2005 No.33
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米軍の中国戦場における役割

1936年、宋美齢(蒋介石夫人)の後押しで、中国は当時世界最大の兵器輸入国となり、航空機購入費は2000万ドルにも達した。宋美齢が後に、中国人パイロットの訓練水準を高めるための要員を求めたことから、米国人顧問のホルブルックは47歳の大尉、陳納徳を推薦した。

1937年5月、退役した陳納徳は客船で米国から上海に到着。3カ月の滞在予定だったが、7月に盧溝橋事変が起きたため、中国に留まることを決める。

1937年8月13日、淞滬会戦が勃発すると、陳納徳は航空機を派遣して参戦させた。1938年10月、陳納徳は中国政府の命令を受け、湖南省西部の要衝の地・江に到着した。拡張したばかりの江空港に航空学校を開設するとともに、自ら校長と主任教官に就き、中国のためにパイロットを養成した。

日本政府はこの状況を知ると、米政府に圧力を加え、全ての米国人パイロットを中国から引き揚げさせるよう要求。外交圧力に迫られた陳納徳は、活動を非公開とし、米国に戻ってひそかに中国政府に代わりパイロットを募集した。

抗日戦争初期、米政府は本国の世界戦略から、一貫して日本に対しては融和政策を実施していた。抗日戦争が双方対峙する段階になると、米国は中国を援助する一方で、日本にも大量の戦略物資を輸出した。日本の中国に対する軍事侵略と経済略奪が激化すると、それに伴い日本と米国の対立は日増しに深まっていく。太平洋戦争勃発後、米国は自国の戦時利益と長期戦略目標のため、経済、政治面で中国を支持し、中国を取り込み、共同抗日政策に取って出た。

1941年初め、ルーズベルト大統領は議会に対し、中国に航空機の提供ができる「租借法案」を可決するよう促し、その後、予備役の将校や、陸海軍の航空部隊の退役兵が中国に赴く米国志願隊に入隊することが認められた。

1941年、米政府は租借法案に基づき中国にP-40B戦闘機100機を援助した。これらの航空機を受け取った陳納徳は米国志願航空隊を結成し、中国の抗日戦争を支援した。7月中旬、陳納徳はパイロット110人、機械士と医師150人からなる航空隊員第1陣を率い、各地を転々として中国に到着した。8月には中国空軍の米国志願隊が正式に編制された。3個の戦闘機中隊を管轄し、ビルマ(現ミャンマー)で訓練を開始した。

1941年12月20日、機首に凶悪なサメの首が描かれたP-40戦闘機が、しばらく空中で敵に遭遇していなかった日本人パイロットの眼前に出現する。昆明で10機の日本軍機を空襲した際には、その場で6機を撃墜し、3機が墜落し、運よく難を逃れたのはわずか1機だった。中国側は1機も損害を受けていない。陳納徳の航空隊は中国人から「飛虎隊」と称賛された。1940年秋以後、日本軍の航空兵は中国の空域を制圧できなくなっていく。

1942年7月、米国志願隊は現役に組み込まれることになり、駐中国米空軍特別編成隊に改称された。1943年3月、米国第14航空隊に再び拡大改編され、数多くの新型戦闘機を装備するとともに、B-24型爆撃機隊を編制した。統計によると、1941年12月〜1943年6月、米国志願隊は計延べ519機、102回出撃し、日本軍の航空機を103機撃墜し、75機を爆破した。

同時期、中国空軍は米国の支援を受けて新たな進展を収めていた。1941年末までに、作戦部隊が保有する各種航空機は365機に上り、うち100機のP-40型新型機は米軍志願隊が操縦した。1942年3月以降、米国から購入した航空機が続々と到着する。中国空軍の各部隊は数回に分けて要員を米国とインドに派遣し、訓練を受けた後に航空機を受け取った。1942年末までに、その数はB-29型爆撃機が19機、P-40型戦闘機27機、P-43型戦闘機41機、P-66型戦闘機は89機に達した。空軍作戦部隊は7個大隊、1個偵察中隊、1個米国志願大隊から編成されていた。

1941年12月、日本はパールハーバーを奇襲したのに続き、シンガポールと香港、ビルマなどにも進軍。当時、中国の沿海部都市はいずれも日本軍に占領されており、中国政府唯一の国際道路は昆明とヤンゴンを結ぶ雲南・ビルマ路線だけだった。この生命線を保衛するため、中国は1942年に10万人からなるビルマ進入作戦遠征軍を組織した。だが英国側が協力しなかったことから、中国軍は応戦に追われ、惨敗して敗退。遠征軍の一部は雲南に退き、残りの一部はルートを変えてそれぞれインドへと退いた。中国・ビルマ・インド戦闘区の米軍総指揮官スティルウェル中将はインドに退却した遠征軍を集結させるとともに、英国と協議し、遠征軍の番号を取り消して駐インド中国軍を創設し、スティルウェル中将が総指揮に就いた。

駐インド中国軍は中国、米国、英国3カ国の連合部隊であり、中国陸軍を中核とし、人数の最も多い時期には2個軍団を擁し、5個師団を管轄し、総兵力は約10万人に上った。中国部隊が必要とする兵器や弾薬、後方勤務供給、医療救護は米国側が担った。駐インド中国軍の作戦目標と任務は、ビルマ北部を占領した日本軍を壊滅し、インドからビルマ北部を経由して昆明に至る中印道路(当時、抗日戦争に緊急に必要な兵器や弾薬、とくに重火器はこの道路に依存していた)を切り開くとともに、インドから中国にガソリンを送る輸送パイプラインを敷設することだった。

日本軍が太平洋戦争を起こし、戦線が拡大したことから、中国本土の航空隊は戦略の変更を余儀なくされ、空爆と空中戦が減少。中国空軍の主要な任務は、これに伴って転換された陸軍作戦の支援が主体となった。

1942年、中米空軍は中印の間に「ラクダのこぶを越える」航空路を共同で切り開いた。

「ラクダのこぶを越える」航空路とは、1942年5月〜1945年9月、中米空軍が中国戦略物資の輸送を保障するため共同で開設した、インド東北部アッサムのディンジャンなどから、ヒマラヤ山脈などを越えて雲南の昆明、四川の重慶などに至る国際輸送航空路のこと。

3年間に、総輸送量は78万674トンに達し、うち米軍は73万6374トン、中国航空公司が4万4300トン輸送した。ほかでもなく、この航空路開設で空輸された戦略物資があったからこそ、1943年末から1944年初めまで、中米空軍は中国戦場において制空権を徐々に奪取していくことができた。

海抜3000〜6000メートルの氷雪に覆われた険峻な峰を飛行する航空路は、世界空輸史上最も危険な航空路でもある。この航空路内で3年間に月平均15機、計609機を撃破しており、犠牲また行方不明になったパイロットは1500人余りに上る。

この航空路は中国が西側諸国から戦略物資を獲得するためのものであり、これによって中米空軍は絶えず物資を補充し、空中戦で日増しに主導権を握るようになる。絶えず漢口や九江、南昌、臨川、広州、山西、湖北、香港及びベトナムなどの日本軍飛行場や港湾、埠頭、軍艦に出撃して攻撃し、重大な成果を上げた。

よく知られる「鄂西(湖北省西部)会戦」においては、中国空軍と米空軍第14航空隊は、日本軍飛行場と前線の陣地に猛烈な攻撃を加えた。戦闘機延べ326機、爆撃機延べ80機を出動させて日本軍航空機41機を撃墜し、6機を爆破したほか、飛行場及び数多くの軍事施設を破壊し、日本軍艦23隻を沈没させるなど、中国領空の戦況は逆転し始めていった。

抗日戦争後期、中日両軍の間で最も激しい戦闘が湖南省西部で勃発。日本軍は5個師団と1個混成旅団の主力部隊を結集し、湖北と湖南両省の日本傀儡駐屯軍10万人を加え、3路に分かれて湖南省西部へと進軍し、江を包囲することを企んだ。

中国当局は、いったん江が陥落すれば、南部の領土が陥落する危険性のあることを承知していた。陸軍総司令官の何応欽は自ら2つの集団軍を率い、江に駐屯していた中米空軍及び後方勤務保障部隊約20万の兵力とともに全力で応戦した。米軍は約3000人が参戦している。

江防衛戦は2カ月続いた。江に駐屯する中米空軍は湖南省西部の雪峰山戦役区にある日本軍陣地に連続爆撃を行い、400機の戦闘機が計延べ2500回出動し、100トン余の爆弾を投下し、弾丸80余万発を発射するなど、戦勝に重要な役割を果たした。江防衛戦は日本軍が中国作戦区において行った最後の戦闘となる。日本軍はこれを機に再起不能となり、対抗力を失っていった。2カ月後、日本政府は中国人民に無条件で降伏した。