2005 No.34
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>> 抗日戦争勝利60周年記念

「平型関作戦」と「百団大戦」

中国人民抗日戦争記念館館員 潘玉梅

1937年の「蘆溝橋」事変は、日本帝国主義が全面的に中国を侵略し、中華民族が抗日戦争を展開する序幕となった。

日本軍の全面的中国侵略は、国共合作による全国的抗日民族統一戦線の結成を促した。中国共産党は民族の利益を大切にすることから出発して、一連の政治主張を打ち出すと同時に、関軍を国民革命軍第八路軍に改編した。

八路軍は中国共産党の指導の下に、長い抗日戦争の期間、日本軍と不とう不屈の闘争を展開し、多くの勝利をかちとった。「平型関作戦」と「百団大戦」が、数多くの勝利のなかの典型的な作戦であった。

日本軍は北平、天津を占領したのち、華北地区への大規模進攻を意図した。1937年9月、日本軍第5師団は山西省の渾源、霊丘に向けて進攻し、平型関・茹越口の要衝を突破しようとした。

八路軍第115師団は、山西省東北の抗日前線に転戦せよとの命令を受け、林彪、聶栄臻の指導の下に、平型関以西の大営鎮に移動し、侵攻してくる敵を迎え撃つ準備を整えていた。平型関のふもとから霊丘県東河南鎮までの間には、西南から東北へと伸びる峡谷がある。この峡谷は深く、狭く、険しく、敵軍を待ち伏せするにはもってこいの場所だった。八路軍本部は9月23日、第115師団に、平型関、霊丘の間に出動して、敵を側面から攻撃せよとの命令を下した。作戦の奇襲効果をあげるため、各部隊は秘密裏に行動し、夜間雨をおかして待ち伏せ陣地に入り、25日払暁、すべての作戦準備を完了した。

明け方、日本軍第5師団第21旅団の一部と大量の軍需品を積んだ車両が、霊丘から平型関までの道路に沿って西へ進み、7時ごろ、その全部が待ち伏せ地帯に入った。道路が狭く、雨あがりのぬかるみのため、車両、人、馬がおしあいへしあいし、行動がにぶった。八路軍第115師団はこの有利な戦機をしっかりつかんで、敵軍に一斉射撃を加え、敵の混乱につけ入って突撃し、多くの死傷者を出させた。敵は重大な損害を被りながらも、優勢な火力をたよりに抵抗したが、いずれも撃退された。日本軍第5師団長の板垣征四郎は、尉県、?源に駐屯している日本軍に、平型関を救援するよう命じたが、救援軍は霊丘の東北地区で、第115師団独立連隊、騎兵大隊に進撃を阻止された。

この激戦は午後1時まで続き、第115師団は日本軍の精鋭、第5師団第21旅団の千余人をせん滅し、小銃千梃余り、機関銃20梃余りを捕獲するとともに、自動車百台余り、馬車200両余りを破壊し、全面的抗日戦争の開始以来、はじめてせん滅戦の勝利をかちとった。この勝利は、「日本軍は不敗」という神話を打ち破り、全中国人民に中華民族の希望を見てとらせ、戦争に勝てるという全国人民の自信を強めた。

日本軍は1940年、次々と華北に増兵し、各抗日根拠地を立て続けに掃蕩した。日本軍は、「治安粛正」計画の推進に力を入れ、華北の抗日根拠地を徹底的に粉砕し、占領地域を固めようとした。こうした情勢の下に、八路軍本部は、晋察冀軍区、晋綏軍区、晋冀魯豫地区の部隊を統一指揮して、正太(正定=太原)鉄道を重点とする華北の主要交通沿線で大規模進攻作戦を行った。この戦闘には105の団(連隊)が参加したことから、史上「百団大戦」と呼ばれている。

八路軍本部は7月22日、「作戦準備命令」を下すとともに、それを党軍事委員会に報告した。8月8日、「作戦行動命令」が下された。同作戦は八路軍本部が直接指揮することになり、8月20日から全面的進攻が開始された。戦闘はまず正太線沿線から開始され、のちに、華北地区と主要な交通路線へと急速に広がった。これらの地区には、日本軍の3個師団と二つの師団の2個連隊、五つの独立混成旅団、四つの混成旅団の各2個大隊、一つの騎兵旅団の2個大隊が駐屯し、その全兵力は20万人を超えた。そのほかに150機の飛行機とかいらい軍15万人がいた。

八路軍の参戦兵力は、晋察冀軍区の39個連隊、第120師団の20個連隊、第129師団の46個連隊、計105個連隊、20余万人であった。そのほか、地方ゲリラと民兵が参加した。

作戦は主に三つの段階に分けられた。まず、最初の10日間は、晋察冀軍区の第129師団が主に正太線沿線の敵軍を攻撃した。あとの10日間は、日本軍が反撃を展開し、八路軍は正太線沿線から撤退し、晋察冀軍区の部隊は正太線以北の孟県地区に進出し、第129師団は「掃蕩」中の日本軍を攻撃し、第120師団は晋西北で協力作戦を行った。第2段階では、晋察冀軍区の部隊は主に?霊作戦を行い、第129師団は主に楡遼作戦を行い、第120師団は主に同蒲鉄道沿線の敵軍を攻撃した。第3段階では、八路軍本部は「反掃蕩」作戦命令(晋東南の反「掃蕩」、晋察冀辺区の反「掃蕩」、晋西北の反「掃蕩」を含む)を下した。

百団大戦は1940年8月20日に始まり、1941年1月24日に終わるまで、5カ月以上にわたった。8月20日から12月5日までの3カ月半だけで、大小さまざまな戦闘が1824回も行われ、日本軍は2万645人、かいらい軍は5155人の死傷者を出し、日本軍281人、かいらい軍1万8407人が捕虜となり、日本軍47人が降伏し、かいらい軍1845人が寝返った。鉄道474キロ、道路1502キロ、橋梁・トンネル・駅260カ所が破壊され、523カ所のトーチカが爆破され、大砲53問、小銃5800梃を捕獲した。この戦役で、八路軍は死傷者1万7000余人を出した。