三峡ダムプロジェクトをめぐる大きな出来事

★ 1919年、孫文は「建国方策の2――実業計画」の中で長江上流の水路の改善に言及し、最も早く三峡ダムプロジェクトの建設構想を提起した。

★ 1932年、当時の国民政府建設委員会は長江上流水力発電実地測量・調査隊を派遣し、三峡一帯に対して2カ月にわたって探査と測量を行い、葛洲?、黄陵廟の2カ所の低いダムの提案を作成した。これは中国が三峡の水力資源の開発のために行った最初の探査と設計の作業であった。

★ 1955年以降、関係筋と各方面が協力し合って、長江流域と三峡プロジェクトの探査と測量、科学研究、設計、論証の作業を全面に展開した。

★ 1955年12月、周恩来総理は三峡水利中枢が「上流に対しては貯水ができ、下流に対しては補償ができる」という独特な役割があることを正式に提出した。

★ 1970年、中央政府は三峡のトータルプロジェクトの一部である葛洲?プロジェクトを先に建設することを決めた。

★ 1992年4月3日、第7期全人代第5回会議は1767票の賛成、177票の反対、664票の棄権、25人の表決ボタンを押さなかったという結果によって「長江三峡ダムプロジェクトの建設に関する決議」を採択し、三峡ダムプロジェクトの建設を国民経済と社会発展の10カ年計画に組み入れることを決定した。

★ 1993年1月、国務院三峡ダムプロジェクト建設委員会が発足し、李鵬総理が建設委員会主任を兼任した。委員会の傘下に弁公室、住民移転開発局、中国長江三峡プロジェクト工事開発総公司が設けられた。

★ 1993年7月26日、国務院三峡ダムプロジェクト建設委員会第2回会議は長江三峡水利中枢の初歩的な設計レポート(中枢工事)を審査、認可し、三峡ダムプロジェクトの建設が正式に施工の準備段階に入った。

★ 1993年8月、国務院は長江三峡ダムプロジェクト建設住民移転条例を公布し、政府が三峡ダムプロジェクト建設の中で開発的な住民移転の方針を実行し、移住者の生活のレベルが元のレベルに達するかあるいはそれを上回り、三峡ダム区域の長期的な経済の発展と移住者の生活のレベルの向上のために条件をつくり出すことを規定した。

★ 1994年12月14日、李鵬国務院総理は三峡ダムプロジェクトの正式始動を発表した。

★ 1996年11月下旬、三峡ダムプロジェクト長江せき止め工事がスタートした。

★ 1997年11月8日午後3時30分、三峡ダムプロジェクトの長江せき止めが実現した。

★ 2002年10月26日、全長1.6キロの三峡第2期ダム本体全体が設計の高さに達し、ダムの全体が海抜185メートルの設計上の高度に達した。

★ 2003年6月1日、三峡ダムは貯水を始め、6月10日までに水位が135メートルに達した。