2005 No.28
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――600年前、鄭和は約2万7000人からなる大船隊を率いて西洋を7回航海した。東南アジアやインド洋を経て紅海、アフリカへと至り、アジアとアフリカの約30カ国・地域を訪れ、海上シルクロードを確立すると共に強化し、友好の種子を伝播し、経済貿易の発展を促進し、国家間の友好と交流を増強して、世界文明の進歩のために巨大な貢献を果たした。だが、600年来、鄭和の西洋航海は史学的にも、また文化的にもその地位は公認されておらず、とくに人類文明の進歩に対する役割は長期にわたり軽視されてきた。今年、中国は鄭和の西洋初航海600周年を盛大に記念し、中華民族の平和と善隣友好を熱愛する優れた伝統を大々的に発揚すると共に、世界の平和と共同の進歩を促進していくことにしている。鄭和の歴史は、社会は進歩しなければならないこと、国家間の交流と協力、融合の重要性と、閉鎖的な国は民族の活力が断ち切られることを示している。

鄭和西洋航海600年を記念する

李子

鄭和が西洋を航海して600周年を迎えるに当たり、この歴史を記念するには先ず、鄭和の西洋航海は中国と世界の歴史上どんな意義があるのか、今日の社会にとってどんな意味があるのか、を明白にする必要があるだろう。

鄭和は中国と世界に何をもたらしたか

鄭和が大船隊を率いて西洋を航海した任務の第1は、力を対外的に宣伝し、各国との関係を発展させること、第2は、進物を贈呈し、これらの国家と友好関係を確立し発展させたという善意を示すこと、第3は、中国の手工業品を各国の特産品と交換するため、貿易活動を行うことだった。

鄭和の西洋航海は中国と世界に何をもたらしたのか。

平和の使者――鄭和西洋航海600周年記念活動準備指導グループ弁公室の姚明徳主任は「鄭和が率いた船隊は大規模な海軍の艦隊だったが、侵略や拡張に用いられたことはなく、友好を伝達し、平和を実現する目的に使用された。鄭和は様々な手段を講じて、各国間の矛盾を調停・緩和し、紛争を鎮静化し、隔たりを解消すると共に、倭寇を威嚇し打撃して、海賊を撲滅するなど海上の安全を保障した。

アモイ大学海洋研究所の李金明教授は「鄭和の航海は28年に及び、アジアとアフリカの約30カ国・地域を訪れたが、海外に1つの植民地もつくらず、いかなる場所でも主権を唱えることはなく、自己の偉大な“発見”を誇示することもなかった。当時の明朝は世界の他の国あるいは民族に比べ大きな国力を有していたが、それにもかかわらず船隊は小国を侮ることはせず、他国の土地を占領することもしなかった」と指摘する。

鄭和の船隊は平和の使者、友好の使者であるからこそ、海外諸国との友好往来が緊密になり、中国人民とアジア・アフリカ人民との友誼が増進された。不完全な統計だが、鄭和が西洋を航海している間、関係するアジア・アフリカ諸国の使節が318回も中国を訪れている。東南アジアの4カ国は9人の国王が8回も中国を訪問。まさに中国と東南アジアとの友好往来の歴史的証人と言えるだろう。

文化の使者――姚明徳主任によると、鄭和が西洋航海で伝播したのは中華民族の文明、先進的な中国文化だった。当時の東南アジアや南アジア、アフリカの一部の国家・地域は比較的遅れていたため、中華文明に非常に憧れており、主に中国の礼儀や儒家思想、暦法、度量衡、農業技術、製造技術、建築彫刻技術、医術、航海・造船技術などが伝播された。

北京大学歴史学部の王天有教授は「当時の西洋の一部の国では、生活方式はまだ原始的だった。鄭和は到達すると、イスラム教を広め、イスラム寺院を建立して人のために善を行うよう勧めた。また井戸を掘り、道路を造ることを教え、現地の人々の生活方式や習慣を改善した。鄭和船隊の訪問が東南アジア諸国やアフリカ東海岸の多くの部落や都市国家に与えた文明ショックはかなりのものだったろう。一時、中国に学ぶブームが起きたほどだ。船隊が訪れたところでは、宗教や文化などで人々に深い影響を与え、その国の文明は向上していった」と説明する。

海外貿易の発展――これについて王天有教授はこう語っている。「鄭和の西洋航海は、中国古代の儀礼制度と朝貢貿易の関係が最高水準にあったことを示しており、民間の海外貿易の発展を刺激し、啓示を与えたのだ。近年、一部の学者が航海した総人数について試算しているが、それによると約10万人に上る。帰国した彼らから直接影響を受けた人はその倍に上るだろう。とくに福建省や浙江省地区の多くは海に依存して生活しているため、当地の庶民にとっては海外貿易が次第に生計を立てる重要な手段となり、政府が西洋航海を停止すると同時に、民間の海外活動がにわかに発展していった。福建省や広東省の商人を主体とする集団はアメリカ大陸まで航海し、ラテンアメリカのメキシコなどで貿易活動に従事するようになり、世界市場で非常に活躍した。鄭和の西洋航海により、大規模な民間の海外貿易が沿海部で広がり始め、商船貿易が台頭することになった。明朝と欧州の商人による太平洋地域での貿易活動は、17世紀に欧州に資本主義を台頭させる上で、消すことのできない貢献を果たしたと理解していいだろう」

鄭和の西洋航海は中国人民の地理的知識を豊かにし、中国人民の視野を広げた。とくに鄭和に同行した馬歓や費信、?珍が編さんした『瀛涯勝覧』や『星槎勝覧』『西洋番国志』は航海でめぐった国・地域の沿革、重要都市、地勢、宗教信仰、風俗習慣、物産・気候などについて詳細に記述しており、これによって中国人は東南アジア、北インド洋沿岸、アラビア海、紅海、アフリカ東海岸一帯という広大な地区に対する理解と知識をより深めることができた。『鄭和航海図』は中国伝統の測量法を採用し、経由した山河の流域、島嶼の浅瀬、埠頭・港湾、町の廟・寺院などが明確に描かれており、南京から東南アジア沿海、北インド洋沿岸、最も遠いアフリカ東海岸に至る航路や航程などを示した優れた航海手記と言えるものだ。

航海を継続できなかったのは何故か

鄭和の西洋航海が中国と世界に果たした貢献は巨大ではあるが、統治者の問題から、鄭和が切り開いた時代が中国に革命的な原動力をもたらすことはなかった。中国は2代王朝の統治下で400年にわたる鎖国政策を実行した後、アヘン戦争など屈辱的な歴史を経験する。反対に、西側の世界では鄭和の航海100年後に工業文明が始まり、最終的に全面的に中国を追い越した。

では、航海を継続できなかったのは何故なのか。

李金明教授は、航海停止の主因は、航海そのものが完全に封建皇帝の権力に操られており、これによって停止という悲惨な結果が決定されたと強調した上で、具体的原因として以下の5点を挙げた。

(1)政府の国庫が底をついた。生産が投資を上回らなければ、発展を継続させることはできない。だが船隊の人数は多く、必要経費は膨大であり、出航のたびに進物の支出はかさみばかりで、船隊を支援する明政府の国庫は底をついてしまった。

(2)政治的目的が達成された後、航海の重要性が低下した。明代初めには海賊が跋扈し、東南アジア諸国との友好関係に影響を及ぼしていたため、航海前期の目的は海上ルートを円滑にし、倭寇を打破することであり、いま1つの目的は西洋国家と安定した関係を保持することだった。7回の航海の後、明朝の統治者が政治的目的は達成され、航海は安定化したと考えたことから、その重要性は失われていった。

(3)明朝政府は海上貿易権を独占し、個人貿易の発展を阻害し、法律で民間人の海外貿易に極刑を科す規定を設けたが、国家勢力が衰退を続け、人民の生活が苦しくなるに伴い、海外貿易で膨大な所得が得られることから、多くの農民が国家の称するいわゆる海賊に徐々になっていった。こうして、封建国家の収入は減少し、それが政治にも影響を及ぼした。これを機に、明朝統治者は海禁政策をより厳しくしていった。

(4)膨大すぎる船隊を明朝の役人が批判するようになった。ある試算によると、永楽年間に新たに建造し、修理した船舶は約2000隻に上る。1隻建造するのに白銀で7、8000両、13省の金銭と穀物が必要であるため、役人の批判は高まり、圧力も増大し、政府に航海の停止を迫った。

(5)航海に必要な物品は政府の手工業生産能力を上回り、供給が困難に陥った。手工業に従事する工匠は約30万人に上り、封建的懲役制度の下で強制的に無償労働させられていたため、労働の積極性は低く、仕事をさぼることが経常化し、逃走して反抗する者もいた。逃走が深刻化するにつて、必要な物品をまかなう任務は達成することができなくなり、航海は豊富な物質的基盤を失ったことで、自然、継続が難しくなっていった。

鄭和を盛大に記念するのは何故か

北京大学歴史学部の許凱教授は「鄭和の西洋航海は明朝外交の壮挙であり、開放の門を押し開き、多くの使者が訪中し、幅広い政府間の交流が展開された。その後、明清両政府は海外貿易権を十分重視しなかったため、海上列強の侵略という屈辱を受け、土地を割譲して賠償し、ひいては半植民地に陥ってしまう。これはまさに、繁栄と没落の鮮明な落差映したものだ。鄭和による7回の西洋航海は、文明の伝承は統合力を基礎にしたものであり、国の門戸を開き、絶えず各国の先進的な文化を吸収し、国が豊かで強くなって初めて世界の民族という林に永遠に屹立できる、ということを如実に物語っている。そこに鄭和の西洋航海を記念する重要が意義ある」と強調。

王天有教授も「中国は平和を熱愛する国家であり、覇権主義を唱えず、国際交流の中では強者にはべり、弱者を侮ることに反対し、各国との善隣友好関係の発展に尽力してきた。これこそが鄭和がわれわれに残してくれた貴重な財産だ。従って、鄭和を記念することは、世界の平和と発展を模索する上で重要かつ現実的な意義がある」と強調する。

改革開放が始まったころ、ケ小平氏はこの歴史を用いて、開放はまさに道理があると説いている。「開放しないのは良くない。あなたが開放せず、さらに内に閉じこもって自らを守るようなら、50年で経済発達国の水準に近づくのは、全く不可能である」

江沢民前国家主席は、鄭和の西洋航海について「世界各国との友好往来有無相通ずる典型だ」と語っている。

この数年来、西側諸国でも鄭和の西洋航海の歴史的意義に関心が集まりつつある。コロンブスのアメリカ大陸発見500年を記念した際、多くの西側の学者は鄭和の航海を想起した。米ニューヨーク・タイムズは長編の特集を組み、この中で「中国が鄭和の時代の開放政策と航海探検を継続して発展させた場合、では、今日の世界はどのようなものになるだろうか」と問題を提起しことがある。

鄭和の西洋航海、という歴史的事実は再度、われわれに次のことを教えている。「時代が発展し、社会が進歩するには、国家間の交流と協力、融合と影響が日増しに重要となってくる。開放と包容、鋭敏な探求と平和に向けた奮闘が、民族が栄える道を創造する。反対に、内に閉じこもったり、みだりに威張ったりしてみれば、民族の活力は断ち切られる。中華文化は過去、現在、そして将来にわたり、世界の文化の分野で主要な一員となるだろう。世界の先進的文化を伝え、世界の文化の交流を強化する上で重要な役割を担うだろう」

長年にわたり誤解・軽視されてきた鄭和

長年にわたり、鄭和の西洋航海の意義はそれ相応に重視されることはなく、鄭和の研究の中国学術界での影響も大きくはなかった。西側の航海家であるコロンブスやマゼラン、バスコ・ダ・ガマなどの事跡が幅広く伝えられていったのに比べ、鄭和のより偉大な7回に及ぶ航海は、民間に十分知られることはなかった。

マカオ基金会の呉志良博士は「鄭和とその研究はよりマクロ的な角度から考慮、とくに西側の航海史の著作と比較研究する必要がある。鄭和の研究ではまだ結論付けられていない問題が数多い」と指摘。外国の専門家が軍事遠征だと考えている点については「船隊の2万7000人は多くが政府の兵士だが、基本的には船隊の安全を保護するためものだ。平和のために武力を動員する、ということは、征服のために武力を動員することとは異なる」と反論する。

中央研究院会員で、台湾成功大学の呉京教授は「鄭和の航海は豊富な科学技術を有しており、人文・科学技術系の学者を集めて共同研究をしていきたい。例えば、歴史学者と造船の専門家を集めて鄭和の船隊について、海洋学者と航海専門家とは鄭和の航路について共同研究をしてみたい。大軍を募集し、訓練して航海に出、商務隊と巨大な船隊を結成した上での海上での統御と補給は、管理面での非凡な成果であり、管理専門家と中国古代の管理科学について共同研究することもできる」と呼び掛けている。

北京大学の孔遠志教授と楊康善教授は、東南アジア沿岸諸国・地域を対象に長期にわたり実地調査を行ったが、その結果、こうした地区に与えた影響について、(1)鄭和に関する寺院や廟が多い(2)鄭和に関する遺跡や伝説が多い(3)鄭和に関する著作が現地語で数多く出版されている(4)鄭和を記念する活動や研究機構も徐々に増えている――の4点を明らかにした。ただ、こうした影響の背後には、これらの地区に居住する人々の大多数が鄭和に対してかなり誤解しているという面がある。大多数の華人の目には、鄭和は福を祈る神と映っており、幅広い先住民の心の中では、鄭和は伝説中の「三八公」に過ぎない。歴史上の鄭和とその偉大の功績に対する理解は非常に少ない。

孔遠志教授は「西側の宣伝が故に、過去、航海家と言えば、コロンブスを思い浮かべたものだ。権威ある『インドネシア百科事典』や『マレーシア百科事典』もコロンブスなどの西側の航海家は紹介してはいるものの、中国の航海家である鄭和に関する項目は見当たらない。さらに残念なのは、英国や仏、オランダ、イタリアなどで学術交流をした際、鄭和の西洋航海を知っている学者がかなり少なかったことだ」と話す。

いかに事実どおりに鄭和を評価するか。歴史の真実はまだ、長期にわたる課題として残っている。