2005 No.24
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高所得者に慈善家が少ないのは?

中国社会工作協会などの機関は4月26日、共同で「2005中国大陸慈善家ランキング」を発表した。これより前の4月11日、英国人のフールン氏は「フールン2005中国大陸慈善ランキング」を公表。「フォーブス」中国版も5月10日、「中国慈善ランキング」を明らかにした。

異なる方式で統計された3つのランキングには、2004年の中国大陸での慈善公益活動の状況が記録されている。フールン版では上位50社の企業のうち、民間企業はわずか4社。フォーブス版には、フォーブスが発表した「中国高所得者ランキング」で上位10位に入った人は一人も含まれていない。社会工作協会版では、上位135人の慈善家による寄付金の総額は10億元以下だ。

高度成長を続ける市場経済によって多くの高所得者が生まれた。手中にある富を前に、こうした高所得者たちは社会の慈善事業のために何をしてきたのか。

関係機関の統計によると現在、慈善組織は全国で200近くを数える。大陸で最大の慈善組織である中華慈善総会がこの10年間に集めた寄付金は15億元。うち高所得者による寄付金が占める比率は15%にすぎない。

庶民は長年にわたり、高所得者の慈善事業に対する取り組みに異議を唱えてきたが、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)や2004年末に発生したインド洋大津波の際には積極的な姿勢を示した。中華慈善総会も「高所得者による寄付金は年々増加している」と話している。

多くの人々の間には、高所得者が寄付する金額の比率はその財産総額に比べ低すぎる、寄付には「功利主義的」傾向がある、慈善を借りて名を上げようとしている、「贖罪」して良心の安寧を買おうとしている、といった批判がある。

中国の伝統的文化に見られる「財産を明かされるのを恐れる」心理、政府が主導する社会公益基金の運用方式、私人の寄付に不利となっている企業所得税法などが、高所得者の慈善活動への参与にある程度影響を与えている、との意見もある。

体制上の不備が慈善活動を制約

フリーライター・本友さん:「中国で慈善活動を行う高所得者はどうしてこんなに少ないのか」。民政部傘下の3機関が「2005年中国大陸慈善家ランキング・十大慈善家」を発表した際、多くの人がこう感じた。

「中国には善良で義憤に燃える人は少なくないが、慈善事業が独占された状態では、企業家精神や公益精神を備えた人物を慈善活動に引き付けることはできない」という意見には、多くの専門家が独自の見方を示している。専門家の考えを仔細に考慮し、国外の慈善事業の発展モデルを見ると、慈善事業の独占が善を行う上で重大な障害になっていることが分かる。

私はかつて重病人のために募金活動を行ったことがある。当時、多くの企業の責任者を訪ねて回ったが、地元の慈善総会と共同でやるなら寄付はするが、でなければ支持できない、と答えた企業が大半を占めた。理論的に言えば、慈善事業を行うことは、公民個人または企業が政府を援助して一部の社会福祉の責任を担うことであり、当然、政府の免税待遇が受けられてしかるべきだが、慈善総会の証明書があれば免税できるが、その他の機構の証明ではできない、というのは何故なのか。

これこそが中国の慈善事業の独占である。現在、寄付の全額免税を受けられるのは中華慈善総会や中国赤十字会など7つの慈善機関だけだ。これが慈善事業の発展をある程度阻害している。

わが国の慈善機構はいずれも政府機関を主管機関としなければならず、理事会は通常、官僚または退職官僚が主体となり、政府機関が推薦・任免している。このため慈善機構は政府に依存し、「準政府」的な性格を帯びていることから、慈善活動が成長して成熟するのは難しく、慈善事業の専業化と社会化を実現するのは難しく、真の慈善活動の主体となることも難しく、自然、より多くの人を引き付けて善を行わせることもできない。

一方、大多数の国では、慈善活動の主体は多くが企業であり、政府の職責は独占的な慈善機構を設置するのではなく、法律や法規を通して、民間資本が慈善組織を創設するよう奨励することだ。様々な慈善組織は企業として登記し、税務機関に免税待遇を申請しさえすればいい。

独占かそれとも市場化か、これが慈善事業の発展に与える影響は相当大きい。例えば、中国では各クラスの慈善組織の数は200以下だが、米国では150万。寄付金総額は中国では国内総生産(GDP)の0.05%、米国は2.17%を占めている。

慈善事業の独占状態を打破しなければ、社会にある善を行いたいという熱意と潜在力を掘り起こすのは難しく、慈善事業を急速に発展させることも難しい。そのため、『慈善機構法』を早急に制定し、慈善機構の独立法人としての地位を確立すると共に、現行の法律・法規にある慈善機構には主管機関がなければならないとする規定を取り消し、より多くの社会組織が慈善事業に参与するよう奨励することで、善を行う同等の機会を持たせ、善を行う同等の待遇を享受させるべきだ。

慈善活動が少ない原因は不正な富

「燕趙都市報」投稿者・馮雪梅さん・富に言及するには、社会の公平さと正義に言及しなければならない。この点から言えば、慈善家ランキングのほうが高所得者ランキングより意義が大きい。中国では高所得者は少なくないが、高所得者の間には慈善家は少ない。高所得者がずっと人々から非難されてきたのは、その富の質と無関係ではない。富の出所や分配に不公平さがある、多くの高所得者が不正を行っている、慈善公益事業に対して態度が冷淡であるなど。

慈善的な寄付は、社会的富のいま一つの再分配だと言える。ただ、こうした分配は税収の類に依存しない強制手段にすぎず、一種の良心と自己願望である。だが、社会の公平さと正義を実現する上では、それは強制分配と余り大きな差はない。

では、どの様な富の分配が正義となるのか。これは非常に議論のある問題だ。この問題については、米国の政治学者であるロバート・ノージック氏とジョン・ロールズ氏が長年にわたり論戦を繰り広げてきた。両氏とも米ハーバード大学の教授で、彼らの見方にはむしろ代表性がある。

ロールズ氏の分配の正義は、機会均等を原則に、できるだけ「最少受益者」の利益に配慮する、と主張している。彼から見れば、弱者への配慮は慈善ではなく、一種の権利だ。この見方を高所得者の慈善的寄付に用いれば、寄付は高所得者が当然なすべき一種の義務であり、また貧者が享受すべき権利となる。

こうした「分配の正義」は著しく理想主義的な色彩を帯びており、これをもって全ての高所得者に慈善的寄付を行うよう求めて「最少受益者」の権利を保証することは、明らかに現実離れしている。

ノージック氏は「正義の鎖」という言葉を用いてロールズ氏の「分配の正義」に挑んでいる。鎖とは(1)「手にした正義」(2)最初の財産の取得は清廉潔白でなければならない(3)「取引の正義」。財産を所有する過程で行われるいずれの譲渡と取引も自由で公正である(4)「正された正義」(5)財産の出所または取引に不公正があれば、正さなければならない――などである。ノージック氏から見れば、財産所有者の富の出所と取引が清廉潔白で公正であれば、たとえその富をもって国を敵にすることができたとしても、公正な所有であり、いかなる叱責も受けるべきではない。高所得者は自ら望んで慈善的寄付を行うことはできるが、社会と国家には彼らにそうするよう強制するいかなる理由もない。

両者を比較した場合、ノージック氏の見方のほうがむしろ人々により受け入れやすい。中国人の「富を憎む」心理、富を敵視するのではなく、富の出所と取引の不公正さを敵視する心理により合致している。自己の財産の清廉潔白さ勇気をもって語り、良心に恥じることなく所有する高所得者が何人いるだろうか。

不正の財を「正す」には、社会秩序のリスクを犯さなければならないが、いかなる既成事実をも認めることは、正義の放棄を意味している。両者の間には、折中点があり、これにより公正の実現は最大限度保証されるだろう。

この角度から言えば、中国の高所得者の慈善的寄付は、単に個人自らが望む行為にすぎず、更にその富の取得方法を自ら正すものでもある。こうした是正は、社会が自ら望む手段を通して富の再分配を実現するのにプラスとなる。この点については、ある不評を買っている企業が慈善的寄付に熱心であることを見ればよく分かる。「慈善企業ランキング」でトップにランクされたAPP社は過去数年、海南省や雲南省での速成林プロジェクトで世論から厳しい批判を浴びた企業だ。

専門家は「慈善は企業が社会的責任を履行する唯一の、または主要な方法である。だが、こうした方法はむしろ、新たな富の文化を形成するのにプラスとなる」と指摘している。

「時代報」投稿者・陳魯民さん・投資・管理コンサルティングの専門家として著名な温元凱教授は先ごろ、大陸の億万長者674人に対して詳細な分析を行った「2004年度中国財産報告」を初めて公表した。この中で温教授は、農民出身の億万長者の比率が最も大きいと指摘している。学歴から見ると、非大卒者が大半を占めている。同時に温教授は、高所得者について(1)傲慢になる(2)貪欲で野心が強くなる(3)色を好み賭博に走るなど嗜好性が悪くなる(4)愛人をつくる――など、4つの“頑固な病気”にかかりやすくなると指摘。

温教授はこのように鋭く突き、肝要な点に言及しているが、傲慢で尊大、野心にあふれ、さらに飲む、食べる、買う、賭けるなど、こうしたイメージは確かに非常に悪い。現在、経済学者や批評家は煩わしさ厭わずに「富を憎む」ことのないよう大衆を教育しているが、これはもちろん良いことだ。だが、こうしたイメージの醜い高所得者が、いかにせよ大衆に好感を与えることはあり得ない。大衆が敵視するのはこの様にイメージの醜い高所得者にすぎず、例えれば、死に物狂いで貧者を絞り上げる、富のために不正を行って不正の財をなす高所得者なのだ。 

総じて言えば、こうした高所得者は多少なりとも危機感を持ち、大衆のイメージを再構築する方法を考えて社会から認められ、大衆から支持されるようにすべきである。先ずは、品位を高め、謙虚で慎み深くなり、悪習を徹底的に改めて再出発して文明を重んじる高所得者となり、更には、慈善事業や喜捨を進んで行い、公のために熱心に尽くし、社会を愛する高所得者になることだ。この様な高所得者こそ、真に社会の卓越した人物となり、大衆の尊重と敬服を集め、自己の事業も長期にわたり発展させていくことができる。