地で生まれ発展した原始宗教と共に各地に伝わっていった。イスラム教が伝来した後、新疆で多種の宗教が並存する局面が保たれたばかりでなく、キリスト教、カトリック教などの宗教も伝来した。

外国の宗教が伝来する前、新疆の古代住民は地元で生まれ発展した原始宗教および原始宗教から発展したシャーマニズムを信仰していた。今でも、新疆の一部の少数民族は程度こそ違うが、原始宗教とシャーマニズムの観念、風俗を保留している。

前4世紀前後に古代ペルシャで生まれたゾロアスター教つまり中国の言う?教(俗に拝火教と呼ばれる)は中央アジア経由で新疆に伝来した。南北朝から隋・唐時期までの期間に、?教は新疆各地で流行り、トルファン地区ではとくに盛んであった。当時の高昌政権は?教管理を強化するため、わざわざ機構を設置し、役人を配備した。新疆のイスラム教を信仰する一部の民族は歴史上?教を信奉したことがある。

前1世紀前後に、インドで生まれた仏教はカシミール経由で新疆に伝来した。その後まもなく、仏教は各地の統治者が大いに推し進める下で、新疆の主な宗教に発展した。仏教の最盛期に、タリム盆地周辺の各オアシスでは、仏寺が林立し、僧侶と尼僧が大勢おり、于?(ユータン)、疏勒(スゥロ)、亀?(グェーズ)、高昌(ゴーチャン)など有名な仏教中心が形成された。新疆の仏教は仏像製作、絵画、音楽、舞踊、寺院と石窟建築芸術などの面で非常に高いレベルに達し、大量の貴重な文化遺産を残し、中国と世界の文化芸術宝庫を豊富にした。

5世紀前後に、中国の内陸地区で流行った道教は漢人がたえず入ってくるに従って新疆に伝来した。しかし、伝播の範囲は広くなく、主に漢族の人が集中していたトルファン、ハミなどの地区で流行った。清代になってから、道教はやっと新疆全域に伝播した。

6世紀前後に、マニ教はペルシャから中央アジア経由で新疆に伝来した。9世紀中葉に、マニ教を国教とする回鶻が新疆に西遷した後、マニ教の新疆での発展を促した。マニ教を信仰する回鶻人はトルファン地区で寺院を建立し、洞穴を掘り、経典を翻訳し、壁画を描いて、マニ教の教義と文化を推し広めた。マニ教が伝来する前後に、ネストリアン教(キリスト教の早期の宗派であるネストリアン派)も新疆に伝来したが、初期の伝播は広くはなかった。元代(1206年〜1368年)になってから、多くの回鶻人が信奉するようになってから、ネストリアン教はようやく盛んになってきた。

9世紀末から10世紀初めにかけて、イスラム教は中央アジア経由で新疆の南部地区に伝来した。10世紀中葉、イスラム教を信奉するカラ汗王朝はユータンの仏教王国に対し40余年にわたる宗教戦争を発動し、11世紀初めに于?を滅し、イスラム教をホータン地区に推し広めた。14世紀中葉から、チャガタイ汗国(ジンギス汗の次男チャガタイが西域で樹立した属国)の強制的推進の下で、イスラム教は次第にチャガタイ汗国にいる蒙古人、ウイグル人、カザフ人、キルギス人、タジク人などが信奉する主な宗教となった。16世紀初めに、イスラム教はついに仏教に取って代わって新疆の主な宗教となった。

イスラム教がウイグルなどの民族が信奉する主な宗教となってから、それまでにこれらの民族が信奉していた?教、マニ教、ネストリアン教は新疆でだんだんすたれていったが、仏教、道教は依然として存在した。明代から、チベット仏教も大きな発展をとげ、イスラム教とともに新疆の二大主要宗教となった。17世紀後半に、イスラム教アクタリク派の首領アパクホジャはチベット仏教の力を借りて政敵のカラタリク派ホジャの勢力を消滅し、同時にヤルカン汗国(蒙古のチャガタイ汗の子孫が1514年から1680年までの間にいまの莎車(サチェ)を中心に樹立した地方政権)を滅した。これを見ても、当時チベット仏教の勢力が大きかったことがわかる。およそ18世紀からキリスト教、カトリック教が相次いで新疆に伝来し、仏教、道教、シャーマニズムもわりに大きな発展をとげた。これら宗教の寺院と教会は天山の南北にくまなく分布しており、一部のイスラム信者がキリスト教など他の宗教を信仰するようなことさえ現われた。

歴史上、新疆の宗教はたえず変化していたが、外来宗教が伝わってきてから形成された多種の宗教が並存する局面がずっと保たれている。現在、新疆には主としてイスラム教、仏教(チベット仏教を含む)、キリスト教、カトリック教、道教などがある。シャーマニズムも一部の民族の中で依然としてわりに大きな影響力をもっている。

三、歴代中央政府の新疆に対する管理

新疆と中原地区は昔から密接な関係がある。前漢の初期に、西域各地は匈奴の統治下にあった。前138年、漢王朝の辺境地区で略奪を働く匈奴を撃退するため、漢王朝は張騫を使節として西域に派遣した。前121年、漢王朝の軍隊は河西回廊一帯に駐屯し、放牧していた匈奴軍を大いに打ち破り、漢王朝はその一帯に前後して武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を設置した。前101年、前漢王朝は数百人の軍隊を天山南部のロンタイ、ロプヌルなどに駐屯して農地開墾に従事させ、「使者校尉」という地方官吏を置いて統率させ、後に「使者校尉」は「護?善以西使者」に改称された。

前60年(漢の宣帝の神爵二年)、「西域都護府」が設置された。当時、匈奴の統治層内に動乱が生じ、西域を鎮守していた匈奴の日逐王賢?は「その部下数万騎を率いて」漢王朝に帰服した。前漢王朝は鄭吉を「西域都護」に委任し、ウルリ(いまのロンタイ県にある)に駐屯させ、西域全域を管理させた。西域各地の首領と主だった官吏はみな前漢から官職を賜われた。西域都護府の設置は、前漢が西域で国家主権を行使し始め、新疆が中国の統一的多民族国家の一構成部分となったことを示している。

後漢(25年〜220年)政府は西域でまず「西域都護」を置き、そのあと「西域長史」を置いて、引き続き天山南北各地に対し軍政管理を行った。221年、三国(魏、蜀、?)の曹魏(220年〜265年)政権は漢王朝の制度を引き継ぎ、西域に「戊己校尉」を置いて、ゴーチャン(トルファン)を管轄させ、その後はまた西域長史を置いて、西域各地の多くの民族を管理させた。西晋(265年〜316年)末年、前涼政権(301年〜376年)創立者の張駿は軍隊を派遣して西域を征伐し、ゴーチャン地区を占領し、ゴーチャン郡を設置した。北魏王朝は?善(シャンシャン)鎮、焉耆(イェンチー)鎮を設置して、西域に対する管理を強化した。

隋・唐時期、中央政府は新疆に対する統治を強化した。6世紀末、隋王朝は中原を統一し、隋の煬帝(604年〜618年在位)は即位してから、まず吏部侍郎の裴矩を張掖、武威へ派遣して西域との通商を主管し、西域の民情を調査させた。608年、隋朝の軍隊は伊吾(イーウ)に進駐して、城郭を築造し、?善(シャンシャン、今のローチャン)、且末(チェモ、今の且末の南西にある)、伊吾(イーウ、今のハミにある)の三郡を設置した。

7世紀初め、唐王朝は隋王朝に取って代わって興起した。630年、以前は西突厥に属していた伊吾(いまのハミ)城主は所属の七城を率いて唐王朝に帰順し、唐王朝は西伊州(後に伊州と改称)を設置した。640年、唐王朝の軍隊は突厥について唐王朝に反対するゴーチャンの麹氏王朝(501年〜640年)を打ち破り、同地に西州を設置し、また可汗浮図城(Kaganbu、今のジムサル)に庭州を設置し、同年にゴーチャンに安西都護府を設置した。これは唐王朝が西域に設立した最初の高級軍政管理機構であり、後に庫車(クチェ)に移り、安西大都護府に改称した。唐王朝は西突厥を打ち破ったあと西域各地を統一し、702年庭州に北庭都護府を設置し、その後それを北庭大都護府に昇格させ、天山北麓と新疆東部地区の軍政事務を管理させ、安西大都護府に天山南部および葱嶺以西の広大な地区を管理させた。唐の玄宗(712年〜756年在位)年間に、唐王朝はまた二大都護府の上に当時の全国八大節度使の一つである「磧西節度使」を置いた。

唐王朝の中央政府は西域各地で漢族と他の民族を別々に管理する制度を実行した。つまり漢族の人が集まり住む伊州、西州、庭州などでは、行政面では中原地区と同じような府、州、県、郷、里の管理制度を採用し、経済面では「均田制」(唐王朝の田制)と「租庸調制」(唐王朝の租税制度)を推し進め、軍事面では「府兵制」(唐王朝の軍事制度)を実行した。漢族以外の人が集まり住むところには、[羈縻府州]を設置した。つまり現地の民族首領による行政管理制度を引き続き維持し、彼らに唐王朝の都護、都督、州刺史の称号を与え、以前の習俗に従って所属する人たちを管理するのを許した。同時に亀?(グェーズ)、于?(ユータン)、疏勒(スゥロ)、碎葉(一度は焉耆であった)で軍事制度を確立した。これは歴史上「安西四鎮」と称されている。

五代・宋・遼・金時期に、中原地区の諸王朝が統治権を争奪するため西域を顧みる暇がなく、西域にいくつかの地方政権が並存する局面が現れた。そのうちの主なものは、ゴーチャン、カラ汗、ユータンなどの地方政権があり、これらの政権はいずれも中原の諸王朝と密接な関係を保っていた。

ゴーチャンとカラ汗王朝は、ともに840年漠北の回鶻汗国が滅んだ後、西域に西遷した回鶻人が突厥語を話すその他の諸民族と連合して樹立した地方政権であり、前者はトルファン地区を中心とし、後者は天山南部、中央アジアの河中(Samarkand)などを含めて広大な地区を支配した。

回鶻人が西域に住みつき、その樹立した地方政権が中原の王朝と密接な関係を保っていたことから、カラ汗王朝の統治者は「桃花石汗」と自称した。つまり「中国の汗」という意味で、自分が中国に属することを示した。1009年、ユータン地区を占領したカラ汗王朝は北宋(960年〜1127年)に使臣を派遣して贈り物を献上した。1603年、北宋はカラ汗王朝の可汗を「帰忠保順*鱗黒韓王」に封じた。北宋樹立後の3年目に、ゴーチャンの回鶻は北宋に42人の使者を派遣して贈り物を献上した。

ユータンは塞人の居住地であった。唐王朝以後、ユータンの尉遅王族が執政し、中原地区との往来が密接になり、唐王朝に封じられたことがあるため自らの名字を李と称した。938年、後晋の高祖は張匡?、高居誨を使節としてユータンに派遣し、李聖天を「大宝ユータン国王」に封じた。北宋初期に、ユータンの使臣、僧侶がたえず宋朝に貢物を献上した。

元朝時期にジンギス汗は天山南北に対する政治的統一を完成した。蒙古汗はまず初めに「ダルガツ」(蒙古の官職名で、鎮守官という意味)、「ベシバリク等処行尚書省」などの軍政管理機構を設立して、西域に対し軍政管理を行った。元王朝は樹立後、西域各地の社会、経済を発展させると同時に、トルファン地区に提刑按察司を設け、その後はまたトルファンなど各地に交鈔提挙司(紙幣印刷機構)と交鈔庫などの機構を設置し、また「ベシバリク元帥府」を設けて同地に派遣する「新附兵」(元朝が捕虜にした南宋の兵士で編成した軍隊)の開墾事務を管理させ、そして軍隊をホータン、チェモなどに派遣して農地開墾に従事させ、ベシバリクに精錬所をつくって「農具を鋳造した」。ウイグル(元王朝は回鶻を「ウイグル」と称した)地区で「ムーを単位として税金を徴収した」。1406年、明朝はハミ衛を設け、地元ハミの氏族首領を各級の官吏に任用し、現地の軍政事務を管理させ、中国と西域との通商ルートの安全を確保し、西域のその他の地区をその支配下においた。

清朝政府の西域に対する統一の規模と管轄の範囲。1757年、清朝は西北地区を長期にわたって割拠したジュンガル政権を平定した。2年後、清朝はイスラム教アクタリク派首領の大、小ホジャ(大ホジャはブルハニディン、小ホジャはホジャジャハ)の反乱を平定し、西域各地の軍政管轄を強固にした。管理制度の面では、1762年に設立した「イリ将軍」で天山南北各地に対する軍政管轄を統一的に行使し、官衙を「恵遠城」(今のホーチョン県)に駐在させ、それぞれ都統、参賛、弁事、領隊大臣を置いて各地の軍政事務を管理させた。清朝政府は「その地の事情に適し」、「その地の風俗に基づいて管理する」という原則にのっとって、天山北部の漢族と回族の居住区に対し郡県制管理を実行し、イリ地区と天山南部各地のウイグル族に対しては現地の「伯克(Baeg)制」を維持したが、伯克(突厥語、地方官吏の称号)の任免権は中央に属し、政治と宗教を厳格に分離させた。蒙古族およびハミ、トルファン地区のウイグル族に対しては、王、貝子、公などの世襲爵位を封ずる「扎薩克(Jasak)(蒙古語で、支配者という意味)制」を実行した。清朝政府は役人の任用面では満州族を主とし、各民族の役人を併用する政策をとり、経済面では農業を主とし、農業と牧畜業を同時に発展させる措置をとり、租税を軽減し、財政定額補助を確定するなどの制度を実行した。清朝の統治期間に、新疆の社会と経済は着実な発展をとげた。

1840年のアヘン戦争後、新疆はツァーロシアなどの列強の侵略を蒙った。1875年、陜甘(今の陜西省、甘粛省)総督の左宗棠が新疆の事務を監督、処理する欽差大臣に就任した。1877年の年末に、清王朝の軍隊は中央アジアのコカント汗国(Fergana)のアクパエが侵略、占領した天山南北の各地を次々と回復した。1881年2月、清朝政府はツァーロシアに11年も強行占領されたイリを回復した。1884年、清朝政府は正式に新疆に省を設置し、「故土新帰」の意を取って西域を「新疆」に改称した。新疆省の設置は清朝政府が歴代王朝の新疆管理に対する重大な改革である。その時から、巡撫が新疆全域の軍政事務を管理し、新疆の軍政中心はイリから迪化(今のウルムチ)に移った。1909年に至って、新疆省は4道を管轄し、道の下には6府、10庁、3州、21県または分県が設置された。こうして、新疆の行政制度は中原地区とまったく同じようになった。

辛亥革命が勃発した翌年の1912年、革命党人がイリで策動した武装蜂起は成功をおさめ、新伊大都督府を設立し、イリ地区における清王朝の政治統治の終結を宣告した。民国政府は成立してから、新疆の防衛事務をたえず強化した。

1949年9月25日、新疆は和平裏に解放された。全国解放の情勢が発展し、新疆各民族人民の革命闘争の情勢が盛り上がるに伴って、国民党新疆警備司令官の陶峙岳、新疆省政府主席のブルハン(包爾漢)は帰順を宣言し、中国人民解放軍第一野戦軍第一兵団が王震将軍の指揮のもとで新疆に進駐した。1949年10月1日、新疆各民族人民は全国人民とともに中華人民共和国の成立を迎えた。

以上述べたことを総合すると、漢王朝が前60年に新疆に「西域都護府」を設置してから、中国の歴代中央政府はいずれも新疆に対し軍政管轄を行った。歴代の政権の統治がきつくなったり緩くなったりしたため、新疆に対する中央政府の管轄もきつい時もあれば緩い時もあった。新疆の各民族人民は中央政府との関係を積極的に維持し、中華民族大家庭の形成と強固のために自らの貢献をした。

四、「東トルキスタン」問題の由来

中世紀のアラビア地理学著作の中に「トルキスタン」という語が出てきたことがある。この語は「トルキスタン人の地域」という意味で、中央アジアのシル川以北およびそれに隣接する東部地区を指している。歴史の移り変わりに従って、近代になってから中央アジアの各民族が相次いで独立し、18世紀になると「トルキスタン」の地理的概念はかなりあいまいになり、当時の史書の中でもほとんど使われなくなった。19世紀初め、帝国主義列強が中央アジア地域で植民地をいちだんと拡張するに伴い、「トルキスタン」という地理名詞が再び使われるようになった。1805年、ロシア人のジムコフスキーは使節団の訪問レポートの中で中央アジアと中国の新疆南部のタリム盆地の地理的概念を説明するため、またも「トルキスタン」という名称を使った。両地の歴史、言語、習俗、政治的帰属の違いによって、彼は「トルキスタン」東部にある中国新疆のタリム盆地を「東トルキスタン」あるいは「中国トルキスタン」と称した。19世紀中葉になると、ロシアは相前後して中央アジアのヒワ、ブハラ、コカントの3汗国を併呑し、中央アジアの河中(Samarkand)地区に「トルキスタン総督区」を設置した。すると、西側の一部の人は中央アジアの河中(Samarkand)地区を「西トルキスタン」あるいは「ロシア領トルキスタン」と称し、中国の新疆地区を「東トルキスタン」と称するようになった。

20世紀初めから、世界の宗教極端主義と民族ショービニズム思潮の影響を受けた新疆のごく少数の分裂分子と宗教極端分子は、旧植民地主義者の言い方にならって、「東トルキスタン」という規範的でない地理名詞を政治化させ、いわゆる「東トルキスタン独立」という「思想論理体系」をでっち上げた。彼らは「東トルキスタン」が昔から独立した国で、その民族は1万年近くの歴史があり、「人類史上最も優秀な民族である」と鼓吹し、突厥語を話し、イスラム教を信奉するすべての民族が連合して「政教合一」の国をつくろうとわめき立て、中国の各民族が共同で偉大な祖国をつくった歴史を否定し、「突厥民族以外のすべての民族に反対し」、「異教徒」を消滅しなければならない、中国は「東トルキスタン民族の3000年来の敵国である」などとわめき立てた。いわゆる「東トルキスタン」という理論が形成された後、さまざまな分裂主義者は「東トルキスタン」の旗印を掲げて活動し、「東トルキスタン国」を樹立する夢を実現させようとしている。

20世紀初めから1940年代末にかけて、「東トルキスタン」勢力は外国の敵対勢力にそそのかされ、その支持の下で、何回も動乱を起こした。1933年11月、サビト・タモラらはカシュガルでいわゆる「東トルキスタンイスラム共和国」を樹立したが、新疆各民族人民に反対されて、三カ月足らずでついえさってしまった。1944年に国民党の統治に反対する、中国人民民主主義革命運動の一部分としての「三区革命」(三区とは当時の新疆のイリ、ターチョン、アルタイの三地区を指す)が起こり、分裂主義者のエリハン・トレー(前ソ連ウズベク人)は「三区革命」初期の指導権をかすめ取って、イーニンでいわゆる「東トルキスタン共和国」を樹立し、自ら「主席」に就任した。1946年6月、「三区革命」指導者のアホマトジャン、アバソフらはエリハン・トレーを解任し、「東トルキスタン共和国」をイリ専区参議会に改組し、分裂勢力に致命的な打撃を与えた。

新疆が平和解放された後、「東トルキスタン」勢力は失敗に甘んせず、外国に逃げた新疆のごく少数の分裂主義者と新疆にいる分裂主義者は内外で呼応し合い、世界の反中国勢力の支持の下で、機をうかがって分裂破壊活動を行っている。特に1990年代に入ってから、宗教極端主義、分裂主義、国際テロリズムの影響を受けて、新疆内外の一部の「東トルキスタン」勢力はテロ暴力を主な手段とする分裂破壊活動を行うようになった。一部の「東トルキスタン」組織は公然とテロ暴力手段で分裂の目的を達すると広言した。中国の新疆と関係諸国で、「東トルキスタン」勢力は一連の爆発、暗殺、放火、毒物混入、襲撃などの血なまぐさいテロ暴力事件を画策、組織して、中国各民族の人民大衆の生命財産の安全と社会の安定にゆゆしい危害を与え、関係諸国・地域の安全と安定を脅かした。

「9.11」事件の発生後、世界でテロ反対の闘争と協力を行うようアピールする声が日増しに強まり、「東トルキスタン」勢力はばつの悪い状態から抜け出すため、またも「人権」、「宗教の自由」、「少数民族の利益」を守るという旗印を掲げ、いわゆる「中国政府が機に乗じて少数民族に打撃を加える」などのうそをでっち上げて、視聴を混乱させ、国際世論を騙し、国際上のテロリズムに反対する打撃から逃れようとしている。

五、新中国成立後の新疆経済の発展

中華人民共和国成立前の新疆では、国民経済は農業と牧畜業を主体とする自然経済であり、工業は非常に立ち遅れ、鉄道が一本もなく、これといった工場と鉱山がなく、一部の地方では食糧不足がたえず発生し、人民の生活が貧困きわまるものであった。1949年9月25日、新疆は平和裏に解放され、1955年10月1日、新疆ウイグル自治区が成立し、新疆の歴史的発展の新しい一ページが開かれた。50年来、新疆の経済・社会諸事業は急速な発展をとげた。

国民経済は急速に成長している。2001年の新疆の国内総生産(GDP)は1485億4800万元に達し、不変価格で計算して、1952年より41.9倍増加し、年平均伸び率は8%に達した。一人当たりの国内総生産は1952年の166元から2001年の7913元に増えた。2001年の財政収入は178億700万元に達し、新疆ウイグル自治区が成立した1955年の1億7300万元と比べて101.9倍増えた。産業構造はたえず調整、最適化され、2001年の第一次、第二次、第三次産業の国内総生産に占める比率はそれぞれ19.4%、42.4%、38.2%であり、1955年と比べて、第一次産業の比率は35ポイント低下したが、第二次産業は16.3ポイント、第三次産業は18.7ポイントそれぞれ上昇した。

農業の総合的生産能力は著しく向上している。50余年特に改革・開放以来の開発と建設を経て、新疆の農地灌漑網は初歩的に形成され、近代的施設はレベルアップした。2001年の農業機械総動力は880万8500キロワット、農業用化学肥料の使用量は83万2900トン、農村の電力使用量は25億4500万キロワット時であり、新疆全域の播き付け面積は1955年比一倍増の3404万1200ヘクタール、食糧、綿花、テンサイの総収量はそれぞれ796万トン、157万トン、455万トンに達し、1955年と比べてそれぞれ4.4倍、61.5倍、4550.2倍増えた。前々から名を馳せているトルファンのブドウ、クルレのナシ、ハミのウリは国内外の市場に出荷され、特色のある園芸業、栽培業は近年来急速な発展をとげている。農業と牧畜業を結びつけ、科学技術に頼る近代的牧畜業はたえず発展し、2001年末現在の家畜飼育頭数は1955年より1.8倍増えて4603万7800頭に達した。新疆は全国最大の商品綿花、ホップ、トマトケチャップの生産基地、全国の重要な牧畜業とテンサイ糖の生産基地となっている。

工業の実力は急速に強まっている。新中国が成立したばかりの時、新疆に工業企業は363社、年産額は9800万元しかなかった。2001年になると、全自治区に郷および郷以上の工業企業が6287社、工業増加値が450億元に達し、主要な工業製品の生産量が数倍増加し、原油生産量は1946万9500トン、原炭生産量は2819万6100トン、綿糸生産量は30万2700トン、発電量は197億6200万キロワット時で、1955年と比べてそれぞれ590.78倍、42.68倍、80.8倍、358.3倍増え、砂糖生産量は41万9800トン、粗鋼生産量は131万8300トン、セメント生産量は981万2900トン、化学肥料生産量は72万9000トンであった。工業実力が大幅に増強され、技術が著しくレベルアップし、農産物と副業生産物の高度加工を主とし、石油、石油化学工業、鉄鋼、石炭、電力、紡績、建築材料、化学工業、医薬、軽工業、食品などの資源工業を主体とする部門が基本的にそろい、一定の規模に達する近代的工業体系が形成されている。

水利建設は著しい成果をあげている。「オアシス生態、灌漑農業」の特徴に基づいて、新疆で大規模な農地水利建設が繰り広げられ、タリム川総合整備プロジェクトが全面的に始動し、前後4回もボステン湖から下流流域に10億5000万立方メートルの水を輸送した。キジルダム、ホータンのウルグ・アタ水利中枢などを代表とする多くの近代的な大型水利工事と幹線・支線用水路とその浸水防止工事の完成で、全自治区の引水量、ダムの貯水量、有効灌漑面積は急速に増加した。2000年現在、ダムが485ヵ所つくられ、総貯水量が67億1600余万立方メートルに達し、1949年と比べてそれぞれ162倍と200倍増え、総灌漑面積は338万8000ヘクタールに達している。洪水防止用の堤防は5129キロ築かれ、その距離は1949年の289キロより17.7倍増えた。

交通輸送業は飛躍的に発展している。新中国成立前の新疆では、人々が遠いところへ出かけ、荷物を運ぶ時は家畜を利用するのがほとんどで、近代的交通手段は基本的にブランクの状態にあった。新中国成立後の50余年来、新疆の交通運輸業に天地がひっくり返るような変化が生じた。1962年末、蘭新(蘭州=新疆)鉄道はウルムチまでレールを敷設し、新疆に鉄道がない歴史に終止符を打った。1984年、全長476キロの南疆鉄道のトルファンからクルレまでの西部区間が開通し、1990年、第二ユーラシアランドブリッジを貫通する全長460キロのウルムチからアラ峠までの蘭新鉄道西線が滞りなく開通した。1994年、蘭新鉄道の複線工事が完成して運営に入り、1999年、全長975キロの南疆鉄道のクルレからカシュガルまでの区間が完工して開通した。2001年現在の鉄道本線の運営距離は3010.4キロに達した。1949年当時、新疆には簡易道路が数本しかなく、道路の開通距離は3361キロしかなかったが、2001年末になると、全自治区の道路開通距離は8万900キロに達し、そのうち、高速道路は428キロ、一級道路は230キロ、二級道路は5558キロである。タクラマカン大砂漠を横断する砂漠道路は世界でははじめて流動的砂漠で建設した長距離の等級付け道路である。今日では、ウルムチを中心に、七本の国道を幹線とし、東は甘粛、青海を結び、西は中央アジア、西アジア諸国へ延び、南はチベットに通じ、自治区内の68本の省道と連結し、自治区の地区と市、県と郷を結ぶ道路交通運輸網が形成されている。新疆の民用航空はウルムチなど11の空港を建設、拡張し、ウルムチからアルマアタ、タシケント、モスクワ、イスラマバードに飛ぶ国際線を開通し、香港へのチャーター便の航空路と他省・自治区に飛ぶ航空路および自治区内のローカル線は92本あり、ウルムチを中心とし、国内外の65の大中都市、自治区内の12の地区、自治州、市を結ぶ空輸網が形成され、運航距離は16万1800キロに達している。

通信施設は全国と同じ速さで発展している。いま、新疆ではいまウルムチ=クェードン=ボーロ=イリ、クェードン=カラマイ=アルタイ、トルファン=クルレ=アクス=カシュガル=ホータンのデジタル・マイクロウェーブ幹線回路、新疆南部・北部デジタル・マイクロウェーブ工事、西安から蘭州、ウルムチ、イーニン経由でホルゴス開港場に至る4本の幹線光ケーブル、ウルムチからトルファン、クルレ、ロチャン経由でモンヤから新疆を出る第二光ケーブル、ユーラシア光ケーブル、ウルムチから新疆南部・北部および各主要地区・自治州・市に至る光ケーブルが相次いで完成した。新疆のすべての県、市で全国各地に直接ダイヤルできる長距離電話が開通し、2001年末の新疆全域の電話数は262万6000戸に達した。デジタル通信網、マルチメディア通信網は急速な発展をとげ、各地区、自治州、市をカバーするATM広帯域ネットワークがつくられ、そしてIP広帯域ネットワークの建設が始まっている。移動通信ネットワークの能力は大幅に増強され、全自治区をカバーする移動通信ネットワークが建設され、全自治区の移動通信交換機の容量は292万4000戸に達した。

対外貿易は急速に発展している。現金貿易、国境の小口貿易、原材料委託加工、補償貿易、観光ショッピング貿易など一連の弾力的で多様な貿易方式は新疆の対外貿易をめざましく発展させている。2001年現在、新疆は119カ国・地域と貿易関係を樹立し、商品は22種類、1000品種に達し、そのうち、輸出額1000万ドル以上の商品は10種で、全自治区の輸出入総額は17億7000万ドルに達した。輸出商品の構成がたえず改善され、付加価値がわりに低く、大口の初級生産物から付加価値のわりに高い機械・電子設備、精密計器などの製品に変わり、工業完成品の輸出に占める比率は67%に上昇した。国が国境沿い開放戦略を実施する重点的一級行政区域(省、自治区、直轄市)として、新疆では国境、橋梁(ユーラシアランドブリッジ)、交通幹線に沿って国際、国内向けに拡げていく全方位、多段階、広分野の対外開放の枠組みが徐々に形成され、中国の西に向かって開放する最前方となっている。

観光業はまざましく興起している。新奇で独特な自然景観と絢麗多彩な風俗民情に頼って、新疆の観光業は目を見張らせる発展をとげている。2001年に新疆を訪れた海外観光客は延べ27万3000人、観光による外貨収入は9856万ドルに達した。国内観光客は延べ839万3000人、観光収入は71億8000万元に達した。観光受け入れ能力は急速に拡大されている。2001年、全自治区には海外観光客向きのホテルが250軒あり、そのうち、星クラスのものが173軒ある。観光業は新疆の国民経済を発展させる新たな成長要素となっている。

六、教育・科学技術・文化・医療衛生事業の進歩

新中国成立後の50余年来、新疆の社会諸事業に歴史的変化が生じた。

教育事業は着実に発展している。2001年は1949年と比べて、全自治区の小学校は1335校から6221校に、中学・高校は9校から1929校に、中等専門学校は11校から99校に、一般大学は1校から21校にそれぞれ増え、大学の在学生数は400人から11万人に増え、50余年来一般大学の学生を合わせて18万5000人育成し、卒業させた。中等専門学校の在校生数は2000人から9万7300人に増えた。基礎教育がたえず強化され、九年制義務教育を実現した県(市、区)は65に達した。各種の成人教育がいちだんと発展し、多段階、多形式の職業技術訓練体系が基本的に形成されている。全自治区の教育を受ける人口の比率は著しく上昇し、青・壮年の非識字率は2%以下に下がった。

科学技術事業はたえず進歩している。科学技術の総体的実力は大幅に増強され、専門学科がわりに揃い、配置がわりに合理的で、新疆の地域的特徴をもつ研究・開発体系、技術普及体系、科学技術管理とサービス体系が確立され、学術造詣のわりに深い科学技術専門家を多数育成し、研究、開発、実験、普及、管理の面でわりに強い実力のある、多民族の科学技術陣をつくり上げ、新疆の科学技術の強みを反映する実験センター、実験基地を重点的に建設した。科学技術成果の産業化、市場化が速くなり、新疆農業の在来の生産・経営方式を改変し、保護的栽培、灌漑技術、品種改良などの面で著しい成果をあげ、工業企業の技術改造によって企業の経済効果と収益がよくなり、市場競争力が強くなり、科学技術が国民経済発展と社会進歩の中で重要な役割を果たしている。2001年末現在、全自治区の企業と事業体で働く各種の専門技術者は38万5100人に達した。新中国成立後の50余年来、新疆は7102件の重要な科学技術成果をあげたが、そのうち、国の奨励を受けたものは201件あり、中国の美利奴羊普及技術は国内の先進レベルに達し、砂漠道路建設技術などは世界をリードするレベルにある。

文化・芸術事業は活気にあふれ繁栄している。新中国の成立前、新疆にプロの文芸団体が一つもなく、芸術研究機構と芸術学校もなかった。2001年、全自治区に合わせて89の芸術上演団体、107の芸術研究・創作機構および多くの芸術学校があり、ウイグル、カザフ、回、キルギス、蒙古、タジク、シボなどの諸民族はいずれも自民族の文芸団体をもち、優秀な民族芸術家が多数現われた。新中国の成立前、新疆に公共図書館と博物館が一つもなかったが、いまは公共図書館が81、博物館が23ある。近年来、放送・テレビ事業は急速に発展し、いまはラジオ送信局と中継局が41、テレビ送信局と中継局が826あり、全自治区の放送の人口カバー率は91.3%、テレビの人口カバー率は90.93%に達している。文学と芸術の創作は素晴らしい成果をあげ、「天山の虹」、「ムカムの先駆」など優秀な芸術作品は国家クラスのグランプリを授けられ、大型歌舞劇「わが新疆はすばらしいところ」は全国をわき立たせ、濃厚な民族風格をもつ文学・芸術作品は世界に進出し、図書、新聞、雑誌の種類と数量は数倍増加し、新聞は1952年の4種類から2001年の98種類に増え、そのうち、少数民族文字の新聞が43種類ある。

医療・衛生事業は快速に発展している。1949年、新疆に医療機構は54ヵ所、ベッドは696床しかなく、1万人あたりのベッド数は1.6床、医者は0.19人しかなく、衛生機構は少数の市や町に集中していた。2001年、各種の医療・衛生機構は7309ヵ所に増え、そのうち、各種の病院は1357ヵ所、三級以上の病院は11ヵ所、ベッドは7万1000床で、1万人あたりのベッドは35.1床である。医療・衛生専従技術者は9万7500人おり、そのうち、少数民族の医療・衛生技術者は3万3600人で、1千人あたりの医者人数、農業人口1千人あたりの郷・鎮診療所ベッド数と医療・衛生関係者数はいずれも全国の平均水準を上回った。広大な農業区と牧畜区では県・郷・村3クラスの医療・予防保健ネットワークが初歩的に形成されている。現在、全自治区の85の県(市)に残らず病院、衛生防疫ステーション、婦女子保健機構が設けられ、すべての郷に診療所があり、すべての村に医療室があり、農民と牧畜民が医者に診てもらえず、薬がなく、病気にさいなまれる歴史に終止符が打たれた。いまでは医療水準は大幅に向上し、自治区および地区、自治州の一部の大きな病院は近代的診療設備が装備され、医療の専門科目が日増しに完備し、多くの難病は自治区内で治療できるようになった。全自治区には衛生防疫ステーションが207ヵ所、風土病などの専門の予防・治療所(ステーション)が17ヵ所あり、これまで各民族の人々の健康に危害を及ぼす風土病と伝染病は基本的に撲滅された。自治区、県(市)、郷(鎮)を単位とする計画的免疫接種率は85%に達し、伝染病の発病率は著しく低下した。中央政府の関心の下で、自治区は大規模な水質改良による病気予防プロジェクトを実施し、段階的成果をあげ、受益人口は850余万人に達し、そのうち、水道水を飲用する人口は810万人に達している。婦女子の衛生保健は重視され、農村では新法による出産率が70%以上、入院しての出産率が約50%に達し、妊産婦の保健管理カバー率は都市部では90%、農村では50%に達し、児童の保健管理カバー率は都市部では70%、農村では30%に達している。

七、人民生活のレベルアップと質的向上

経済・社会諸事業の発展にともない、新疆各民族人民の生活レベルは年を追って向上している。

都市・農村住民の収入はたえず増えている。2001年の農民の一人当たり純収入は1710.44元に達し、衣食問題を解決してなお余りがある。都市部の従業員の賃金は年平均1万278元で、都市部住民は全体としていくらかゆとりのある生活を実現している。

住民の消費構造はたえず最適化している。エンゲル係数(全消費支出に占める食費支出の比率)は年を追って下がっている。農民の状況を見ると、1978年のエンゲル係数は60.8%であったが、2001年は50.4%に下がった。都市部住民の状況を見ると、1978年のエンゲル係数は57.3%であったが、2001年は35.5%に下がった。

住民の耐久消費財保有量は急速に増大している。2001年、農民家庭の百戸当たり保有する自転車は122.3台、テレビは93.3台、洗濯機は22.13台、テープレコーダーは53.1台で、1985年と比べて、それぞれ78.4%、8.3倍、9.5倍、6.1倍増えた。2001年、都市部家庭の百戸当たり保有するカラーテレビは107.39台、冷蔵庫は84.47台、洗濯機は94.69台、カメラは41台で、1985年と比べて、それぞれ1.9倍、7倍、76.7%、3.3倍増えた。そのほか、CDプレーヤーは42.96台、ビデオディスクは18.59台、オーディオ・コンポは17.33台、移動電話は15.89台である。住宅の変化から見て、2001年の農民の一人当たり居住面積は1981年比1.3倍増の18.04平方メートル、都市部住民の一人当たり居住面積は1981年比1.6倍増の15.54平方メートルに達した。

住民の生活の質は著しく向上ている。教育普及率と教育を受ける程度は高くなり、放送とテレビのカバー率は上昇し、大衆的な文化とスポーツ活動は豊富多彩であり、医療・衛生・保健の条件は大幅に改善され、都市と農村の各民族大衆の生活は豊かで安定している。現在、新疆の人口平均寿命は71.12歳に延びている。人口増加のパターンは出産率、死亡率、増加率がともに低いという特徴を呈している。1985年、新疆は国際自然医学会によって世界の四つの長寿地区の一つに指定され、百万人当たりの百歳老人の人数は全国でいちばん多い。

八、民族の平等・団結、宗教信仰の自由の堅持

中華人民共和国の成立以来、中国政府は国内各民族の平等、団結、共同の発展を実現させるため、中国の民族と宗教の実情から出発して一連の民族政策と宗教政策を制定し、実践の中でたえずそれを豊富にし、充実させている。新疆は中国が民族区域自治を実行する地方の一つとして、中央政府の民族政策と宗教政策を全面的に実行に移し、各民族人民の根本的利益を擁護し、平等、団結、互助という新しいタイプの民族関係を形成し、発展させ、強固にした。

民族の平等を保障し、民族の団結を促進している。「中華人民共和国憲法」は「中華人民共和国の各民族は一律に平等である。国は各少数民族の合法的権利と利益を保障し、各民族の平等、団結、互助関係を守り、発展させる。いかなる民族に対する差別と圧迫をも禁止し、民族団結を破壊し、民族分裂をつくり出す行為を禁止する」と規定している。

憲法は各民族の公民が憲法と法律から与えられる平等の諸権利を広く享有するのを保障している。満18歳の公民は民族、種族、性別、宗教信仰を問わず、選挙権と被選挙権を享有し、各民族公民の人身の自由と人格の尊厳は侵犯されず、各民族は自由に宗教を信仰する権利があり、各民族の公民は教育を受ける権利があり、各民族とも自民族の言語文字を使用し、発展させる自由がある。政府は憲法と法律に規定されている各民族一律平等の権利を社会生活および政府行為の中で効果的に実行に移し、保障するため、各種の特殊な政策措置をとっている。

中華人民共和国の成立後、新疆の地方政府は行政命令を発布して、「迪化」を「ウルムチ」に改め、「鎮西」を「バリコン」に改めるように、侮辱的な呼称と地名を廃除した。一部の少数民族の呼称は侮辱的意味がなくても、その少数民族の自らの意思によって改められた。例えば、1958年、ダオール族の自らの意思によって、「達呼爾」(ダフール)を「達斡爾」(ダオール)に改めた。

各民族の大団結をいちだんと強固にし、発展させるため、1983年から自治区政府は毎年全自治区で民族団結教育月間活動を集中的に繰り広げ、平等、団結、進歩が各民族人民の相互関係の主な部分となり、相互信頼、相互尊重、相互学習、相互支持、相互理解が各民族人民が共同で守る行動準則となるように、生き生きして活発な形式と時代の特徴をもつ内容で集中的に、広く、深く宣伝教育を行っている。

少数民族の自治権利は法律、制度に保障されている。中国憲法によると、各少数民族が集まり住むところで区域自治を実行することは、中国の基本的な政治制度である。新疆ウイグル自治区はウイグル族を主体とする民族自治地方である。自治区内には、その他の民族が集まり住む地区もあり、これらの地区でも相応に民族自治が実施されている。現在、全自治区にカザフ、回、キルギス、蒙古など4民族の五つの自治州およびカザフ、回、蒙古、タジク、シボなど5民族の六つの自治県があり、また43の民族郷がある。

中国の憲法と民族区域自治法の規定に基づいて、民族自治地方は広範な自治権利を享有し、地方国家機関の職権を行使すると同時に、立法権、民族自治地方の実情に合わない上級国家機関の決定に対し臨機応変に執行するか執行を中止する権利、経済発展権、財政権、少数民族幹部養成使用権、教育と民族文化発展権などを行使する。新疆ウイグル自治区人民代表大会とその常務委員会は、民族区域自治法の賦与する権利と新疆の実情に基づいて、新疆の特徴と需要に適応する各種の法規と決議を制定し、法によって民族自治地方の自治権利を保障している。2000年末現在、自治区人民代表大会とその常務委員会は地方的法規119件、法規的決議・決定71件を制定し、地方人民代表大会の制定した地方的法規31件、単行条例3件、自治区政府の制定した行政規則173件を認可した。

民族自治地方の主要指導者は自治民族の公民によって担当される。各級民族自治地方の政府主席、州長、県長はいずれも区域自治を実行する民族の公民が担当し、自治地方人民政府のその他のメンバーにも、区域自治を実行する民族あるいはその他の少数民族の人を配備している。民族区域自治および少数民族の諸権利を確実に保障するため、新疆は少数民族幹部のために学習と養成訓練の機会をつくってやることを非常に重視し、多くの少数民族幹部を内地の大学に送って学習させ、新疆でも各級民族幹部学校と民族幹部講習会を開設して、政治、経済、文化など各分野で仕事をする少数民族の行政幹部と技術幹部を多数養成した。新疆の少数民族幹部は1950年の時は3000人しかなく、新疆ウイグル自治区が成立した1955年は4万6000人しかなかったが、現在は全自治区幹部総数の51.8%を占める34万8000人に達している。少数民族の婦人幹部は全自治区の婦人幹部総数の46%以上を占めている。

少数民族は各級人民代表大会で十分な代表権をもっている。少数民族の権利を確実に保障するため、自治区の各級人民代表大会代表に占める少数民族代表の比率は、いずれも同期の少数民族人口の新疆各地区人口に占める比率より4ポイントほど高いものである。これまで各期の全国人民代表大会の新疆代表に占める少数民族代表の比率はいずれも63%以上で、同期の全自治区人口に占める比率より高いものである。

少数民族の自民族の言語文字を使用し、発展させる自由と権利は十分に尊重、保障されている。1988年と1993年に、自治区政府はそれぞれ「新疆ウイグル自治区民族言語使用管理暫定規定」と「新疆ウイグル自治区言語文字工作条例」を公布し、少数民族が自民族の言語文字を使用する自由と権利を法律面から保障している。司法、行政、教育などの分野でも、また政治、社会生活の中でも、少数民族の言語文字は広く使われている。自治区の機関は公務を執行する時、二種以上の言語文字を同時に使用し、各自治州、自治県の機関は公務を執行する時も、同時に自治民族の言語文字を使用している。少数民族は自民族の言語文字を使って選挙、訴訟する権利がある。報道、出版、放送、映画、テレビは民族の言語文字を広く使用している。新疆人民放送局はウイグル、漢、カザフ、蒙古、キルギスなど五種の言語で放送し、新疆テレビ局はウイグル、漢、カザフなど三種の言語のチャンネルがあり、ウイグル、漢、カザフ、キルギス、蒙古、シボなど各民族はいずれも自民族の文字の新聞と書籍がある。

少数民族の風俗習慣は十分に尊重されている。少数民族の風俗習慣は大衆の生産・生活や宗教信仰と密接な関係がある。少数民族の風俗習慣を尊重するため、中央と自治区人民政府は一連の規定を公布した。少数民族特にイスラム教を信仰する民族の特需食品の供給を保障するため、人民政府は法規を公布し、一連の具体的措置をとっている。例えば、大中都市およびモスレム大衆のある小さな町で一定数のイスラム料理店を保ち、交通の要衝および少数民族従業員のある部門では「イスラム食堂」を設け、モスレム大衆に供給する牛羊肉は、その習慣に従って屠殺、処理し、別途に貯蔵、輸送、販売している。各少数民族は「クルバン祭り」、「断食止め祭り」など自民族の伝統的祭日に法定の休暇と特殊食品の供給を享受することができる。土葬の習俗のある少数民族に対し、政府は火葬を提唱せず、専用の土地を割り当て、専用の公墓をつくるなど具体的措置をとって保障し、結婚式、葬式、割礼、宗教名付けなど宗教的色彩を帯びる民族の風俗習慣に対し制限を加えていない。

少数民族の教育水準はたえず向上している。新中国成立後、少数民族の教育が非常に立ち遅れている状況を変えるため、政府は一連の措置をとって、少数民族の教育事業発展を教育活動の重点とし、発展計画、資金投入、教師養成などの面で少数民族の教育を重点的、優先的に按配、助成している。牧畜区の民族教育の立ち遅れている問題を解決するため、政府は多額の資金を投じて牧畜区で寄宿制学校をつくり、牧畜区の寄宿制学校、中学・高校および大学、中等専門学校の少数民族の特別貧困学生のために助学金を設立している。例えば、2002年は寄宿制学校に無料で1200万元の教科書を提供し、3000万元の助学金を援助した。南部の少数民族の集まり住むホータン、カシュガル、アクス、クズレスコルクズ自治州など四つの地区と自治州で義務教育の段階にある小中学校の生徒に対し無料教育を実行し、義務教育の期間を延長し、少数民族の生徒に9年ないし12年の義務教育を受けさせている。その他の辺境地区の県と貧困県にある小中学校に対し、学費や教科書代を免除している。自治区が独自に設立した少数民族の小中学校は5882校に達し、全自治区の小中学校総数の69%を占めている。同時に、少数民族と漢族の生徒が一緒に受業する学校も少なくない。現在、全自治区では構造が合理的で、多段階で学校を運営し、協調して発展する少数民族教育体系が形成されている。2001年現在、小学校学齢期児童の入学率は97.41%、中学校は82.02に達した。大学の入学試験は、当面の学生の実情に基づき、少数民族の受験生に対し合格点数を下げるなどの優遇政策を実行しいる。

少数民族の伝統的文化は保護され、輝かしさを増している。新疆の各民族人民は豊富多彩な伝統的歴史文化を創造し、中華民族文化の発展に独特な貢献をした。自治区政府は計画的に少数民族の文化遺産を収集、整理、翻訳、出版する活動を行い、少数民族の名所旧跡、貴重な文化財およびその他の重要な歴史文化遺産を保護している。1984年以来、自治区古書整理弁公室は少数民族の古書を5000余冊収集し、100余部を整理、出版した。伝承が絶えようとしている11世紀のカラ汗王朝の二部の大作『福楽知慧』と『突厥語大辞典』は政府の大きな支持と各民族学者の長期にわたる共同の努力を経て、1980年代にウイグル語に翻訳して出版し、その後はさらに漢語の訳本を出版した。中国の少数民族の三大英雄史詩のうち、新疆の蒙古族とキルギス族から生まれた『ジャンゲル』と『マナス』の収集、整理、翻訳、研究の活動は大きな成果をあげた。ウイグルの「音楽の母」とたたえられるウイグル族の大型古典音楽組曲「十二ムカム」は、新中国の成立前に絶滅に瀕していたが、新疆地方政府はそれを重点的に保護する芸術品種として、その収集、整理に力を入れ、いまでは「十二ムカム」は半世紀前の二、三人の芸人しか完全に歌えない状態から、ムカム芸術団、ムカム研究室を設置し、広く歌われるまでに発展した。長い歴史を持つ伝統的民族スポーツはいっそう輝きを放ち、羊さらい、競馬、蒙古相撲、弓術などが広く普及し、大衆に喜ばれ、ウイグル族の伝統的スポーツであるダワズ(高空綱渡り)は近年来国内外に名を馳せている。

少数民族に対し漢族より緩い出産政策を実行している。具体的な状況と結びつけ、国の計画出産政策に基づき、新疆ウイグル自治区人民代表大会は「新疆ウイグル自治区少数民族計画出産暫定規定」を制定し、少数民族に対し漢族より緩い出産政策を実行し、少数民族の人口増加を保障し、新疆の少数民族の人口自然増加率を現地の漢族の人口自然増加率より高くなるようにしている。2001年の少数民族の人口自然増加率は1.304%、漢族は0.825%である。1953年に全国で第一回国勢調査が行われた時、新疆の少数民族人口は454万人であったが、2000年に第五回国勢調査が行われた時は1096万9600人に達した。

宗教信仰の自由は尊重、保護されている。新疆の少数民族の多くの人は宗教を信仰しており、ある民族は大衆的にある宗教を信仰している。例えばウイグル族、カザフ族、回族などは大衆的にイスラム教を信仰し、蒙古族、シボ族、ダオール族などは大衆的に仏教を信仰している。各民族人民の宗教信仰自由の権利は十分に尊重され、正常な宗教活動は法律による保護を受けている。現在新疆に宗教活動場所が2万4000余ヵ所あり、そのうち、イスラム教のモスクが2万3753ヵ所ある。宗教教務関係者は2万6800人おり、そのうち、イスラム教の教務関係者は2万6500人である。政府は毎年特別金を支出して重点的な寺院と教会を保守、修理し、1999年だけでも中央政府は760万元を支出してウルムチのヤンハン・モスク、イーニンのバイトゥラ・モスク、ホータンのジャマエ・モスクを再建した。

宗教界人士は政治に参与する権利を十分に享有している。現在、各級人民代表大会、政治協商会議で職務を担当している新疆の宗教界人士は1800余人おり、そのうち、全人代は一人、全国政治協商会議は4人、自治区人代は21人、自治区政治協商会議は27人いる。彼らは宗教信者を代表して積極的に政治に参与し政務を討議し、政府の宗教信仰自由政策の実施を監督している。宗教界人士が正常に宗教事務を履行するのを保障するため、政府は生活が困難な宗教人士に一定額の生活補助金を支給している。

法によって宗教団体の合法的権益を保障する。1982年以来、全自治区で88の各クラス宗教団体が回復、新設されたが、その中に、自治区のイスラム教協会が一つ、仏教協会が一つ、地区、自治州、市のイスラム教協会が13、仏教協会が三つ、キリスト教「三自愛国運動委員会」が一つ、県、市のイスラム教協会が65、仏教協会が二つ、キリスト教「三自愛国運動委員会」が二つある。各宗教団体は法律の許す範囲内で自主的に宗教活動を繰り広げている。宗教教務関係者の養成、教育、管理、宗教学校の設置、宗教の国際交流活動展開などの面で、各宗教団体はいずれも重要な役割を果たしている。

宗教活動の正常な展開を保障するため、新疆はイスラム教の高級教務要員を育成するイスラム教経学院を創設した。各地区、自治州、市のイスラム教団体は実際の必要に応じて宗教教務人員を養成するためのイスラム教経典クラスを開いた。宗教人士の知識水準を高め、資質の高い宗教人士を多数育成するため、自治区、地区、市3クラスの育成体系が確立され、政府が資金を支出して、在職の宗教教務人員を順次に育成し、参観、視察を通じて宗教界人士の視野を広げ、その見識を高めている。

宗教人士への経典など宗教読物の提供を保障している。新疆では、『コーラン経』、『ワエズ選集』、『新編ワエズ講演集』など多くのイスラム教経典と宗教書籍、および仏教、キリスト教などその他の宗教の経典がウイグル語、カザフ語、漢語などに翻訳、出版、発行された。ウイグル語版と漢語版の『中国モスレム』が発行された。信者たちに便宜を提供するため、各地では認可を得て宗教関係書籍の販売所が設立された。

正常な宗教活動は法的保護を受けている。自治区政府は憲法と法律に基づいて、「新疆ウイグル自治区宗教活動場所管理暫定規定」などの法規を制定、公布した。信者たちは各自の信奉する宗教の規則、礼儀などに基づいて正常な宗教活動を行い、法律の保護を受けている。ここ数年来、新しい活佛の転生が円満に行われ、人民生活のレベルアップにともない、数万人のモスリンがメッカに行って参拝し、経学院の学生が国内外の『コーラン経』読経コンテストに参加し、素晴らしい成績を収めた。

九、新疆生産建設兵団の設立、発展とその役割

1954年に設立した新疆生産建設兵団は国の賦与した農地開墾と国境警備の任務を担当し、その管轄する開墾区で、国と新疆ウイグル自治区の法律、法規によって内部の行政、司法事務を自主的に管理し、国の指導で独自の経済計画を制定する特殊な社会組織であり、中央政府と新疆ウイグル自治区人民政府の二重の指導を受けている。新疆生産建設兵団は中国新建集団公司とも称されている。兵団の下に、師団(開墾区)が14、農牧団場が174、工業、建築、運輸、商業などの企業が4391社、健全な科学研究、教育、文化、医療衛生、体育、金融、保険などの社会事業体と司法機構があり、総人口は245万3600人で、働いている従業員は93万3000人である。

新疆生産建設兵団は特殊な歴史的背景の下で設立されたものである。1949年、新疆は平和裏に解放された。新疆に駐屯する中国人民解放軍部隊は国防を固め、新疆の発展を加速し、新疆の現地政府と各民族人民の経済的負担を軽減するため、主な力を生産建設に注ぎ込み、大規模な生産建設を繰り広げた。1954年に、新疆に駐屯する解放軍部隊は困難に満ちた創業を経て、農場を34ヵ所、牧場を8ヵ所つくりあげ、耕地を約7万7200ヘクタール開墾し、その収穫した農産物と畜産品を新疆駐屯部隊に供給するほか、多くの近代的な鉱工業と商業貿易企業および学校と病院などを設立した。

1954年10月、中央政府は新疆に駐屯する人民解放軍の大部分がそのまま転業し、国防部隊から離れて生産建設兵団を設立することを命じた。その使命は労働と武装を結びつけ、農地を開墾し、国境を警備することである。1956年5月から、兵団は国家農墾部と新疆ウイグル自治区の二重の指導を受けるようになった。

農地開墾と国境警備は数千年来中国が辺境地区を開発、防衛する歴史的遺産である。史料の記載によると、中国の歴代王朝はいずれも農地開墾と国境警備を辺境地区を開発し、国防を固める重要な国策とした。前漢から中央政府は新疆地区で大規模な農地開墾と国境警備を始めたが、その後の歴代の王朝はこれを受け継いで実行した。これは国家を統一し、辺境防衛を固め、新疆の社会・経済の発展を促進する上で重要な歴史的役割を果たした。1954年、中央人民政府が新疆での生産建設兵団設立を決定したことは、この歴史的経験の新しい歴史的条件の下での継承と発展である。

新疆生産建設兵団は困難に満ちた創業を通じて発展し、大きくなった。新疆生産建設兵団は成立後、農地を開墾し、国境を警備し、新疆の各民族人民に幸せをもたらすことを自らの任務とし、労働者、農民、商人、学生、軍人が共に努力し、農業、林業、牧畜業、副業、漁業を全面的に発展させ、工業、交通業、商業、建築業、サービス業を総合的に経営する方向に向かって発展している。

1950年代と1960年代初期、兵団は、「民と利益を争わない」という原則にのっとり、天山南北のタクラマカン、グルバントングトの二大砂漠の周辺地帯および自然環境の劣悪な国境地帯で水利施設を建設し、荒れ地を開墾し、果てしなく広がるゴビ砂漠で農地が連なり、用水路が縦横に走り、林帯が網状をなし、道路が滞りなく通じるオアシス生態経済ネットワークをつくり上げている。兵団は農産物・副業生産物加工業からやり始め、近代的工業を発展させ、軽工業、紡績を主とし、鉄鋼、石炭、建築材料、電力、化学工業、機械など業種がわりに多い工業体系をちくじ形成している。兵団の国民経済体系の確立に従い、兵団の教育、科学技術、文化などの諸事業も大きな発展をとげ、1966年末現在、兵団の諸事業はわりに高いレベルに発展した。

1981年12月、中央政府は1975年に撤去された新疆生産建設兵団を回復することを決定し、新疆生産建設兵団は二回目の創業を始め、その建設と発展は新しい時期に入った。2001年、新疆生産建設兵団は二大砂漠の周辺地区で水利施設を建設し、植樹造林を行って、風を防ぎ、砂を固定し、数千キロの緑屏風をつくり、106万4000ヘクタールの新しいオアシスを形成し、石河子、五家渠など多くの新しい町を建設し、国内総生産は自治区のそれの13.2%を占めた。

新疆生産建設兵団は新疆の発展に対し重要な役割を果たした。兵団の農牧団場、工業・交通・建築・商業企業は法により当地の政府に税金を納めると同時に、数十年来新疆各民族人民に奉仕する宗旨を堅持し、地方の建設を積極的に支援し、毎年多数の技術者を付近の県、郷、村に派遣して、栽培、農業機械など各種の講習会を開き、先進的技術を推し広めている。1964年から毎年資金を調達して、地方の計画制定と建設を支援し、各民族の人々に医薬を提供し、各方面から援助を与えている。新疆の工業発展を支持するため、兵団はまた建設した多くの規模のわりに大きな工業・交通・建築・商業企業を地方政府に無償で移譲し、自治区の現代化建設に貢献をした。

兵団は新疆を安定させ、国境警備を強固にする重要な力として、生産と武装の結合を堅持し、軍隊、武装警察、人民大衆とともに辺境地区で「軍、警(武装警察)、兵(兵団)、民」という四者一体の共同防衛体系を確立し、ここ50年来、国内外の分裂勢力の破壊と浸透活動に打撃を加え、それを防備し、祖国辺境の安定と安全を守るなどの面で、取って代わることのできない特殊な役割を果たした。

農地開墾と国境警備を通じて地方政府と密接な関係を樹立した。兵団は自治区人民政府の指導を自覚的に受け入れ、政府の法規と法令を遵守し、少数民族の風俗習慣と宗教信仰を尊重し、新疆の各民族人民のためによいこと、実際のことをするように努め、融合型経済を積極的に発展させて、各民族の人々との血肉のつながりを密接にし、辺境を共同で守り、資源を共同で享有し、強みを相互に補完し合い、共同で繁栄するようにしている。

兵団の発展は終始自治区各級政府と各民族人民の援助と支持を得ている。農地開墾を始めた初期に、各民族の人たちが道案内をし、生産道具を提供し、いろいろな支援を与えた。自治区各級政府は兵団に大面積の国有荒れ地と草地、鉱山と天然林などの資源を分け与え、兵団の発展の基礎を築いた。改革・開放以来、自治区人民政府の制定、実行した政策のかなり多くは兵団に適用し、兵団と地方経済の融合と発展を促した。

長期にわたる発展を通じて、新疆生産建設兵団にはすでに漢族、ウイグル族、カザフ族、回族、蒙古族など37民族の人がいる。開墾区には主としてイスラム教、仏教、キリスト教、カトリック教などがあり、イスラム教を信仰する少数民族の人は約25万人いる。新疆生産建設兵団は中央政府の定めた民族宗教政策を全面的に実行し、法によって宗教事務を管理し、兵団を各民族が団結する大家庭につくり上げている。

新疆生産建設兵団の50年近くの発展は新疆の経済を加速的に発展させ、民族の団結を促進し、社会の安定を保ち、国境防衛を強固にし、祖国の統一を擁護する面で非常に重要な役割を果たしている。

十、新疆の発展に対する国の支持

新中国の成立以来、「中華人民共和国憲法」の規定により、中央政府は辺境地帯の少数民族地区が政治、経済、文化を発展させ、各民族がともに豊かになる道を歩むように援助することを基本的国策としている。

新疆への固定資産投資を増やしている。中央政府はその制定、実施した第10次五カ年計画の中で、終始新疆のインフラ建設、農業の基盤施設建設、近代的工業体系建設などを国の重点的建設プロジェクトとし、計画の順調な実施を保障するため、一連の優遇と特殊な政策を制定、実行した。新中国成立後の50余年来、国の大きな支持の下で、新疆は大規模な投資と建設を行い、1950年から2001年までの間に、全社会の固定資産投資は累計5015億1500万元に達し、そのうち、中央政府の投資は2662億2300万元で、同期の全社会投資の53.1%を占め、完成して操業に入ったプロジェクトは累計9万余件に達し、その中に、178件の大中型プロジェクトと多くの新疆の経済発展に重要な影響力を及ぼすプロジェクトが含まれており、新疆経済の持続的成長を支持するためにしっかりした基礎を築いた。

新疆に財力の面から大きな支援を与える。初歩的統計によれば、新疆ウイグル自治区が成立した1955年から2000年までに、中央政府が新疆に与えた財政補助金は累計877億4100万元に達した。特に1996年以来、中央政府の財力増強および西部大開発戦略の実施にともない、中央政府が新疆に与える一般的財政補助金は年を追って増加し、1996年は59億700万元、1997年は68億3800万元、1998年は80億1200万元、1999年は94億元、2000年は119億200万元、2001年は183億8200万元である。中央政府はまた各種の特別財政移転支出、民族優遇政策による財政移転支出を通じて資金の投入と支持を大きくしている。

自治区政府の国際金融組織や外国政府借款の積極的利用を支持する。2001年末現在、中央政府の支持と按配の下で、自治区が完成したかあるいは実施中の世界銀行借款プロジェクトは22件あり、投資総額は17億9895万ドルで、現行の為替レートで人民元に換算すると149億3128万元に相当する。3社の中外合資企業はアジア開発銀行借款552万4000ドルを使用するのを認められた。カナダなど数カ国と政府金融機関借款の利用額は4億1067万ドルに達し、発効して実施中と完成したプロジェクトは68件ある。国際組織と外国政府借款の十分な利用は、新疆の経済発展を促進することに対し積極的かつ重要な役割を果たしている。

石油、天然ガスを開発して新疆に幸せをもたらす。新疆は豊富な石油・天然ガス資源に恵まれている。新中国の成立以来、中央政府は新疆の経済発展を促進し、新疆の各民族人民に幸せをもたらすため、新疆の石油と天然ガスに対する大探査、大開発、大投入の方針を堅持している。新疆を全国最大の石油化学工業基地につくり上げる戦略的構想を実現させるため、内外の石油・天然ガス価格が下がり、新疆の石油・天然ガス探査・開発のコストがわりに高い状況の下で、中央政府は年を追って新疆の石油・天然ガス探査・開発への投入を増加し、1995年は181億9600万元であったが、2000年には292億2300万元に増えた。すでに着工した新疆を主なガス源とする「西部の天然ガスを東部に輸送する」プロジェクトの投資予定額は1200余億元に達することが見込まれている。

石油、天然ガスおよび石油化学工業の急速な発展によって、エネルギーと石油化学工業製品に対する新疆の経済発展の需要を満たしたばかりでなく、機械、交通運輸、通信、建築、電力、水利、農業、食品と紡績、化学工業、プラスチック、ゴム、医薬など産業の発展をも力強く促進し、サービス業の成長を刺激し、新疆の区域的経済構造の形成とエスカレートに大きな影響を及ぼし、就職人口の増加をこの上なく大きく促進し、バインゴレン蒙古族自治州だけでも、1994年からタリム油田の開発にともない、就職人数は毎年18%以上新規増加した。また都市化のプロセスを大いに推し進め、カラマイ、独山子(マイタグ)、阜東(フードン)、沢普(ボスカム)など多くの新しい石油の町がゴビ砂漠に現れ、ウルムチ、コルラ、フーカン、ルンタイなど都市の現代化建設が速くなった。さらには現地の経済発展を効果的に支援し、カラマイ、トゥハ、タリムなどの大油田および沢普、独山子、ウルムチ、カラマイなどの大手石油化学工業企業は、いずれも人材、資金、技術の強みを十分に生かして、地方の企業を支援し、建設に投資した。タクラマカン大砂漠を縦断する砂漠石油道路はとりもなおさずタリム油田が7億8500万元を出資して建設したものである。新疆の石油、天然ガスおよび石油化学工業の発展も新疆の財政収入を大いに増加し、「西部の天然ガスを東部に輸送する」プロジェクトだけでも、毎年新疆財政のために10数億元の収入を増加することができ、新疆の諸事業の発展促進にこの上なく大きな貢献をした。

優遇政策を制定し、新疆の発展を促進する。新中国の成立以来、特に改革・開放政策を実施して以来、中央政府は経済発展および諸政策の面で新疆に対し次のような配慮をした。@国境沿い開放戦略の関係法規を公布、実施し、新疆などの西部地区の対外開放拡大のために8項目の優遇政策を制定する。A新疆の食糧・綿花生産基地をりっぱに建設し、「三北」(東北、華北、西北)防護林および砂漠化防止プロジェクトを建設することを提出する。B貧困地区の経済発展を助成する優遇諸政策を実行する。C辺境道路を建設し、国境開港場の道路施設を整備する。Dタリム河の生態と水資源の総合的整備を加速し、新疆に資源開発とインフラ建設のプロジェクトを優先的に按配する。E規範的な中央財政移転支出制度を実行し、ちくじ財政支援を増加し、国の政策的貸出と国際金融機関借款、外国政府借款の比重を高める。2001年、中央政府は「西部大開発の若干の政策措置を実施する意見についての通達」の中で18方面、68項の具体的優遇政策を制定、提出した。自治区政府はこれらの規定に基づいて「新疆ウイグル自治区の西部大開発の租税優遇政策の関係問題に関する実施意見」を制定、公布し、国内外の企業と農民、牧畜民を新疆の社会基盤施設、生態環境保全プロジェクト、強みと特色のある産業、ハイテク産業など諸分野の投資経営に参与するように引き付ける10項目の具体的租税優遇政策を打ち出した。

新疆のために優秀な専門技術人材を養成し、送り込む。新中国の成立以来、新疆がわりに辺ぴで立ち遅れ、高資質人材が足りないという困難に照らして、政府は内地から80万余人の知識人と専門技術者を新疆に配属し、転勤させ、工業、農業、教育、文化、科学研究、医療衛生などの業種に多くの大学卒業生、科学技術者および高学歴の専門人材を送り込んだ。これらの専門人材は新疆の現代化建設事業に優れた貢献をした。

1989年から、中央政府は内地の80余校の大学を組織して新疆を支援し、新疆の少数民族の大学本科と専門科の学生を1万人募集し、大学院生を640人養成し、教師と少数民族教育行政管理幹部を860余人訓練し、少数民族の経済と企業管理幹部を1400人訓練し、一定人数の少数民族訪問学者を外国に派遣して研修させた。2000年から、北京、上海、天津、南京、杭州、広州、深?、大連、青島、寧波、蘇州、無錫など12の発達した都市は所属の省クラス重点高校に新疆高校クラスを設け、毎年1540人の新疆の少数民族の生徒を募集し、政府はこれらの在校生に財政補助を提供している。

全国の他の省、自治区、直轄市は新疆を力強く支持している。数十年来、新疆は各省、自治区、直轄市から大量の技術と人材の支援を受けた。新疆の工業企業の発展が立ち遅れた状況の下で、中央政府は東南沿海の発達地区の一部の企業、工場を新疆に移転させ、内地の技術者を新疆の建設したばかりの中堅企業に転勤させ、そしてまた多くの少数民族の労働者を内地の先進的企業に送って研修、実習させるなどして、短期間に新疆のために工事技術中堅を多数養成した。改革・開放実施以来、社会主義市場経済システムの逐次確立にともない、新疆と東部沿海地区の省、自治区、直轄市との経済技術協力と交流および人材の相互流動は日増しに盛んになり、拡大され、市場を方向とし、資本をきずなとし、「物資と人材の流動」を特徴とし、強みの相互補完を原則とする新疆の経済・社会発展を支援する新しい形式が急速に形成され、特に近年来、中央政府の要求に従って、北京、上海、広東、山東、浙江など20余りのわりに発達した省、直轄市の新疆の各地区、自治州、市に対する対応支援は著しい成果をあげた。

あとがき

中央政府の指導と支持の下で、新疆各民族人民の50余年にわたる刻苦奮闘を経て、新疆の経済と社会など各方面の発展は歴史的な輝かしい成果をあげた。しかし、新疆は中国西北地区の辺境にあり、自然条件が悪く、経済的基盤が薄弱で、教育、文化、医療衛生など社会諸事業の発展がまだ少なからぬ困難に直面しており、各民族人民の生活レベルを高める任務はまだ非常に困難なものである。新疆の発展を加速させることは新疆各民族人民の共通の願いであり、中央政府の戦略的企画でもある。

1999年、中央政府は西部大開発戦略実施という重要な政策決定を行い、新疆の発展に得がたい歴史的チャンスを与えた。国の西部大開発戦略実施の総体的部署に基づいて、自治区は第10次五カ年計画と2010年までの発展計画を制定した。この計画によれば、2005年までに、2000年の価格で計算する全自治区の国内総生産は年平均9%伸びの2100億元、一人当たりの国内総生産は1万元以上に達し、全社会固定資産投資を4200億元前後完成し、全自治区の都市部住民の一人当たり可処分所得は年平均7%前後伸び、農民の一人当たり純収入は年平均150元前後増加し、全自治区の都市部住民の一人当たり住宅面積は23平方メートルに達し、農村住民の居住環境、住宅の質、衛生条件がかなり大幅に改善される。2010年になれば、国内総生産は2000年と比べてさらに倍増し、人民の生活はいっそう豊かになる。

新疆の経済・社会発展の見通しは明るいものである。新疆の各民族人民は中央政府および各省、自治区、直轄市の支持の下で、刻苦努力を経て、必ず新疆をいっそう美しく豊かに建設することができる。