2005 No.27
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>> 抗日戦争勝利60周年記念

甲午戦争と「馬関条約」

元中国社会科学院 卞崇道

抗日戦争勝利60周年にあたり、過去百年間に起きた中日間の歴史的事件を回顧することには現実的意義があろう。日本の中国侵略史のハイライトともいえるいくつかの事件をシリーズで紹介する。

                   ――編集部

1894年(光緒20年)、日本が中国と朝鮮を侵略する戦争が勃発した年は、甲午の年にあたるので、この戦争は中日甲午戦争と呼ばれる。翌年4月17日、腐敗した清朝政府は、日本帝国主義の仕かけたこの戦争に敗れて、屈辱的売国的な『馬関条約』を締結した。

甲午戦争は日本が前々から長いこと画策し、一挙に引き起こした戦争であった。1894年春、朝鮮政府が「東学党」の農民蜂起の鎮圧を援助するよう清朝政府に要請したことをきっかけに、日本は朝鮮に出兵、侵入した。そのとき、朝鮮の内戦は実際にはすでに終わっていたので、朝鮮政府は中国に撤兵を要求し、清朝政府は日本も同時に撤兵することを求めた。しかし、日本は撤兵を拒否したばかりか、口実を設けて増兵し、さらに同年7月下旬、中国の陸海軍に奇襲攻撃をかけてこの侵略戦争を引き起こした。8月1日、中日両国政府は同時に宣戦を布告し、甲午戦争が始まった。

戦争が始まるや、清朝政府内部には主戦派と和議派の争いが起こり、結局主戦派が優勢を占めた。この段階の戦争は、朝鮮の平壌と黄海海上で行われた。平壌戦役で、清朝政府軍の将領、馬玉昆と左宝貴は部隊をひきいて勇敢にたたかったが、司令官の葉志超は命を惜しみ死を恐れて、全軍の撤退を命令し、日本軍は朝鮮全域を占領した。つづいて、中日両国の海軍は、鴨緑江大東溝付近の海上で決戦を展開した。海軍力を比べると、北洋艦隊は敵軍に及ばなかったが、よく奮戦した。この海戦で「致遠」号の艦長、ケ世昌は敵艦に向かって突進し、艦と運命を共にした。丁汝昌は負傷しても退かず、林永昇、劉歩蟾、林春曽らの将領も必死にたたかい、「清朝政府の軍艦を黄海にせん滅する」という日本侵略者の傲慢な計画を紛砕した。平壌戦役と黄海海戦ののち、日本はますます侵略の野心をふくらませた。一方、清朝の軍事大権を握っていた李鴻章は、敗北を大げさに言い立て、戦争を避け、和議を強く主張した。

10月、日本軍は陸海の二手に分かれて中国の東北に進攻し、遼東半島で鴨緑江防衛戦と旅順、金州攻略を展開した。鴨緑江北岸を守っていた清朝政府軍総指揮の宋慶は無能で、士気は振わず、3日もたたないうちに、鴨緑江防衛ラインは全線で崩壊した。このとき、日本軍の別働隊が遼東半島の花園口に上陸してきたが、清朝政府軍はそれを座視していた。日本軍は金州を占領してすぐ大連湾に攻めこみ、たたかわずしてそれを手に入れた。18日には旅順に迫り、徐邦道の部隊が抵抗しただけで、その他の将領はわれ先にと逃走してしまった。22日、日本軍は旅順口を占領し、旅順全市で血なまぐさい大虐殺を行った。

隴を得て蜀を望む日本軍は、その侵略のほこ先を北洋海軍の根拠地、威海衛に向けた。北洋艦隊はやむなく敵を迎え、威海衛防衛戦を展開した。しかし衆寡敵せず、威海衛の海軍基地は1895年2月陥落し、北洋艦隊は全軍が壊滅した。だが、激戦のなかで、北洋海軍の愛国将領は平然として死に対し、全力をふるって抵抗した。周家恩は壮烈な戦死を遂げ、丁汝昌、楊用霖は投降を拒んで自決し、劉歩蟾は艦と運命を共にした。これと同時に、遼東戦線で清国軍は次々と敗退し、わずか10日間に6余万の軍隊が遼河東岸の全線から敗走した。

甲午戦争を終結させるため、清朝政府は投降を求める動きを強めた。清朝政府の和議全権大臣李鴻章は1895年4月17日、日本全権代表・首相伊藤博文、外相陸奥宗光と馬関(下関)の春帆楼で、『馬関条約』を締結した。だから、この条約は『春帆楼条約』とも言われる。同条約は11条からなり、ほかに『追加条約』と『議定条項』各3項がついている。その主な内容は、@中国は朝鮮の「完全無欠な独立自主」を承認するA中国は台湾全島とその付属各島嶼、澎湖列島ならびに遼東半島を日本に割譲するB日本に軍費2億両の銀を賠償するC沙市、重慶、蘇州、杭州を開港場として開放するD日本が中国の開港場に領事館や工場を設け、機器を輸入することを認めるE一方的に最恵国待遇を与えるF中国は、日本軍のために働いた漢奸分子(敵に通じた売国奴)を逮捕してはらならない――などである。

『馬関条約』締結後、帝国主義列強が次々と中国に侵入して勢力範囲を画定する風潮が巻き起こり、そのため、中国は日ましに半植民地の深みにはまった。他方、『馬関条約』は中華民族の覚醒をいちだんと促した。侮りを受けながらも、いたずらに行きながらえようとする清朝政府とは異なり、全国各界の愛国人士はその知らせに心を痛め、ぞくぞくと抗議に立ちあがった。『馬関条約』反対をきっかけに、広範な中国人民は中国近代史における感激と涙の勇ましい反侵略闘争を繰り広げた。

『馬関条約』の締結によって、とくに台湾人民は半世紀にわたって日本植民地主義統治下の生活を余儀なくされた。だが、反侵略闘争の体験豊かな台湾人民は、清朝政府の腐敗、無能ぶりに反対すると同時に、日本侵略者に対し英雄的な闘争を展開した。台湾が割譲されたとの知らせに、台湾人民はただちにドラを打ち鳴らしてストライキに入り、「全員で台湾を死守し、絶対に台湾を日本に譲らない」ことを誓いあった。台湾侵入の当初から、日本軍は台湾軍民の断固たる抵抗に遭った。まもなく、呉湯興と徐驤の指導下に抗日義勇軍が組織され、黒旗軍の将領劉永福も防衛軍をひきいて、台湾人民とともに日本の侵略に抵抗した。

半年もつづいた血なまぐさい抗戦の中で台湾はついに陥落したものの、日本軍に戦死戦傷者3万2815人の損害を与えた。日本の台湾統治の期間、台湾人民の植民統治に反対し、台湾の祖国復帰を求める闘争は間断なく続けられた。1945年、日本は無条件降伏を公布し、10月25日、台湾はついに祖国のふところに戻った。

甲午戦争と『馬関条約』から百年の歳月が流れたが、歴史の事実は改ざんできるものではなく、抹殺などなおさらできるものではない。甲午戦争は日本が発動した侵略戦争である。その後日本は朝鮮を奪って植民地にしたばかりでなく、中国の内陸部にたえず戦争を拡大し、1937年には中国侵略の全面戦争を、1941年には太平洋戦争を発動して中国人民とアジア人民に深刻な災難をもたらした。

今日、中日両国の政府と人民は、あの一時期の歴史を直視するとともに、決してそれを忘れてはならず、歴史をカガミとして真の平和友好の中日関係を築きあげなければならない。同時に、われわれが『馬関条約』締結百周年を想起し、とくに台湾が同条約に基づいて割譲され、両岸の同胞が「台湾の割譲」に反対し、共に日本侵略者とたたかった歴史をふりかえるのは、いまの内外の中国人に国辱を忘れさせず、台湾が祖国の不可分の領土であることを忘れさせないためである。「ひとつになれば栄えるが、分かれると衰える」という言葉がある。海峡両岸は一日も早く統一し、手を携えて中華を振興させるべきである。