2005 No.28
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>> 抗日戦争勝利60周年記念

台湾に対する日本帝国主義の植民統治

中国国際関係研究所研究員 劉江永

百余年前、日本は甲午戦争(いわゆる「日清戦争」)と「馬関条約」によって、中国から台湾を奪った。半世紀にわたって台湾に対する日本の植民統治は、1945年の日本の敗戦、投降によってようやく終止符が打たれた。

台湾は古くから中国の神聖な領土である。早くも紀元3世紀、三国時代の東呉政権は、人を台湾にくり出して開拓させた。当時台湾は「夷州」と呼ばれていたが、隋の時代に「流求」と改められた。紀元12世紀、南宋政権は軍隊を澎湖に進駐させるとともに、それを福建省建泉州晋江県の管轄下に置いた。「台湾」の名称は、明の万暦年間、台南の旧「大湾」港の呼び名がなまったものである。1624年、オランダとスペインの植民地主義者は武力で台湾を不法占領し、約40年にわたって統治した。当時、西欧列強は台湾を「フォルモサ」(美しいという意味)と呼んでいた。1662年、鄭成功は台湾をとり戻したのち行政機構を設け、1684年、それを台湾府に改めた。1772年、清朝政府は「台湾」を政府の統一名称とすることを決め、その後1885年、公式に台湾省を設けた。

日本帝国主義の台湾に対する侵略・拡張には、古い歴史がある。明治維新ののち、日本は欧米列強に伍して、中国を分割しようと企んでいた。早くも甲午戦争前の1874年5月、日本は台湾に漂流した琉球人が殺害されたことを口実に、軍隊を台湾に遠征させた。当時イギリスは、日本を利用してツァー・ロシアを牽制するため、しばらく台湾攻略を延ばすよう日本に要請した。その頃、台湾にマラリアが流行していたため、日本軍は大きな損害をこうむった。そこで、日本は、清朝政府が日本に賠償を支払い、琉球が日本に帰属することを認め、日本の出兵が「民を安んずる義挙」であったことを認めるよう要求したあと、しばらく台湾から撤兵した。しかし、それで問題が片づいたわけではなかった。

1884年10月16日付けの日本『時事新報』に掲載された予測記事の「支那帝国分割図」は、すでに中国の福建と台湾を日本の版図に組み入れていた。これからも分かるように、日本帝国主義の台湾占領は、さらにその侵略範囲を中国大陸に拡張する踏み台にすぎなかったのである。当時日本でかなり大きな影響力のあった著作『東方策』は、なにはばかることなく「若し又琉球諸国の主権者にして、台湾島を以て、軍事上の基礎を建てるに至れば、其国は全太平洋の全権を握る主権者とならん」と述べている。1887年、日本陸軍参謀本部が作成した「清国征討策」は、5年間にわたって準備をととのえ、チャンスをつかんで中国に「国運をかけた」戦争を仕かけることを打ち出していた。

1894年7月25日、日本が宣戦布告もなしに引き起こした甲午戦争は、日本が力ずくで台湾を占領し、中国を侵略する序幕となった。日本は戦争によって中国の遼東半島を占領したばかりでなく、北京攻略のおどしをかけて、1895年4月17日、清朝政府を強迫して屈辱的な「馬関条約」を締結させた。同条約に基づいて、中国は遼東半島、台湾および澎湖諸島を日本に割譲するだけでなく、日本に2億両の銀を賠償することになった。当時、ロシアは、日本が遼東半島を占領したら直接その利益がおびやかされると考え、独仏二国と組んで、日本に対し三国干渉を行った。このため、日本はやむなく中国から3000万両の銀をとり立てたのち、しばらく遼東半島は放棄したものの、これだけは待てないとばかり、先に台湾を侵略し、占領しようとした。台湾人民と駐とん部隊は、進入してきた日本軍に頑強に抵抗した。日本軍は1895年5月から11月までの5カ月にわたった血なまぐさい虐殺ののち、やっと台湾全土を占領した。

日本は台湾占領後、半世紀にたわって植民統治を行ったが、その手段は台湾人民に対する残酷な弾圧だった。1896年、日本国会で採択された「第63号特別法」は、台湾総督に、台湾人民弾圧のさまざまな特権を授けた。台湾人民の蜂起を弾圧するため、日本は台湾人民に対して軍隊、憲兵、警察の三位一体の討伐と支配を実行した。台北では、簡大獅氏の家族十余人が日本軍にみな殺しにされた。この不具戴天の仇に報復するため、彼は民衆を率いて1896年元旦に決起し、日本軍と百回も決戦をまじえたすえ日本軍に殺された。台南では、余慶芳が1915年7月に蜂起を指導し、日本軍の重要拠点であった西来庵市街区を攻撃した。この蜂起を弾圧するのに、日本軍は3万人余りの台湾人を虐殺した。台中では、1930年10月高山族の人民が霧社蜂起を起こし、日本軍はこともあろうに飛行機を使ってガス弾を投下し、高山族を絶滅させるような虐殺を行った。

日本は台湾占領後、フランスの植民統治方式をモデルとした同化政策を実行した。1914年12月、日本は台湾で「台湾同化会」を発足させ、「日台一体化」の思想を鼓吹した。それは、台湾と日本本土との完全同化をねらったものであった。1937年、日本は全面的な中国侵略戦争を引き起こしたあとも、台湾でいわゆる「皇民化運動」を繰り広げ、漢語の使用、中国戯曲の演奏などを禁止し、台湾人が日本人の姓名に改名し、一律に「皇民」になることを強制した。

経済の面では、日本は台湾に対し植民地的略奪を行った。当時、日本は台湾の大量の農地と山林を占有し、1943年に台湾から略奪した米は1905年の6倍となり、そのころの台湾人の一人当たり米保有量は3分の1も減った。1944年の統計によると、台湾企業の90%以上は日本人によって占められていた。製糖業を例にとると、旧三井、三菱財閥の製糖会社だけで、台湾の製糖量の半分以上を占め、日本が毎年台湾から略奪した砂糖は台湾の砂糖総生産量の60%を上回った。

第二次世界大戦中、日本はまた大量の台湾人を軍務や労役に強制徴集し、3万人もの台湾人の命を奪った。日本軍閥が台湾に対して行った残虐な侵略と統治は、台湾人民をして百回も抗日起義に立ち上がらせたが、いずれも孤立無援のため失敗した。1945年8月15日、日本政府は「ポツダム宣言」を受け入れ、降伏を宣言し、日本の台湾支配に終止符が打たれた。

ところが、日本国内にはいわゆる「台湾の帰属未定」論がずっと存在し、一部の人びとは、台湾が中国領土の一部であることを認めようとしない。これは明らかに根拠のないことである。1972年9月29日に調印された「中日共同声明」の第3項には、「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」とある。「ポツダム宣言」の第8項には、日本は「カイロ宣言」の条項を履行しなければならないとある。つまり、日本は中国から奪い取った満州、台湾、澎湖諸島などを中国に返還しなければならないのである。当時、中華人民共和国はまだ成立していなかったため、「中華民国」という名称を使ったものの、故外相大平正芳氏は1972年10月28日、第70回国会の外交演説の中で、台湾は「これら二つの宣言に照らして、中国の返還すべきである」との日本政府の立場を重ねて明らかにし、これは「パツダム宣言を受諾した政府の変わらざる見解である」と強調した。