2005 No.33
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世界反ファシズム協力の歴史的経験

陳湘安

第二次世界大戦においては、国際連盟と国際連合が日本ファシズムを打破するまでの過程で極めて大きな役割を果たした。世界反ファシズム統一戦線の結成と発展を振り返り、歴史的経験を総括することは、将来の国際社会が新たな戦争の危険性を抑制し、世界の平和的発展を維持する上で重要かつ現実的な意義を持っている。

1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告すると、米英両国も日本に宣戦した。8日〜10日、中国やオーストラリア、カナダ、オランダ、キューバなども日独伊に宣戦。11日には独伊と米国が共に宣戦したことで、世界は侵略と反侵略との二大陣営に分裂する。

抗日戦争の前夜、中国共産党は中米英ソが連合国軍を結成することを提案。その後、中国政府は中米英などが共同で日本に抵抗することを提唱した。中国共産党はまた延安で東方各民族反ファシズム大同盟を発足させた。中国の抗日戦争によって実質的に形成された初期の反日ファシズム統一戦線は、世界反ファシズム統一戦線の結成を促進する上で積極的な役割を果たした。

しかし、第二次世界大戦の最初の段階では、西側の大国が対日融和政策を取っていたため、日本は侵略の野心をますます膨らませ、第二次世界大戦勃発の最初の震源地となった。1941年12月、日本は真珠湾を急襲し、続いてシンガポールや香港、ビルマなどに進攻した。1942年1月1日、中米英ソなど26カ国は「連合国宣言」に調印。世界反ファシズム統一戦線が正式に形成されたことで、中国が長年にわたり一国で日本の侵略者に抵抗してきたそれまでの局面に終止符が打たれた。

中米英などは連合国結成後、協議を経て中国戦区を設立するとともに、中国政府軍事委員会委員長の蒋介石が最高司令官に就任し、重慶には連合国計画参謀部を設置し、スティルウェル中将が米政府に派遣されて参謀長に就いた。同時に中国・ビルマ・インド戦区の米軍総司令官、東南アジア戦区の副総司令官(総司令官は英海軍のマウントバッテン提督)となった。米国の対中援助物資と戦闘員も中国戦区に送り込まれるようになった。

連合国の結成前、1937年の「盧溝橋事変」(1937年7月7日夜、日本軍は兵士の一人が行方不明になったことを口実に、北京南西部にある宛平城に進入し、城内の捜索を要求した。中国軍がこの根拠のない要求を断ると、日本軍は盧溝橋を砲撃し、城内の中国守備隊に向け進撃した。守備に当たっていた29軍の吉星文部隊が反撃したことで、中国全人民による抗日戦争が幕を開けた)から1939年の第二次世界大戦の勃発に至るまで、ソ連は中国にとって主要な借款供与国であり、中国におびただしい数の航空機・大砲・戦車などの軍事装備を提供した。約4年間に中国が受けた援助物資と人的支援のほとんどはソ連から提供されたものである。

連合国の結成後、米英はともに対中援助を増大させた。米国が中国に提供した5億ドルの借款は中国が受けた最大の借款となった。英国は中国に5000万香港ドルの借款供与を承諾したが、後に引き延ばし、抗日戦争が終結しても支払うことはなかった。

抗日戦争中に中国政府が米国から受けた援助額は累計8億4000万ドル。作戦装備の航空機を例にすると、中国が購入した航空機2351機のうち、米国からが59%、ソ連が37.6%を占めた。米英両国がヨーロッパの戦場を戦略の中心とし、作戦物資・装備もヨーロッパにおける戦争の必要性を優先させていたため、英ソなどが受けた援助額に比べ、中国の占める割合はかなり小さい。米国の対外援助を例に挙げると、総額485億ドルのうち、英国は63.7%、ソ連が22.7%であったのに対し、中国はわずか1.8%に過ぎない。絶対的数字から見ると、中国が受けた援助は総額8億4000万ドルであったが、ソ連は中国の13倍の108億ドルにのぼる。中国は日本に侵略された期間が最も長く、被害も最も大きかったが、外国から受けた援助は最も少ない。中国は自らの力に依存して長期にわたる困難に満ちた抗日戦争を進め、世界の反ファシズム戦争に極めて大きな貢献をした。そうではあっても、国際援助は中国人民の抗日闘争に力強い支援を与えたと言えよう。

国際協力によって、中国は列強に強いられてきたさまざまな不平等条約を廃止することができた。不平等条約を廃止することは近代以降、中国の各階層の愛国勢力が待ち望んでいたものであったが、列強は一貫して中国に対する特権を放棄しようとはしなかった。中国人民は抗日戦争において世界人民から尊重され、国際的地位も向上した。同時に、日本のアジア拡張が米英の権益を脅かすようになったため、各国は中国が日本の主力部隊に抵抗し牽制することを期待するとともに、不平等条約を廃止することで対中関係を調整することにも同意した。1942年8月、米英両国は不平等条約廃止と新条約制定の交渉準備作業に着手。数カ月にわたる交渉を経て、英国が香港返還を拒否した以外、1943年1月11日には中米、中英間の新条約がそれぞれワシントンと重慶で調印された。5月20日に交換文書が批准されて発効。中国に対する特権を享受していた一部の国も相次いで平等条約を締結した。

不平等条約廃止の問題が解決されたことで中国の国際的地位は向上し、中国人民は近代以来の屈辱外交から脱却し一応の勝利を収めた。

1943年10月19日〜12月1日、米英ソ三カ国の外相、中米英三カ国の首脳、米英ソ三カ国の首脳は相前後して、軍事的戦略の協調を図るとともに、連合国間の協力を強化するため、モスクワ会談やカイロ会談、テヘラン会談を開いた。モスクワ外相会議の終了後、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は蒋介石に共に対日作戦計画について協議するよう要請。1943年11月22日、三カ国首脳はカイロで会議を開き、「カイロ宣言」に調印した。宣言の主な宗旨は、日本が太平洋において奪取し又は占領したすべての島嶼を剥奪する、東北地方、台湾及び澎湖島などの領土を中国に返還する、武力により略取した他のすべての土地から日本を駆逐することである。カイロ会議は第二次世界大戦中に行われた連合国首脳会議の中で中国が参加した唯一の会議であり、一致団結して日本ファシズムを打破するという国際反ファシズム勢力の決心と意志をはっきりと示すものとなった。

1945年の春、世界の反ファシズムの戦場は最後の勝利へと近づいていく。2月4日〜11日、ソ米英三カ国の首脳はヤルタで会談を開き、ヨーロッパの戦後処理と対日最終作戦計画について協議。ヤルタ会談では、モンゴル人民共和国と中国東北などの問題に関し、中国の主権を犠牲にしてまでソ連の対日参戦が合意された。しかも、四大加盟国の一つである中国代表が出席していない中、中国の主権と利益に関する協定が調印されたのである。これは少数の大国が世界を支配し、強権政治を遂行しようとする大国主義の姿勢であった。そうではあっても、ヤルタ会談の成果は大きい。連合国最後の戦略行動の協調を図り、世界反ファシズム戦争の早期終結に重要かつ促進的な役割を果たしたからである。

7月17日〜8月2日、ソ米英三カ国の首脳はポツダムで会談を開き、対日作戦や戦後処理などを主要な議題として討議した。日本政府が公然と「ポツダム宣言」受諾を拒否すると、米国は8月6日と9日に広島と長崎に原爆を投下した。8月8日、ソ連は対日宣戦を布告。中国の東北地方に軍隊を出動させて一挙に日本関東軍をせん滅し、日本の降伏を速めた。同時に、中国軍は敵の後方において全面的な大反撃を展開。8月15日、裕仁天皇は「終戦詔書」を読み上げ、無条件降伏を宣言した。

9月2日、日本の降伏文書の調印式が東京湾に停泊中の米国戦艦「ミズーリ」号上で行われた。これによって、日本軍国主義の徹底的な失敗と世界の反ファシズム戦争最後の勝利が宣言された。9月9日、中国戦区においては、日本軍降伏文書の調印式が南京国民党政府の中央軍事学校大講堂で行われた。中国戦区で投降した日本軍は累計128万3000人、傀儡軍は146万人、補獲した大砲は1万2000門、戦車・装甲車は534台、航空機は1068機、艦艇は1400隻。中国人民が血を流し奮戦した八年にわたる抗日戦争は、ついに最後の勝利を収めた。

抗日戦争中、長期にわたり中国人民はあくまでも抗戦し続け、150万人余りの日本軍をせん滅し、日本侵略軍に打ち勝つ決定的な勢力であった。中国の戦場はアジア・太平洋地域における日本ファシズムに反対する主戦場でもあった。中華民族が存亡の瀬戸際に立たされた時、ソ連政府と人民は時を移さず道義、物資面から中国に大きな支援を提供してくれた。続いて、米国も世界反ファシズム戦争の戦略的必要性から、中国人民に大量の物資や人的援助を与えてくれた。中米ソなど世界のファシズムに反対する連合国間の相互援助と協力は、日本軍の侵略に抵抗する闘争において極めて大きな役割を果たし、日本ファシズムの滅亡を加速させ、世界反ファシズム戦争の勝利と人類平和の擁護に歴史的な貢献をしたと言えよう。