2005 No.33
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旧ソ連軍の中国戦場における役割

抗日戦争の初期と中期、旧ソ連は中国を援助した主要国だった。

中日戦争が全面的に勃発する前、中国国民政府は主にドイツ人を軍事顧問担当に招いていた。ドイツが1936年11月25日に日本と『防共協定』に調印したため、軍事顧問団は中国を離れてドイツに戻った。国民政府は旧ソ連と『中ソ不可侵条約』を締結すると、旧ソ連に対し、軍事専門家と軍事技術者を中国に派遣して抗日を援助するよう何度も要請した。

旧ソ連政府は中国政府の要請を受け入れた。1937年末、旧ソ連軍事顧問体制が確立された後、陸軍と空軍、工兵、砲兵、戦車兵などを含む多兵種にわたる強大な顧問陣容へと急速に発展していく。顧問は中国軍の各部隊に配属され、戦力は大幅に増強された。

1939年8月、旧ソ連軍事専門家は中国を支援して新疆・イーニンに航空学校を開設。1940年までに、旧ソ連の教官から航空訓練を受けた中国人は328人に上る。それ以前、一部の軍人は旧ソ連で直接訓練を受けていた。うちパイロットは1045人、航空士は81人、射撃手と無線電信者は198人、航空技術者は8000人余り。統計によると、軍事大学や専門学校、訓練班や部隊で直接指導を受けた中国軍人は9万人余りを数える。

1931年9月、日本軍が中国に侵入すると、東北地方にあった旧ソ連領事館は半公式的な行動に出て中国軍を援助した。旧ソ連側は張学良の要求に沿って、ハバロフスクから大量の武器を輸送した。

1937年初め、旧ソ連は中国に5000万ドルを信用供与することに同意。同年9月9日、中国軍事代表団は旧ソ連側と契約を結んだ。旧ソ連はまず、戦車や高射砲、対戦車砲、弾薬、部品などの軍事装備を提供することを決定すると共に、これらの軍事装備が効果的に活用できるよう軍事教官を派遣することにも同意した。

1938年初めには、5000万ドルの第二次信用供与に同意。その後、バーター貿易による1億5000万ドルの融資を提供することに合意し、契約を結んだ。

1941年6月、ソ独戦争が勃発。これにより旧ソ連のバーター融資は停止した。1938〜1939年のバーター貿易融資総額は2億5000万ドルに達し、実際使用金額は約1億7317万ドルで、総額の約3分の2を占める。

ここで指摘しなければならないのは、1937年の「蘆溝橋事変」から1939年に第二次世界大戦が全面的に勃発するまで、旧ソ連は中国にとって主要な資金提供国だったことだ。融資は武器と軍用物資の購入に充てられ、金利はわずか年3%だった。

1937年7月の中国の全面的な抗日戦争開始から1941年6月22日にソ独戦争が勃発するまで、旧ソ連は中国の陸軍、空軍に大量の武器と軍事装備を提供した。『中ソ不可侵条約』が発効した年、中国は旧ソ連から20師団に相当する装備を取得。4年近くの間、中国が抗日戦争中に実際に手にした外国からの援助物資は、大半が旧ソ連から提供されたものだ。

旧ソ連の武器と軍事装備の輸送ルートは2本あった。第1は、旧ソ連のセバストポリ、ウラジオストック港から香港を経由し、ベトナム・ハイフオンあるいはミャンマー・ヤンゴンまで海上輸送した後、昆明・ハノイ鉄道や昆明・ヤンゴン道路を利用して中国の内陸部まで運ぶ。第2は、自動車でアルマアタからホルゴス、ウルムチを経由して蘭州まで運ぶ。また旧ソ連は非常に困難な中、アルマアタと蘭州を結ぶ航空路も開設している。

中国に抗日戦争の緊急軍事物資を絶えず供給するため、旧ソ連は大量の人力と物資を動員した。統計によると、1937年10月〜1939年2月、軍事物資を中継輸送した鉄道車両は5640両、軍用自動車は5260台、輸送総距離は1850万キロ、動員人数は4000人余りに上る。

旧ソ連の軍事装備は抗日戦争にとって最も有力な援助だった。1938年初め、中国空軍は3飛行大隊を編制。うち規模最大の第1飛行大隊と第3飛行大隊は旧ソ連の提供した飛行機と武器装備の下で編制され、第2飛行大隊の装備は米英、仏、イタリアが提供したものだ。また中国軍創設史上、最初の機械化師団は旧ソ連の提供した軍事装備を基礎に編制された。1938年春、国民党軍は徐州で展開した対日作戦に惨敗し、砲兵は極めて大きな損害を被った。その後、旧ソ連の援助を受けて再建されている。

旧ソ連の武器と装備は抗日戦争で極めて大きな役割を果たした。中国空軍は旧ソ連製戦闘機を利用し、旧ソ連兵と共に南京、重慶、武漢、蘭州、西安、成都などの重大な戦闘で戦果を上げた。

中国人民の抗日闘争を援助するため、旧ソ連の志願パイロットも対日作戦に参加している。1937年12月1日、志願パイロットの第1陣は南京に到着するとすぐさま、日本空軍と激戦を展開。南京と武漢の防衛戦では、中国空軍と共に日本空軍に大打撃を与えた。

1938年2月23日、旧ソ連パイロットは台湾に遠征。日本の空軍基地に打撃を与え、敵機40機を撃破したほか、軍艦を数隻撃沈させた。統計によると、1940年までに日本軍が中国で失った飛行機は986機に上る。

抗日戦争に参戦した旧ソ連のパイロットと技術者は700人に達し、うち236人が犠牲となった。武漢の解放公園に建っている旧ソ連空軍烈士記念碑は、中国人民が彼らを永遠に記念し、深い敬意を表すために築かれたものだ。

1937年秋〜1942年、一部の軍事専門家と志願兵はソ独戦争の勃発で本国に引き揚げたが、計5000人が抗日戦争の前線で勇敢に戦った。

1945年5月上旬、第二次世界大戦が終結した。旧ソ連と米英の3カ国首脳は日本の降伏を促す『ポツダム宣言』を発表。日本政府が公然と拒絶したため、同盟国は日本に対し最後の一戦を決定した。米国は8月6日と9日、広島と長崎に原子爆弾を投下し、8月8日には旧ソ連が日本に宣戦布告した。

4月以降、旧ソ連は中国東北地方の国境地帯に約150万人の軍隊、大炮26000門、戦車5500台、飛行機約5000機を集結させた。8月9日零時10分、旧ソ連極東軍は日本に電撃的な攻撃を開始。バイカル方面軍、極東第1方面軍と極東第2方面軍は中ソ国境を越えて、東と西、北から同時に日本の関東軍に猛攻撃を仕掛けると同時に、太平洋艦隊も前後して朝鮮北部と千島列島に上陸し、日本軍を敗退させた。8月14日、日本政府は正式に無条件投降を宣言。旧ソ連空軍の小分隊が次々と東北地方と朝鮮北部の主要都市に降下すると共に、瀋陽空港で満州傀儡政権の溥儀皇帝を拘留した。旧ソ連軍先遣部隊は前後してチチハル、瀋陽、ハルビン、長春、旅順と朝鮮北部及びサハリン島南部、千島列島を占領した。

この戦闘で、日本軍は8万3000人の犠牲者を出し、59万4000人が捕虜となった。旧ソ連軍の統計によると、旧ソ連軍の死傷者は3万2000人に上る。