2005 No.45
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直訴と司法の独立

――『北京週報』記者の質問に答える

北京大学法律学教授 賀衛方

 現代社会にあって、直訴は社会問題の解決にどんな役割を果たしているのか。

 現在、直訴が重視されているからと言っても、それは直訴をいかに阻止するかにあって、すべての直訴に真剣に対処しようとするのではないと思う。私の知るところでは、地方政府は直訴を心配するあまり、直訴を止めさせるために多くの者を北京に派遣している。これは実に社会問題を解決するやり方などではなく、新たな『投書・来訪条例』ともかなりかけ離れている。

直訴は総合的な社会問題だろうと思っている。年々、非常に多くのしかも大規模な直訴があり、北京に来た人は八方手を尽くして上部機関に冤罪を訴えようとしている。これは法治を求める国において確かに非常に不正常な状況であり、または真の法治国家においては、こうした状況はあるべきではなく、また現れることもないだろう。

その原因は、中国の司法制度に大きな問題があるからではないかと考えている。司法体系は社会問題を効果的、公正に解決することができないからだ。裁判所というものは、本来、社会紛糾を解決したり、冤罪を晴らすことなどに機能するものだ。だが、外部から干渉されれば、法に基づいて独立して公正に事件を裁くことはできなくなる。司法の無力を示す最も代表的な事例が、再開発に伴う住民移転によって引き起こされた直訴だろう。政府が実施側になるプロジェクトでは、市民は平等に交渉する機会が持てない。そこで市民は司法に訴える。だが、市民は絶望を感じてしまう。裁判所はこのような訴訟の判決に当たっては、独立して裁くことができず、往々にして地方政府の番犬の役を務め、司法権は完全に行政権に従属するものになるからだ。最高人民法院(最高裁)は先ごろ、裁判所は一律に移転にかかわる訴訟を受理してはならないとの司法解釈を打ち出した。これは庶民の最後の希望をも徹底的に打ち砕くものだ。もちろん、庶民は現地の政府に訴えることもできる。だが、地方政府自体が当事者であったら、訴訟はまったく起こせないだろう。庶民としては、直訴に行って、政府の最高機関に現地の不正常な状況を知らせるほかない。これは万やむをえない選択だ。

 直訴制度の存在は、中国の社会的背景や文化的背景、政治制度の沿革と一定の関係があるのではないか。

 歴史的、政治的、文化的伝統から言って、中国人は社会管理の期待を明君または偉大な指導者に託そうとするところがある。長年にわたって地方官吏に搾取されてきたからであり、庶民の苦しみを軽減してくれる素晴らしい皇帝の出現を望むしかなかったからだ。

西側諸国、例えばイギリスは中国と大分違っている。1066年以降のイギリスでは当初、国王はこうした役割を演じて、正義の源と呼ばれていた。庶民はぬれぎぬを着せられると、国王が自ら晴らしてくれるのを望んだ。国王が官吏を地方へ派遣して問題を解決し、事件を審理し、紛争を処理することに伴い、司法に関する専門の知識が徐々に形成されていった。時の経つにつれて、司法制度がしだいに確立、つまり、先例を順守するという厳格な原則が形成されていった。以前の判決が後の事件に対して厳格な拘束力を有していたため、司法を通して個別の事件が解決されただけでなく、その後の事件を裁く法的根拠ともなった。

あらゆる国の裁判所も、同様の事件をいかに同等に扱うかという重要な課題に直面している。同様な事件ならば同様の規則を適用させるべきである。厳格な規則が確立されれば、司法自体が独立したものになるのは確かである。外部のいかなる権力に基づいて問題を解決するのではなく、自らのロジックで事件を裁いて紛糾を解決するようになるからだ。

旧中国の社会管理構造も西側とは非常に異なっていた。清朝末年までの数千年に及ぶ中国社会には真の意味での裁判所はなく、権力分立という西側の学説は中国で聞かれたことはなかった。地方官吏が裁判をする過程でより重視したのは、事件そのものを決着させることで、厳格な規則の形成に努めることではなかった。そのために、良好な管理パターンや司法独立の伝統が形成されることはなく、専門化された法律知識体系もほとんど構築されることはなかった。こうしたことから、政策決定者により大きな圧力を加えた者が、より有利な結果を得られるようになってしまった。

 直訴制度の存在自体が法治社会を建設するという中国の目標と矛盾しているのではないか。とりわけ投書・来訪制度の強化を図る新たな『投書・来訪条例』が公布されているが。

 直訴制度は不当な待遇を受けた人々に希望を残すもののように見えるが、実際は毒酒を飲んで渇きをいやすものではないかと思っている。われわれは独立した司法制度をまじめに構築し、司法制度の正義の度合いを高めることはせずに、常に制度以外の方法で問題の解決に切り口を開こうとしてきた。

少し前に、温家宝総理自らが1人の農民労働者のために賃金を取り立てたことがメディアで盛んに報道された。だが、温家宝総理はすごいと言っても、個別の人のために賃金を取り立てることしかできない。それでも、報道は大きな副作用を起こした。大勢の人が総理か総書記を訪ねたら、不当な待遇を変えてくれると思って、北京へ押し寄せてきた。これでは、最高指導者に対する依存ひいては崇拝を育てることはできるとはいえ、制度の整備がなおざりにされてしまうだろう。われわれは結局のところ、法治国家を建設しようとしているのだ。法治の国とは賢明な君主に頼って支配する国ではない。直訴制度は人治とかかわりがあり、人治の社会では賢明な君主が悪逆無道な首魁に変身することさえある。

 法治社会へと進んでいる過程において、直訴制度は“減圧弁”となるのか、あるいは特別な時期における過渡的な制度なのか。

 私個人としては、圧力とは蓄積されるべきものだと考えている。つまり、常に圧力が解かれると望んではならないということだ。ようやく蓄積してきた制度の形成につながる圧力を少しずつ放出してきたがために、制度が形成されることはなかった。例えば、2003年の孫志剛事件はその典型だ。当時は法曹界を含む全社会が、真の違憲審査制度を確立し、一体化された制度を利用して憲法の下にある法律や法規の違憲性と人権剥奪といった問題を一括して解決するよう呼びかけ、私も参加した。だが、国務院は2003年6月に収容し送還するやり方を廃止してしまった。実は、制度確立に必要な圧力が一気に放出されたがために、もともと違憲審査制度を確立できた好機を逸してしまったのだ。それでも、ネット上では新指導部は民衆に親しい政府だと賞賛一辺倒だった。直訴では問題はそれほど解決できない。直訴する者は戻るよう勧告されたり、強制送還されたり、陳情書も冤罪事件を引き起こした機関や本人に戻されるケースが多い。

 中国の司法制度には多くの問題が存在していると指摘したが、現在進められている司法改革では、どんな面を改革をすべきか。

 先ずは司法の独立からだ。裁判所が事件の判決を下す場合、唯一の根拠とすべきは法律そのものであり、人情や党委員会書記の意見、人民代表大会の意見といった法律以外の要素などではない。もちろん、このような独立性の実現は容易なことではないが、人事や財政体系の面で大きな努力を払うことが必要だ。

次に、裁判官の資質や司法行為の中立性も非常に重要だ。裁判官の資質が低ければ、司法の独立の実現は難しい。裁判官は司法権を行使する過程では、利益があるからと言って当事者の一方に加担することがあってはならない。裁判所は上級の裁判所から独立し、上級、下級の裁判所はいずれも独立して決定を行って、真の中立性を保たなければならない。中立性を保つことで、訴訟過程で起こり得る冤罪や摩擦は避けることができるのだ。一部の具体的な事件については、どのように判決を下せば公正なのかはなかなか難しい。現代社会はますます複雑になっており、多くの場合、司法とは複雑な利益の間で均衡を図るものでしかない。だが、裁判官が示した中立的な姿勢が大きな抑止的な作用をして、法律以外の手段への追求を少なくできることもある。こうしたことが直訴を少なくする上で非常に重要なのだ。

第三は、司法権に対する監督をいかに強化するかだ。裁判官たちに、権力を欲しいままに行使してはならず、厳格に法律に基づいて判決を下すよう認識させなければならない。このような監督は現在、主に人民代表大会や検察院、メディアなどが行っている。だが、実は問題が多い。二つ挙げられるが、一つは監督が十分でないこと、もう一つは監督が不適当であることだ。前者は明らかにされるべき問題が明らかにされていない、ということであり、後者はメディアが裁判所に代わって実際の裁判官役を果たしている、ということだ。また、人民代表大会も自ら事件を審理することができるため、立法権と司法権の混乱が生じている。

 数人の公益弁護士を取材したことがあるが、彼らは中国の直訴制度は残すべきだと考えている。中国の司法体系に対する圧力は非常に大きく、また裁判官も不足している。直訴制度を急に撤廃すれば、これほど多くの紛糾や問題に対処できなくなるからだと言っているが。

 こうした言い方は成り立たない。裁判官の事務効率が低いからだ。忙しそうに見えるが、制度の欠陥から無駄な仕事をしていることが多い。例えば、最終判決を下すことができる裁判所はどこにもない。すべての判決は上級の指導者の指示か、またはある種の圧力によって覆されてしまうからだ。われわれの司法体制は二審終審制を取っている。二審が終了したことは、事件の終結を意味しているが、上層にコネがあれば、終審の判決をひっくり返し、従来の勝訴した者を敗訴させることもできる。敗訴となった者が八方手を尽くし、より強力なコネを見つけたならば、再び結果が変わる可能性もある。われわれには司法の判決、といった確かな概念がない。裁判所は多くの事をしながらも実は、自己否定を繰り返しているのだ。

実際の生活には絶対的な公正はあり得ない、と誰もが意識していることだろう。古代ローマの著名な哲学者で法学者のシセロは「絶対的な正義こそ絶対的な非正義だ」と語っている。一部の判決にはいささかでも非正義があるかもしれない。この場合、当事者はいずれにしろ二審は終わり、事件は解決したのだ、自分はどうすべきかと考え、連邦最高裁にブッシュ氏を訴えて敗訴したゴア氏のようにするか、と思うかもしれない。2000年の米大統領選で敗北宣言したゴア氏は「連邦最高裁の判決は最も忌み嫌うものだが、それは尊重しなければならない」と述べた。判決を覆すのは不可能なのだ。

だが、中国ではこうではない。コネさえあれば、不利な判決をひっくり返すことが可能だ。これが人々に何とかしていささかな不公正でも改めさせて、必ず判決を徹底的に覆させようとしているのだ。法曹界で最も荒唐無稽なスローガンは「事実に基づいて真実を求め、誤りがあれば必ず正す」だ。誤りというものには非常に小さなものもあれば、かなり大きなものもある。どの判決にも誤りはあるだろう。小さな誤りでも正そうとするだけに、そのために奔走し、多大な精神的、物質的代価を払う人がこれほど大勢いるわけだ。敗訴すれば500元ほどで済むものが、判決を覆すために何年も続けて直訴すれば、1000万元を超す可能性もある。こうすればするほど、胸中にたぎる怒りは抑えられなくなり、判決をひっくり返すまで直訴を続けることになる。

直訴はまた別の問題をももたらしている。無実を作り出した者たちが自らの決定が覆されまいと、手を尽くして同盟を結ぼうとする。これによって、より多くの圧制や陰謀、苦難が生まれる。一旦判決がひっくり返されれば、より多くの人が責任を追及されるのは、これが原因だ。つまるところ、人々を納得させることのできる権威ある司法制度がないためだ。規則とは何か、権威とは何かが行き渡っていない社会では、不満が沸騰し、収拾がつかなくなるのは必至だ。