2005 No.29
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>> 抗日戦争勝利60周年記念

日本軍国主義者の中国東北での暴行

遼寧大学日本研究所副所長 馬興国

日本軍国主義者は長年にわたって策をめぐらし、準備を整えたのち、1931年9月18日の「9・18」事件を引き起こした。蒋介石が無抵抗政策をとったため、日本軍は一夜にして瀋陽市を占領し、4カ月と18日で東北全土を占領し、14年間にわたる血なまぐさい統治を東北各民族人民に対して行った。

「満洲国」をでっち上げる

早くも1931年末、日本関東軍は前後して「満蒙共和国統治大綱草案」と「満蒙自由国建設方案大綱」を作成し、東北に傀儡政権を樹立し、植民地統治を行う構想を建てた。1932年2月17日、漢奸張景恵らは、関東軍の意を受けて、傀儡政権「東北行政委員会」を発足させることにし、南京国民政府との関係を絶つことを宣言した。2月29日、関東軍の演出した「全満建国運動促進大会」は、廃位させられたのち日本軍国主義者にはぐくまれていた清朝の末代皇帝溥儀を「新国家執政」に擁立する決議を採択した。3月1日、日本帝国主義者は偽満洲国政府の名義で、「満洲国」の独立を宣布した。1932年3月9日、溥儀は「執政」に就任し、翌日、関東軍の提出した名簿に基づいて、偽満洲国の官吏を任命した。1934年3月1日、関東軍にあやつられて、溥儀は長春の偽皇宮で「即位」の式典を行い、偽皇帝となった。

早くも1932年3月6日、関東軍司令官本荘繁は、漢奸鄭孝胥、溥儀との文書交換の形で、「満洲国」の国防、治安、海陸空交通の全面的管理を日本にまかせ、日本は中国東北の鉱産資源を開発する権利を有し、満洲国はできるだけ日本軍の必要とする「各種施設」を提供するという密約を結んだ。その後の一連の条約や協定はすべて、日本侵略者が中国東北の政治、経済、軍事、交通などの権限を握り、傀儡政権をあやつって、ファシズム統治を推進するよりどころとなった。

偽満洲国成立後、日本軍国主義者はなおも狂ったように東北の戦略資源を略奪し、東北の経済を独占し、東北人民にファシズム的鎮圧を行い、植民主義の文化教育体制を推し進めた。統計によると、1932年から1944年までに、日本帝国主義が東北から略奪した石炭は2億2300万トン、銑鉄は1100万トン、鋼は580余万トンに達した。採炭のため、彼らは「人肉採炭」政策をとり、1939年だけで、撫順炭鉱では1万190人の労働者が死傷し、平均して7人に1人の坑夫が死亡した。

日本侵略軍は東北の愛国人士に対し血なまぐさい虐殺を行った。日本側の統計データによると、1932年から1936年までのわずか5年間に、日本の軍隊・警察に逮捕、虐殺された東北抗日軍民は8万9100人に達した。その内訳は虐殺されたもの4万9279人、負傷したもの3万1608人、逮捕されたもの8213人であった。関東軍と偽満洲国政権の統治下に、東北人民は塗炭の苦しみをなめたのである。

 罪なき人民を野蛮に虐殺

日本帝国主義は東北占領期間に、この世で最もむごたらしい多くの大虐殺の事件を起こした。そのうち、死者千人以上を出した事件は平頂山事件、老黒溝事件、土竜山事件、海蘭江事件などであった。

平頂山は、撫順市街区南部にある村で、そこには400戸余りの農家があり、3000人余りの村民が住んでいた。1932年9月16日、日本侵略軍は、抗日武装勢力の軍隊がこの村を通過したという口実で、関東軍撫順守備隊第2中隊長川上岸、撫順憲兵分遣隊長小川一郎の率いる200余人の日本軍が平頂山を包囲した。彼らは一軒ごとに全村の児童から老人に至るまですべての村民を村の南端の野原に連れ出した。午後1時ごろ、隠し持っていた6挺の機関銃と彼らの手にしていた歩兵銃がいっせいに村民たちに向けて掃射された。そんなこととはつゆ知らず、まったくの無防備だった村民たちはたちまちばたばたと倒れ、多くの人は即死した。それと同時に、日本軍は村内の家を焼き払い、平頂山全体が血の海となり、烈火につつまれた。まだ息をひきとっていない受難者がいるのを見つけた首切り役人たちは、北の端から南の端まで一列に並び、銃剣や軍刀で、死んでいる者も生きている者もひとり残さず突き刺した。翌朝、日本軍はそのファシズムの暴行を隠すため、犠牲者たちの死体をかぎで虐殺現場からがけ下まで引っぱって行き、それにガソリンをかけて焼き払い、さらに爆薬を使ってがけを崩して覆い隠し、現場を破壊した。

平頂山事件での日本軍の虐殺は3時間にも及び、殺された同胞は2500人を超えた。これは、日本帝国主義が東北人民に借りているもう一口の血債である。

残虐な「731」細菌部隊

1933年8月、日本帝国主義は石井四郎を長とする細菌研究所をこっそりハルビンに設立し、1936年には、長春の孟家屯とハルビンの平房にそれぞれ細菌部隊を編成した。ハルビンの細菌部隊は1941年に「関東軍731部隊」と改称された。

731部隊は、日本軍参謀本部と関東軍司令部の双方の指導を受け、中国における日本侵略軍の細菌兵器研究センターであり、細菌戦を指揮する本部であった。731部隊は、細菌兵器の開発と使用を目的とし、その開発・生産に従事したものは3000人にも達した。その部隊長となったのは石井四郎と北野政次であった。

彼らは細菌をこっそり研究し、大量に生産した。元731部隊細菌生産部長の川島清は「731部隊は、1カ月にペスト菌300キロ、あるいはチフス菌800〜900キロ、炭疽菌500〜700キロ、コレラ菌1トンを生産できた」と供述している。

彼らは残虐非道にも、生きている人間を細菌効能の実験に使った。例えば、監禁されていた中国の愛国人士に、ペスト菌を注射したり、埋め込んだり、服用させたり、液状コレラ菌の服用を強要したりした。また女性の体で、梅毒伝染の実験をしたり、零下30〜40度の厳寒の中で凍傷の実験をしたり、気密室あるいは乾燥箱に押し込めて圧力実験や耐熱実験を行った。日本側のデータによると、1940年から1945年8月までの5年間に、少なくとも3000人以上の中国人、ソ連人、モンゴル人が細菌実験によって命を失った。

731部隊はまた中国の東北、華北、華中、華南、内蒙古などで細菌戦を行った。1940年、731部隊の「陰謀破壊班」は、吉林省農安県でひそかに鼠のノミをばらまいた。それによって、同県にペスト病患者が354人発生し、そのうち298人が死亡した。

日本軍国主義者が降伏する直前の1945年7月末と8月初め、731部隊は犯罪のあらゆる証拠を隠して歴史的な懲罰を逃れるため、最後に残っていた300余人の拘留者を毒ガスで虐殺した。しかし、歴史は改ざんできるものではなく、日本軍国主義者が国際法にそむいて細菌戦を大々的に行った証拠は確実で動かしがたい。当時の跡地に建てられた「関東軍731部隊罪証陳列館」は、日本人民を含めた世界各国人民に、いつまでも啓示を与えることだろう。