2005 No.39
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大学教育は成功しているのか

――物理学者・楊振寧氏の見解が中国の教育の現状を再び見直すきっかけとなった。

先ごろ、有名な物理学者でノーベル物理学賞受賞者の楊振寧氏が「中国の大学は非常に成功している」と発言したことから、大学教育に関する問題が再び話題となっている。

実際、大学教育は従来から関心を集めてきた焦点となる問題でもあった。大学は多くの中国人にとってかなり多くのものを背負ってきた。ここ2、30年来、大学は数多くの子どもたちが入学を目指して10数年にわたり苦学する原動力となり、大学に、特に名門大学に合格することは、自身の運命を変え、より素晴らしい将来のために歩まなければならない道だと、多くの子どもや親は考えてきた。

関係機関によると現在、大学は約2000校あり、在校生は2000万人を超え、粗入学率は約19%。北京や上海のような大都市ではすでに普及段階に入って粗入学率は50%を超えており、合格率は70%以上に上る。高等教育はすでに少数者が入学するエリート段階から大衆化の段階へと向かいつつある、というのが関係者の多くの見方だ。

多くの人にとって、大学入学にかかる費用はかなりの支出となる。統計によると、全国の大学生1人平均学費は1995年の約800元から2004年には約5000元へと跳ね上がり、新設校なら6000元前後はかかる。宿舎使用料は1995年の約270元から、2004年には約1200元まで上昇した。1995年以降10年間の1人平均国民所得増は4倍未満。現在の1人平均国内総生産(GDP)は約7517元。6000元の学費(宿舎費を含む)が1人平均GDPに占める比率は79.82%であり、国際的には一般に同約20%であることから、中国の学費は割高だと言える。

近代的な大学運営が始まったのはかなり遅く、100余年の歴史しかない。欧州より6、700年も遅く、米国に比べても250年遅い。100余年の発展過程において、中国の大学は数え切れないほどの変遷を経てきた。設立当初は主に日本の大学の運営理念と教育体制を模範にしたが、日本の高等教育モデルは主に欧米から導入されたものだった。

大学は設立したばかりで、さらに中国の伝統教育思想の影響から、「教育は上層の構築」というのが1920年代、30年代の高等教育哲学の主流の一つとなった。50年代には旧ソ連の影響を受け、教育は上層の構築との観点が次第に中国の高等教育理論を主導する教育の本質観となっていく。6、70年代の「文化大革命」の間は「教育は階級闘争の道具」という論調が教育全体を主導し、教育に対して極めて一面的な理解を反映したものとなったため、教育事業、特に高等教育事業は極めて大きく損なわれてしまった。

改革・開放政策の実施以降、国の建設の中心となる任務が政治から経済へと転換するに伴い、教育は生産力との考え方がこの時期、高等教育理念に影響を与えた主要な思想となった。この時期には新たな科学技術の発展に適応した学校、専門課程が新設また再編成されて、経済建設に適した人材が数多く養成された。生産力説は高等教育を重視し、経済や科学技術と社会発展の機能を促進する上で重要な影響を与えた。80年代初期には『中華人民共和国学位条例』が公布され、大学院生募集制度が復活したことで、科学研究が大学の果たす重要な機能の1つとなった。

ここ数年来実施されてきた、また実施されている教育管理体制など一連の高等教育改革に対して、国内に疑問の声がしばしば上がるようになった。学費が世界一高いというほかに、高等教育の管理体制も一段と批判の的となっている。大学には人文学的精神が欠如している、一部知識人は道徳感を喪失している、学術的雰囲気が薄い、官僚主義的気風が濃厚である、はては研究成果を互いに剽窃している、一部指導者は業務に怠慢である、などといった批判だ。

このほか、学科の分類が非科学的であるため、学生は社会の要請に応じることができない、大学では行政機関のような管理が深刻であるため、学術的雰囲気が薄れている、計画性のない院生の募集拡大で、30人の院生を指導教官が1人で担当するなど……。

中国の大学は今日に至り、その得失と是非が大学に関心を寄せる人びとに議論されているが、物理学者・楊振寧氏の見解が中国の教育の現状を再び見直すきっかけとなった。

◆大学教育は成功

楊振寧氏:中国の大学は数多くの人材を育成してきたと考える。現在、世界には大学の責任に関して共通の認識がある。つまり、大学は若者を教育し、先端的研究を行い、社会に貢献するという3つの重任を担っていることだ。中国のある大学が世界的地位にあるかどうかを判断するには、この3点を考慮しなければならない。

若者の教育という視点から言えば、中国の大学は本科の教育で非常に成功していると思う。私は2004年に清華大学で1年生の物理を1学期教えたことがあるが、その前には米国でやはり1年生の物理を2回、授業したことがある。米国の学生に比べ、中国の学生は基礎がしっかりしており、学習態度も真面目で、より努力している。それは中国の大学生は高校時代に練習問題をよくこなし、注意力を集中させてきたからだ。これに反し、米国の学生は大きく遅れており、大学1年になっても将来設計は明確ではない。「サイン」や「コサイン」とは何かと聞くと、両国の学生はみな答えられるが、「三角方程式」については、中国の学生がすらすらと答えるのに対し、米国の学生は何を指しているのか分からない。これは中国が高校時代の基礎教育に成功していることを物語っている。

中国の大学が社会に大きな貢献をしていることは、大学が養成した人材が社会貢献をしている時に常々感じられるもので、これは間違いないだろう。だが研究分野においては、中国の大学と世界の大学には大きな開きがある。中国経済の発展が他国より遅かったことが主因だが、これはわずか1、2年で解決できる問題ではないし、より多くの努力が必要だ。

中国の教育姿勢は米国のそれとは全く違っている。最大の違いは、中国では詰め込み式教育に偏っていることだ。中国の学生は基礎が非常にしっかりしており、これは優れた点ではあるが、欠点もある。新しい物に対して畏怖する心理があり、米国の学生に比べて刷新の意識が低い。

中国式、米国式の教育については、どちらが良いか、どちらが悪いかは言えず、それは人によって異なる。教育の過程において、中国の学生に対しては、より多く刷新を図るようにさせ、米国の学生に対しては、基礎をしっかりと身につけさせるべきである、このようにして互いに補完し合うことが最適だ。言い換えれば、素質のある学生は、米国式の教育が適しているだろうが、大多数の学生は基本的には、中国の教育哲学のほうが適している。

中国の伝統的な教育体制は完全に改める必要はない。体制にある欠点は修正する方法があり、大学生に対しては、特に聡明な学生が飛躍的に伸びるようにすることが必要だ。この2つの方向を同時に進めていくのが、最も適した選択肢だと考える。

文妍氏(「中国青年報」):中国の基礎教育は米国より優れていると考える。数学の大家である丘成桐氏は最近、中国の基礎教育に冷水を浴びせるかのような発言をした。「中国の学生の基礎知識は米国の学生よりしっかりしている、との考えは、おぞましい自己麻酔だ」と。私は、これは中国の基礎教育に対する善意からのアドバイスだと信じており、教育界は謝意を表すべきだろう。だが私個人としては、この意見に完全に賛同するものではない。

20世紀の英国の有名な数学者、哲学者、教育者であるホワイトヘッド氏は「人を教育し育成するのは極めて複雑なテーマであり……この問題に対してただ1点だけ肯定できるのは、決して普遍的に適用し、簡単で行い易い方法はないということだ」と語っている。従って先ず言えるのは、教育製品の質、つまり各個人が学校教育を受けた後の結果は、単に教育制度や教育内容、教育方法によって決定されるのではなく、各社会の構成員は社会や家庭、学校教育、各個人が共に作用し、共に力を施す過程において成長するのであり、一部個人の成長状況によって、社会全体の教育体系を全面的に否定することはできないということだ。丘氏は単に個人の経験や認知に基づいて、つまり一部中国の学生は優秀ではない、または知識構成が不完全であるといった局部的な事実に基づいて、中米両国の基礎教育のレベルを比較し判断しており、偏りのそしりは免れない。これは科学的な研究を行う姿勢どころか、その結論さえ納得させるのは恐らく難しいだろう。

次に、教育というものは、自動車製造業のように、その品質や技術レベルを判定し、比較できる多くのハードな指標を持つその他の業種と異なることだ。国と地域によって、教育はそれぞれに特色と価値を有しており、優劣はつけ難い。その国の教育レベルの高低を判定するのに、数カ所の学校や数人の学生を比較するだけでいい、というわけにはいかない。

第3に、米国は確かに世界で経済と科学技術が最も発達した国であり、各業種や業界に最も優秀な人材を擁しているが、これを根拠にその国の教育制度が最良で、質も最高であると証明しようとしても、ロジック的に恐らく成り立たないことだ。その国の人材育成は、完全に学校教育によって決定づけられるものではなく、より多くの場合、経済と科学技術の発展レベルの影響を受けるものだ。周知のように、米国の経済と科学技術が飛躍的に発展したのはかなりの程度、全世界の最も優れた人材を導入したことによるものであり、こうした人材は経済と科学技術のみならず、教育、特に高等教育にも役立った。米国は高いレベルのかつ相当数の教師を擁している。

事実、米国人も自国の基礎教育が最良であるとは考えていない。

ブッシュ大統領は就任して2日後に、米国の教育改革に関する連邦政府の新政策を制定した。公表された教育の青写真「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法(No Child Left Behind Act)」は「今日ですら、約70%の市区の4年生は全国の読み書き試験で基礎レベルに達していない。高校3年の学生は国際数学テストでキプロスや南アフリカの学生より劣っている。約3分の1の大学生は正規の課程を学ぶ前に補習を受ける必要のあることが判明した……だが、数千億ドルを教育に費やしても、まだ優れた教育をめざす目標は実現されていない」と指摘している。

興味深いのは、ブッシュ政権の新教育政策が基礎科目の重要性だけでなく、特に試験の評価を重視していることだ。英語や数学、科学が中心科目として、ここ数年来の教育改革において重視されてきており、多くの州が独自の課程基準を設けてこうした学科を把握するよう規定している。また全州に対し、3年生から8年生を対象にした英語閲読と数学の試験を毎年1回実施し、この試験結果の評価を連邦予算の配分に反映させると規定している。試験は米国の教育改革においてその重要性を増しており、これはどこか中国に学んだものではないかと感じさせる。

こうした資料を引用したのは、米国の教育は良くないと立証したいからではなく、ただ、各国の教育にはいずれも長所と短所があり、ある歴史的一時期の具体的な政治経済情勢に基づいて教育政策を修正し、教育モデルを改革する必要のあることを言いたいと考えたからだ。従って、楊振寧氏の「中国式、米国式の教育については、どちらが良いか、どちらが悪いかは言えず、それは人によって異なる」との見方はやはり、客観的かつ公正なものだと言える。

第4に、一歩譲って言えば現在、中国の基礎教育と高等教育には確かに多くの問題や弊害が存在しており、一方、米国の教育には多くの長所と先進性があるのも確かであり、それは中国が参考にし、学ぶに値するということだ。しかし、それは中国が教育改革において米国の教育を完全に参照するというものではない。文化や伝統にしろ、社会的現実にしろ、中米間には極めて大きな差異がある。

米国の基礎教育段階における自由さやゆとり、楽しい雰囲気が、生徒の興味と個性を十二分に発揮させていることを、中国の教育界や有識者は一貫して高く評価する一方で、中国の基礎教育においては重い負担が児童の興味をそぎ、個性を抹殺していると批判してきた。『米国の素質教育』や『米国の大学入試』などの著書はかなり多くのインテリ層の間で好評であり、すぐにでも米国式の教育、大学入試制度が実施されればとの思いが強い。だが、最も基本的な国情という前提を忘れている。米国社会は資源が豊富であり、国力は強大であり、高等教育はすでに「高度」に大衆化しており、誰でも大学に入ることが可能だ。いわゆる大学入試、SATは単なるレベル試験にすぎない。進学というプレッシャーを受けない中、小中高校生は自然、学業の負担を感ずることなく、自らが関心や興味を示すものに集中することができる。一方、中国は人口が多く、資源にも限りがあり、教育大国でもあり、また教育の貧困国でもある。大学数は社会の需要を満たすにははるかに足りず、大学入試は性格的には選抜試験だとしか言えない。選抜である以上は試験問題が難しいのは確かであり、専門用語で言えば「区分け」をすべきであり、でなければ選抜としての機能は失われてしまう。

また、東洋と西洋の文化や伝統の相違も教育の姿勢や方法に影響を与えている。中国だけに限らず、日本や韓国など経済や高等教育も発達した東アジアのその他の国においても、大学入試は同様に学生に大きなプレッシャーをもたらしている。

このような状況の中、米国式「大学入試」をそのまま導入するのは不可能であり、強行したとしても結果的に、「気候風土になじまない」ことになるだけだ。

実際、私はこうなることを最も憂慮している。ここ数年来、国内の教育・文化界には、教育問題はいかなる方面から、またいかなる段階から問題を論じようとも、米国の教育をもって論じる、米国の教育を基準とすべきだとする傾向が見られる。教育改革には国際的な視野が必要であることには反対しないが、改革にはその国の文化や現実、国情から逸脱しないことが前提となる。我々はこの面で失敗したことがある。新中国の教育体系は旧ソ連のモデルに基づいて構築されものだが、従来の概念や体系を全て覆して、米国の教育体系に基づいて再構築するというのが現在の傾向だ。しかし、米国のものが必ずしも中国に適しているわけではなく、必ずしも最良だというわけでもない。

◆大学教育は不成功

丘成桐氏(数学者):中国の大学の基礎教育には多くの問題が存在している。現在の本科教育モデルでは、国内で一流の人材を育成するのは不可能だ。大学生の基礎レベル、特に教養を身につけたり学習したり気風は低下している。ハーバード大卒業生の論文は、国内の一部アカデミー会員が書いたものに比べるとレベルが高い。学風の整備を重視しなければ、中国の科学技術は少なくとも20年は後退することになるだろう。

中国の基礎教育は優れている、というのは長年にわたるおぞましい自己麻酔だ。中国の学生が基礎知識をきちんと学んでいるとは思えない。

中国の基礎教育は米国に比べても劣ってはいない、との意見もある。だが実践を通して、国内の大学の教育レベルは決して想像するほど高くはなく、米国の大学教育のほうがずっと優れ、大学院生の教育でも米国が優れていることが分かった。

ハーバード大学理科学院は毎年、中国人留学生を20人ほど受け入れているが、彼らは中国で最も優秀な学生であり、ほとんどが北京大学など名門校出身である。だが、卒業成績から見ると、その他の国の学生より優れているというわけではない。

3年前、私は北京大学の留学生を2人受け入れたが、うち1人は3回連続して試験に不合格となったため、大学側は本科から学び直すよう勧めたが、それでも駄目で、結局は大学を離れるほかなかった。もう1人は良い成績は収めなかったものの、努力して大変進歩した。

毎年、国内の多くの学生から推薦状が寄せられてくる。後に気づいたことだが、多くが偽の推薦状だった。学生自身が書いて、教授に署名させたものだが、その責任を負わない教授が多い。

さらに、私が接触した中国の学生の多くは、プライドがかなり高く、真剣に勉強したいとは思っていない。これにはほどほど失望させられた。10年ほど前にハーバードに留学した中国人学生たちは、少なくとも試験では問題はなかったが、ここ数年変わってきた。以前は成績の順位は前から3分の1以内を占めていたが、多くが後ろから3分の1以内に落ち込むようになった。もちろん、良い成績を取る学生もいるが、全般的に言えば、平均レベルは低下している。国内の数学オリンピックでトップになり、入学当初の成績は振わなかったものの、その後、頑張って良くなった留学生もいる。

こうしたように、本科の教育に問題があり、本科生は一生懸命勉強しているとは言えない。教養を身につけるなど基本的な問題で相応の教育がなされておらず、その上努力しない、というのは結局のところ、本科の教育が充実していないことに帰するのではないか。

米国の学校は学生の創造力を培うことを非常に重視しているので、新しい天才を次々と輩出している。一方の中国は、様々な試験で学生を縛りつけている。考えてもみよう、こうした束縛の中で、溌剌として、柔軟性を十分備え、調和の取れた人間になることができるだろうか。

銭学森氏(宇宙科学者):科学技術の発明者のような人材を育成するモデルに基づいて教育している大学は1校もなく、科学的な創造力を持つ者は科学知識を身につけるだけでなく、文化・芸術的な教養も身につけなければならないと考える。そうでなければ駄目だ。幼い頃、父はこういうふうに私を教育し、育ててくれた。自然科学と同時に、絵画や音楽を学ばせてくれた。科学を文化や芸術と結びつける教育方法だった。芸術的な教養がその後の科学研究の仕事に重要となり、科学的に刷新する考え方を開拓してくれたと思っている。今、私はこの観点を広めているところだ。

中国はまだ完全には発達していない。科学技術の発明者のような人材を育成するモデルに基づいて教育している大学は1校もない、自らの手で独特な刷新もしたことがない、傑出した人材が輩出されない、というのが重要な原因だ。これは非常に大きな問題だ。

尤小立氏(蘇州大学助教授):「量」を重視し、「質」を軽視しているのが、今の中国の大学教育と管理に見られる偏差だと考える。愛国者は2つのタイプに分けられる。1つは、どこまでも愛するという情だ。もう1つは、深く愛するが故に深く憎むというものだ。楊氏は明らかに前者に属している。以前、我々には経過的に物事を比較する、良く言えば「発展する目で見る」という習慣があった。このような方式で見れば、中国の大学は、もちろん「成功している」ことになる。

「成功している」というのは「量」の上でのことであり、今の中国は大学数では20世紀初頭をはるかに超えているだけでなく、在校生数も以前よりずっと多い。これはいわゆる量で勝つというものだ。だが楊氏が言及した「格差」は、「質」の上でのことであるのは確かである。国内にこれほど多くいる物理学の博士指導教官、教授の中に楊氏の目にかなう人が何人いるだろうか。「量」的な強みしかなく、「質」的な向上がないとすれば、その大学は「成功している」と言えるだろうか。

「量」を重視し、「質」を軽視しているのが、今の中国の大学教育と管理に見られる偏差である。しかし、教育管理機関や大学の指導者が制定した評価基準においては、「量」を重んじ、「質」を軽視する傾向が依然として顕著だ。「量化」された管理による弊害が日増しに突出していながら、「量化」そのものが教師の昇進だけでなく、様々な教育考査や評価においてまだ重要な役割を果たしている。このような状況において、我々が必要とするのは、「成功」について大いに語ることではなく、深く反省することである。

現在、大学の本科教育は「普及教育」だと見る人が益々増えている。普及教育は「羊を放し飼いにする」、卒業証書を発行するようなもので、教師は機械的に講義で精力を浪費し、一方の学生はぼうっとして何をしたらいいか分からない。これが一般的だ。管理者は問題が起きずに任務を無事に達成することにしか関心がない。実は、本科教育は精神的側面から見れば、成人教育の一部であり、学術的側面から見れば、創造力を培う重要な段階なのだ。先ごろ、国際的に著名な華人の数学者、丘成桐氏が指摘したように、現在の中国の本科教育モデルでは、一流の人材を育成することは不可能である。丘氏は別の場所でも、中国の学生は創造力に欠けていると指摘してもいる。丘氏の発言は反省するに値しないとでも言うのだろうか。

楊振寧氏は西南聯合大学出身の学者である。戦火の中でも同大学が人材を輩出したことは、確かに考える価値はある。

楊氏の追憶から、その時代の学術的気風が非常に大切にされ、称賛されていたのが見て取れる。しかし、楊氏は気づかれていないのかも知れないが、今日の大学においては、学術的気風は廃れている、というのが学問をする人たち全てに共通する感想だ。実際、一部官界の習慣や姿勢が直接、正常な学風の形成を損ねているのである。

我々は一体、大学を運営し学問をするのか、それとも大学を官界の外延場所にさせるのか。いかに改革を深めてこうした局面を打開するか、我々は深く考え、反省する必要があるのではないか。

自信は成功の源であり、反省は成功へと導く。成功していない前に「成功」を語るより、ここは心を静め、深く反省したほうがいいだろう。