2005 No.33
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日本の戦争遺児の運命

何華

60年前の血色に染まった黄昏を思い出すと、内蒙古自治区通遼市の人民代表大会常務委員会副主任を務める日本の遺児、鳥雲さんは今でも恐怖を感じるという。当時、彼女は8歳。日本名は立花美珠と言った。母親は数人の姉と弟などを連れ、他の日本人家族と共に敗退した日本軍に従って逃走していた。

「全員、自殺だ、子供も残してはならん」。1945年8月11日の夕方。千人ほどの隊列が内蒙古ウランハト地区の格根廟まで逃れて来た時、日本軍指揮官の命令を受けた軍人がこう叫びながら、軍刀で自らの腹を刺し、一部の軍人は自殺する前に、群集に手榴弾を投げたり、刀や銃で自殺を望まない人々を殺したりした。立花美珠の2人の弟は日本軍が乱射した銃で命を落とし、母親は1歳にもならない妹を刺し殺すると、彼女をつかまえようとした。しかし、彼女は恐れを感じてさっと駆け出して行った。数十メートル走ったところで振り返ると、母親は鋭い刃物を胸に刺し自殺していた。こうして、立花美珠は日本人遺児となった。

日本人遺児とは、1945年に日本が敗戦し投降した後、日本軍が撤退し、また捕虜が送還された時に中国に遺棄され、中国人に育てられて成人した日本人孤児のこと。

中国人研究者によると、その数は4000人以上に上り、90%が東北地方の3省と内蒙古自治区に集中している。

現在までに日本によって確認された戦争遺児は約2800人。中日国交正常化後、大半の遺児は相次いで日本に戻っているが、様々な原因で中国に留まった人も少数だがいる。

中国人の家庭で成人

鳥雲さんはこう語った。「あの日の夜、私は重なった死人の中から這い出し、飢えで少しの力も出なかったのですが、廟の西側の橋まで何とか這って行きました。すると、2人の中国人のおじいさんがやって来ましたが、日本語が分からないので、私の頭を撫でたり、胸を打ったりして、西の方を指差したのです。私は、怖がらないで、一緒に着いて来なさい、と言っているのだな、と思ったのです」

2人の老人は心の優しい農民に彼女をあずけた。この農民が鳥雲さんの最初の養父だ。鳥さんは「姓は張だったと思います。子供が4人いて、生活は苦しかったのですが、できるだけのことをして、育ててくれました。1年後、もう少し良い生活をさせようと、経済的に恵まれた家庭にあずけてくれたのです。これぐらいしか覚えていませんね」と話す。

内蒙古には蒙古族と漢族が共に生活している。第2の養父は蒙古族、養母は漢族で、子供はいなかった。蒙古族の名を取って彼女を鳥雲と名づけ、自分の子供のように可愛がった。家にある物を売り払って、彼女を大学まで出した。その時代、大学進学は非常に大変なことだった。

鳥雲さんは1957年に大学を卒業すると、中学の教師に。翌年結婚し、2人の子の母親となった。

彼女は第2次大戦後に中国に残された数多くの日本人遺児の1人に過ぎない。戦後の経済的に極めて貧しい中、数多くの中国の庶民が病や飢えにあった数千人の日本人遺児を受け入れた。数十年の間に彼らは成人した。

ハルビンに住む郭永勝と馬鳳琴夫妻。すでに2人の子供があり、生活は貧しかったが、1945年に1人の日本人少女を受け入れ、郭新華と名づけて自分の娘として扶養した。後に5人の娘が生まれて10人家族となったが、郭さん夫婦は重い負担を背負いながらも、彼女を成人まで育て上げた。

長年、新華さんはいつも新しい洋服を着せられていたが、妹たちはお古だった。

一番上の息子、郭建民さんが1955年に小学校を卒業。馬鳳琴さんは涙を流しながら息子に言い聞かせた。「学校はもういいだろう。家は貧しいし、姉さんだけに進学させてあげよう」

建民さんは60年代に入隊。しかし、父母が日本人の子供を扶養していたことから昇進に影響が出た。このことを知った新華さんは、母親に抱きついて激しく泣いた。母親は「母さんはすべきことをしただけさ」と慰めてくれたという。

李淑賢さんも、日本の侵略者に深く傷つけられた女性だが、日本軍が敗戦した時に女の子を引き取った。

日本軍が東北地方を占領した1943年のある日。身ごもっていた李さんは、卵の入った籠を下げて長春の日本人居住区まで売りに出かけた。そこで日本の警察に腹部を激しく足蹴にされ、流産してしまう。李さんは子供の産めない体になってしまった。

しかし1945年8月、夫婦は日本人に見捨てられた女の子を引き取って、育て始めた。「日本人は鬼として憎んでいたけれど、飢えて骨と皮だけになった幼子を見ると、本当に心が痛んで。私たちが世話をしていなけりゃ、死んでいただろうね」と李さんは話す。

2人は徐桂蘭と名づけて育て上げ、彼女は家庭を持つことができた。徐さんは2人の子供をもうけ、李さんもまた孫娘を生まれた時から嫁に行くまで面倒を見た。

大半は日本に帰国

1972年、中日両国の国交が回復されると、多くの遺児が日本にいる親戚を探し出し、日本に帰国して定住した。今年1月現在までに、2485人の遺児が親族を連れ、計9000人余りが日本に戻っている。

日本への帰国と定住は、遺児自身と遺児を養育した家庭にとって、喜ぶことであると同時に、また別離を伴う苦しみでもあった。

1985年4月、馬鳳琴さんは中日両国政府が日本の遺児を探しているニュースを新聞で知った。娘の郭新華さんに「帰国したら」と告げると、彼女は泣きながら叫んだ。「帰りません。自分が日本人であることは覚えていません。あなたがお母さんです」

当時、中国の生活は貧しかった。養父母は新華さんを行かせたくはなかったが、子供たちが良い生活を送れればと、何度も娘を説得。新華さんはついに同意した。

1987年の秋。東京での生活が安定したばかりの時、彼女は父母に日本に会いに来させることにした。父親の郭永勝さんは体調が悪くて来られなかったが、母親の馬鳳琴は日本に来て娘と再会することができた。

1988年、父親の病が悪化すると、新華さんは急いで中国に飛び、4カ月の間、横になったままの郭永勝さんをずっと看病した。臨終の際、郭永勝さんは娘の手を取ってこう言った。「新華は一番良い娘だ」郭新華さんの様に、大半の遺児は帰国後、養父母や中国にいる兄弟姉妹、親友と連絡を取り合って心の深い緊密な関係を保っている。

1999年8月21日、1450人の日本の遺児が自ら募金し建てた「中国の養父母に感謝する碑」が瀋陽に完成した。碑は、ほぼ等身大の1組の中国人夫妻が日本の遺児を連れた姿を表現した銅像。台座の正面に「中国の養父母に感謝する記念の彫像」と刻されている。碑文は中国語と日本語で「日中両国の長期にわたる平和と友好を心より願うとともに、中国の養父母に対し誠を尽くすことを伝えたい。中国の養父母の偉大な精神と崇高な事跡を永遠に称えるため、後世の人に誠を告げて同じ歴史の轍を踏まぬようにするため、ここにこの碑を建てる」と記している。

しかし、日本に帰国しても、中国の親戚と連絡を取るのが少なくなった遺児もいる。晩年を迎えるようになった養父母にとって、とくに1人の遺児しか育てられなかった老人にとって、非常に悲しいことだ。

中国に留まった遺児

鳥雲さんは1980年、兄の立花甫さんが広島に住んでいるのを突き止めた。その後、日本に住むようになったが、5カ月が過ぎた頃、鳥雲さんは兄に「日本の永住権と日本国籍を放棄して、中国に戻って定住し、成人するまで育て上げてくれた中国の母と一緒に過ごしたい」と告げた。当時、養父と夫はすでに他界し、2人の子供がいた。

「私がどんな風に生きてきたのか、生涯にわたって忘れることはできないでしょう。中国に戻ってこそ、私の気持ちは満たされるし、愉しくなる」と鳥雲さん。

彼女と子供たちは今も80歳になる養母と一緒に暮らしている。

今年60歳になる于徳水さんも、戦争遺児の1人。吉林省長春市に住んでいる。生まれて6カ月の時に日本軍は投降し、2カ月後に母親を失くした。父親は帰国する際に彼を農民にあずけた。満2歳にもなっていなかった。

1986年、日本政府は于さんの日本定住を認めたが、養父母が80近くになっていたことを考え、帰国しなかった。2人が亡くなった後の1992年、家族を連れて日本に。しかし日本にいても、いつも幼いころ生活した中国のことを思い出していた。3年後、妻と孫を連れて長春に戻った。于さんは今、機械の加工工場を経営。生活は穏やかで、幸せに暮らしている。

「日本が起こしたあの侵略戦争は、中国人に苦難をもたらしただけでなく、夥しい数の日本人もまた被害者となった」。于徳水さんは回顧録を執筆中だ。中国の父母に捧げるとともに、世の人に平和を希求するよう訴えたい。于さんは言う。