2005 No.35
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――世界に映画が誕生して10年目を迎えた1905年、中国初の映画が撮影された。それから100年、中国人が撮った映画は7000本余りに上る。時代の異なる優秀な作品は、中国人の生活と精神世界に大きな影響を与えた。

中国映画はかつて世に誇り、一方で苦境に立たされた時代もある。映画は長期にわたり一般庶民にとって最も基本的な娯楽だった。いつだったか、ピーク時には年間観客動員数が延べ300億人に達した。この数年来、観客数は減少を続けているが、中国映画は再び拍手喝采の中に戻り始めている。市場と芸術の規律に徐々に適合した運営メカニズム、世界と連係した数多くの国際協力プロジェクト、年内に公布が予定される『映画促進法』……。これらは中国映画の将来を暗示するものだ。

百歳、これは新たな出発点にすぎないと言うべきだろう。

中国映画100年の歩み

唐元カイ

「ついに黒字に転じた。これで百年の古い歴史ある映画館に申し訳が立つ」。昨年12月に映画館、大観楼の第12代社長に就任した王占友氏はほっと一息つく。王氏は6月に閉館して大規模な修築を行うことを決定。その目的は、中国映画生誕百年のためでもあるが、入場料値上げが視野にあるのももちろんだ。

大観楼は1903年に開館した。初代社長は任慶泰。自費で日本に行き撮影などの新技術を学んだ時代の先駆者で、百年前に出資して中国初の映画『定軍山』を撮った。

任慶泰は今日のインターネット創業者のように絶えず、新技術のために営利モデルや「持続可能な発展」戦略を模索し続けた。「国情や民俗と隔たりのある」外国の短編映画が、10年近くの映画観賞経験をもつ中国人観客が当初抱いた新鮮な感じを失わせた、と敏感に感じとった任慶泰は、当時最も流行っていた芸術である京劇に注視し、京劇界の最高峰、今でいう“映画の帝王”クラスの人物だった譚?培にわざわざ『定軍山』の出演を依頼した。入場料をはっきり意識していたのは確かだ。同名の京劇の数段を単に記録した無声映画にすぎなかったが、これが大うけし、大観楼内では何も聞こえはしないが、画面の中の譚?培の動作、口形に観客は熱狂したという。

中国映画はその開始時から自国の最も精髄を集めた芸術形式と融合し、“舶来品”もたちまち国産的な味わいのあるものとなっていった。その後、多くの映画人は民族の伝統と文化の真髄を吸収することにその霊感の源泉を求め、それが自覚的な使命となった。

群雄活躍の“少年時代”

不幸にも1909年、大火災で『定軍山』のフィルムは行方知れずとなった。この時の中国は人口が4億で、世界最大の映画市場と見られ始めていた。

ロシア系米国人のベンジャミン・ブロッドスキーが上海に中国初の映画会社、亜細亜影戯公司を設立。早期の中国映画を代表する人物、張石川と鄭正秋は同公司からの資金と設備の提供を受けて映画の道を歩み出していった。

彼らが脚本と監督を担当した映画『難しい夫、難しい妻』は「中国初の劇映画」とされている。当時は男女が一緒に演技できなかったため、女性役は男性が演じた。だが、それから1年も経たないうち、この“タブー”は打破された。「山を切り開いた作品」と評価された香港映画『荘子、妻を試す』に、中国初の女優として厳珊珊が出演したからだ。この作品はロッドスキーによって米国で紹介され、外国で放映された早期の中国映画となった。

1923年。10年余りの経験をすでにもつ中国映画は依然として自らの道を見いだせず、西側の映画を模倣したものが数多く、より中国の観客に合った味わいのある映画を撮ることが、全ての映画関係者が直面する共通の難題だった。まさにこの年、鄭正秋と張石川が脚本、監督を担当した『孤児の祖先救済記』が早期中国映画の一里塚を築く。多くの人が映画館に足を運び、涙しながら観賞したという。親の情と骨肉の別れを描いたこの映画のモチーフは、いま観ても非常に“中国的”。中国の悠久の歴史や伝統や文化の伝承と、それを観賞し受け入れる観客の習慣とが呼応し合ったからだ。

スターが“金のなる木”であったことも容易に見て取れる。新中国建国の1949年以前、入場料で“神話”を創造した映画が4本ある。いずれも当時のスターが演じていた。だが、監督の働きも突出している。鄭正秋が脚本・監督した家庭の倫理観を描いた映画『姉妹花』。100本が同時に市場に投入された上海では連続67日の上映を記録した。さらに『漁光曲』や『一江の春水、東に向け流れる』。この作品の監督は蔡楚正と言い、鄭正秋の弟子である。

漁民の家庭の悲惨な運命を描いた『漁光曲』は、連続80日の上映。1935年のモスクワ国際映画祭で栄誉賞を受賞し、国際大賞に輝いた中国初の劇映画となった。『一江の春水、東に向け流れる』は1947年に3カ月連続して上映された。観客の心理の研究と理解に長けた蔡楚正が、ある家庭の悲劇を幅広い時代を背景に表現した作品だ。

中国映画は1930年代から“群雄の時代”を迎えたと言えるだろう。多くの才人が映画界に入ったことで、中国映画はその文化的、芸術的方向を転換していく。

映画人は自国の伝統を切り開いて継承したほか、外国の先進的経験を学び、理解し、参考にしようと尽力した。米国ハリウッドの技術やソ連のモンタージュ理論は彼らに重大な影響を及ぼしている。監督の呉永鋼らはドイツの表現主義やフランスのパイオニア的手法を純粋な東洋の風格と融合。呉永鋼が監督した1934年の処女作、下層に暮らす妓女の苦難の生活と母性愛を描いた『神の女』は、「中国無声映画の最高峰」と最大の評価を得た。

1937年に全面的に抗日戦争が勃発すると同時に、中国映画界も混迷し、映画芸術もまた“愛国”と“亡国救済”という民族の重要な任務を背負うことになる。ここで一筆するに値するのは、抗日と亡国救済をテーマにした映画『風雲の子供』のテーマ曲「義勇軍行進曲」が後に中華人民共和国の国歌となったことだ。

17年間の“青春時代”

1949〜1966年の17年間、新生共和国の活気と活力、創造の追求と革命の激情がスクリーンに投射されるようになり、中国映画に強烈な時代の息吹が吹き込まれた。国営映画制作所に生活する映画人たちは絶え間ない政治運動と様々な観念上の衝突、闘争などを経験しながらも、時代に恥じない斬新な映画を撮ることを強く渇望していた。実際に制作された“非常に時代的”で、“非常に中国的”で、文化や芸術的要素に欠けない一部の代表的な作品は、物質的疲弊した時代にあって、多くの人々に精神的な力を与えた。数十年後の今日でも、多くの映画は依然として当時の古い観客を感激させてやまない。

1962年に「百花斉放」の意義を汲んで、中国映画界に「百花賞」が設けられた。優秀な作品や監督を一般観客の投票で選出する賞だ。12万票を集めて『紅色娘子軍』が第1回百花賞の優秀作品賞、監督賞、主演女優賞、主演男優賞の4つの大賞を獲得。後に同映画はバレエ化、京劇化され、「文化大革命」期間(1966〜1976年)に「模範劇」となったが、原作映画はむしろ“毒草”とされてしまった。「ブルジョア階級の人間性論」を宣伝したことが、その“罪状”の1つだ。多くの映画も同様の不遇に見舞われた。女性主人公が男性主人公を愛した、女性主人公が自分の父親を愛した、というのが理由だった。

改革を伴った“壮年時代”

10年続いた「文化大革命」が収束した際、中国の映画人が直面していた問題は、廃墟の上にいかに文化という高地を築くかということだった。彼らの作品は“新時代”とともに絶えず突破口を開いていく。

1980年に上映された『廬山の恋』はAFP通信から「中国映画と流行の新たな方向性を代表するもの」と評価された。実際、同映画には突破口を開いたものそれほどなかったが、当時の渇き切った観客からすれば、まさに“豪華な食事”だった。華僑の女性主人公がまるで走馬灯のように高山で数十着も服を着替えるからだ。

服装以外に、『廬山の恋』が全国を突き動かしたのは、接吻だった。水着を着て一緒に泳ぐ若い女性が青年に「あなたは本当におバカさんよ、おバカさんでも可愛いわ」とささやき、大胆な表情を見せる。だが女性は男性の頬に軽く唇をあてただけだった。30〜40年代の映画ではキスシーンは比較的よく見られたが、1949年以降は『廬山の恋』までほぼスクリーンから消えてしまう。

1986年に謝晋監督の『芙蓉鎮』が中国映画で最長のキスシーンを記録した。時間は4分23秒。再び物議を呼んだものの、すでにそれを受ける時代的雰囲気があった。

旧世代の代表として、謝晋監督は80年代に創作の絶頂期を迎え、中華民族の曲折した過程を反映した何本かの代表作は何度も社会を風靡し、延べ1億7000万人の観客動員数を記録。上海戯劇学院院長を務めた著名な文化評論家である余秋雨氏は「謝晋監督を論ずるのはそう簡単なことではない。早くから、当代中国人集団の審美形成の過程で重要な位置を占めていたからだ」と話す。

だが、謝晋監督が最も活躍していたころ、新世代(理論家は「第5世代」と呼ぶ)が中国映画数十年来の、「謝晋モデル」を含めた固有のモデルに風穴を開けることに躍起になるなど、「革命」を醸成しつつあった。その震源地となったのが、北京映画学院だ。「われわれの教師はわれわれの教師を打ち倒すよう主張していた」。1978年に同学院に入学した陳凱歌氏はこう回顧する。32歳の1984年、陳氏は処女作『黄色い大地』を発表。“造反の味わい”を確かに帯びた、民族性を発掘しようと試みた叙事詩だ。

これより前、『黄色い大地』で撮影を担当した張芸謀氏が、「抗日戦争」をテーマにした「タイプの異なる」映画『一つと八つ』を制作している。「ありふれたものであってはいけない。徹頭徹尾、他と違ったものでなければダメだ」。ロケ現場で、張氏は青ざめた顔で常にこう叫んでいたという。

瞬く間に、第5世代は反逆する“児童”から“壮年”へと成長していった。国際映画祭で数々の賞に輝いた彼らは現在も活躍している。

長年にわたり、映画人は国有映画制作所に抱えられ衣食の問題で悩むことはなかったが、第5世代には、後の世代を羨望させ、ひいては嫉妬させるといった“時代的優越性”があった。彼らは望みさえすれば、入場料収入などを全く気にすることなく、芸術性と個性に完全に徹することができるからだ。90年代初期以降、商業的な制作を最も忌み嫌うプロデューサーも、市場から投下資本を回収できない状況下では映画制作への投資ができなくなり、自己の職業を最も敬愛する映画人も、自らの作品を望む観客と出会えない状況の下で仕事が継続できなくなっていた。この数年来の映画体制をめぐる改革の進展は、市場中心に映画産業を発展させていくとの政府主管機関の強い意思を示すものでもある。国有映画制作所や映画会社はもはや国内唯一の映画制作・発行機関ではない。相当数の独立映画会社が競争に参与しているのが現状だ。

グローバル化を背景にした“ハーフ”

「1997年に中国で観客動員数最多を記録したのは『タイタニック号』だ。われわれは第2位だが、第1位に比べれば、その端数にすぎない」。芸瑪電影技術有限公司(IMAR)の米国人社長、ピーター・ロハー氏はこう話す。同社はその年、300万元(日本円で約3900万円)を投資して、現代都市に住む住民の情感と生活の断片を描いた『愛情の激辛スープ』(Spice・Love・Soup)を完成した。資金回収額は約3000万元。その年の観客動員数は国内第2位だった。

IMARは国有映画制作所の統合後、初めて設立された独立映画制作会社。当初は、西安映画制作所との合弁で合法的な地位を確保し、また『愛情の激辛スープ』は投資者とプロデューサーが外国人であったことから、“ハーフ”と呼ばれた。だが、大多数の観客はほとんどそんな事情は知らず、国産映画だと考えていた。

外資が大挙して進出するに伴い、一部の業界関係者は国産映画、民族映画がハリウッドなど多方面から脅威と挑戦を受けるのではないかと懸念を示している。だが、「ハーフ映画という合理的な組み合わせと、強みの相互補完という特徴は中国映画の発展にプラスだ」というのが多くの見方だ。実際、ここ数年の市場で優れた業績を上げた映画のほとんどは外国、または香港や台湾との合作映画である。大陸で最大の観客を動員した張芸謀監督の『英雄』、馮小剛監督の『大きな腕』にも外資が参入している。

これは当然、中国の映画人が期待している結果であり、また開放の進む傾向もまた「双方の利益」の将来を暗示していると言える。