私塾の復活:進歩、それとも後退か
講義をする教師の格好は古代風だ。襟のない、袖の太い、合わせ襟に帯のついた長袍(長衣)を着用している。片方の手に経典を持ち、片手を腰にあてて、ゆっくりと歩きながら、生徒に朗唱させる。教室には書物を朗読する声が響きわたっていた。江南地方の小都市・蘇州に10月29日にオープンした現代の私塾、「菊齋私塾」の授業風景だ。
この数年来、江西省や湖南省、浙江省、重慶市、深センなど一部地方に同じ様な私塾が開設されている。私塾は中国の伝統的な教育方式。約2000年前に登場し、昔は家庭や宗族、教師自らが設立した教育の場所で、一般に教師は一人しかおらず、個別の教育法を採用し、一定の教材や学習年限はなかった。私塾はかつて儒家の文化伝承の重要な場所ともなり、古代の偉大な思想家・孔子はこうした方法で弟子にその思想を伝授した。1920年代初め、開放とともに西側の教育方式と理念が浸透したことで、私塾は「詰め込み」を重視する教育法として次第に歴史の舞台から姿を消していった。
90年代に入ると、伝統文化を重視するブームが起こり、多くの地方で青少年や児童を対象に古代の詩歌を吟唱する活動が盛んに行われるようになった。私塾の復活はこの数年来の古典学習ブームを反映したものだ。菊齋私塾の創設者は「国学を発揚し、子供の古典文化に対する基礎や豊かな情感を育むのが主目的だ。教典や韻文、古代音楽、書画、茶道などを教えている」と話す。
私塾については賛否両論ある。「伝統文化が絶えず失われ、道徳感も日増しに低下している今、児童や生徒に道徳的素養や伝統文化の教養を身につけさせる上で、私塾の復活は極めて重要かつ現実的な意義がある。その一方で、私塾の個別化された教育という特徴は、個性化された教育を提唱する現代教育の理念とも一致する」というのが賛同者の見方だ。
一方、反対者は「教育の刷新が提唱されている今、こうした現象は一種、文化の後退であるばかりか、現代教育の現状の改善にとっては、有益より弊害のほうが大きい」と主張する。
◆有益な意義がある
※重慶市蜀都中学教師の徐曉氏
私塾は封建社会の主要な授業方式として長い歴史があるが、社会が進歩するにつれ、社会から姿を消してしまった。だが、こうした授業方式がわが国伝統の歴史や文化を伝承し、発揚する上で重要な役割を担ってきたのは確かだ。近代中国ですら、また西側の風が徐々に吹き込んできた時ですら、近代の文学者や歴史学者は厳格な家庭教育を受けており、一部は中国と外国に通じた学識の士でもあり、私塾が打ち立てた国学の基礎には現代の学校教育では到達できないだろう。
私塾で講義された儒家の教典が人の道徳観念を培い、理想的な人格を形成し、文化的素養を高め、内包する文化的意義を強めるのに役立ったことは言うまでもない。
従って、伝統文化が絶えず失われ、道徳感も日増しに低下している今、児童や生徒に道徳的素養や伝統文化の教養を身につけさせる上で、私塾の復活は極めて重要かつ現実的な意義があると考える。
現代教育の角度から見ると、昔の私塾は実際、典型的な個別化された教育だった。個別化教育からクラス別教育への転換は、時代の進歩によるものだ。クラス別教育制は近代工業社会の産物であり、こうした大規模な学校教育は人類の進歩として大きな貢献を果たしてきた。ただ、この種の大規模な流れ作業のラインにも似た教育も個性を失わせつつある。千篇一律、千人一面といった個性の欠けたいわゆる人材が社会にはびこりつつあり、コピーやクローンなどが教育の慣例的な手段となっている。こうした個性の失われた教育は最終的に社会から活力と差異を失わせることになり、差異のない世界はいささかも面白味がない。だからこそ、人々は個別化教育を呼び掛けているのであり、それが既に現代教育のすう勢となっている。古代中国で行なわれたのはまさに、私塾を主体とした個別化された教育であり、これは将来の教育の在り方と図らずも似ている。将来の情報社会では、より多くの「個人的な特性」がもたらされるからだ。
個別化教育も、対象ごとに異なる方法で教育する孔子の教育思想に具体化されている。生徒は少なく、年齢も異なり、層・段階別に教育する方式だ。私塾はまさに小クラスを教育の方式にしており、児童や生徒の思想を真に開拓する場所だった。だが、個別化教育については成功した先例に乏しい。
※北京師範大学教育学部教授の郭斉家氏
私塾は歴史が長く、中華文化の形成や伝承で大きな役割を発揮した。私塾の教育方式には合理的で吸収できる要素がある。例えば、対処性が極めて強く、対象に応じて異なる教育を実施する方式や、道徳教育を文化・知識教育に融合させる、手順の形成された書法や作文教育などだ。現代の学校教育が参考にしていいものであり、また参考にすべき有益な経験ではないだろうか。
20世紀初頭以降、児童教育に関する考え方は、児童の興味に配慮し、児童の天性を大切にしなければならない、と強調する米国の現代教育家ジョン・デューイ氏の「子供中心主義」の影響を次第に受けるようになった。だが、状況を分析し、個別に対処することが必要であり、決して一律に子供に妥協してはならない。ある角度から言えば、ある程度、強制するのは理にかなったことだ。子供の心身の成長を阻害しなければの話だが。人文科学に関する知識の教育や伝承は、そのものに特有の規律があるために、暗誦したり記憶したりすることが求められる。13歳前の子供について言えば、記憶する内容が難しいかはどうでもよく、その内容がその後の人生で次第に「文化的に発酵」していく可能性がある。
◆一種の後退である
※中国教育サイト・フリーランサーの孫亜軍氏
私塾の復活は、現在の教育の現状に対する父兄の強い不満を示すものだと思う。子供を教育するのによりふさわしい方式が見いだせない中、父兄にとって代替するほかないのが早くに放棄された私塾であり、1つの試みとして試してみてもいいのではないか。米国では、子供の多くは家庭で育成されている。教育の問題は絶対化してはならず、何も唯一の正しい方法があるわけでもない。学校のクラス別教育が、全ての子供に適するのは不可能であり、教育は個性化を備えた問題だ。一部の先進国では、素晴らしい学校は、ほとんど全ての児童・生徒についてそれぞれの発展プログラムを策定している。だが中国は人が多く、これは不可能だ。こうして見ると、私塾の創設は過度に非難すべきものでもない。ただ1つ、疑問がある。伝統的文化の魅力はどこに在るのか。私塾は真に根本から問題を解決できるのかどうか、ということだ。
子供の古典文化に対する基礎や豊かな情感を育むのが現在の教育の課題であるのは事実だが、関係する内容は幼稚園や小学校の各教材に程度の違いはあれ盛り込まれており、必ず学ばなければならない必要はない。菊齋私塾の場合、週末に1回講義を受けるだけで、月謝は320元だ。決して安くはなく、創設の真の目的は金儲けではないか、と疑う人もいる。さらに、受験教育に比べより遅れた教育方式と内容を採用していることは、現代の子供の個性的な特徴や、能力の発掘や全面的な育成にはマイナスだ。
形式的に見ても、私塾には、教師が合わせ襟に帯のついた長袍を着たり、教室内に孔子像を掛けたりするなど、復古調の感じがある。
※山東省沂蒙中学教師の李先梓氏
疑いもないことだが、中国伝統文化の重要な一部であり、人文的精神でもある国学は現在、これまでになく廃れようとしている。従って、次世代において国学教育を強化し、児童・生徒に国学の基礎を身につけさせるのは極めて重要かつ現実的な意義がある。しかし、国学を発揚するには、必ず私塾を開設しなければならないのだろうか。
私塾は封建社会に流行った教育方式として、長い歴史があり、こうした教育方式はわが国伝統の歴史や文化を継承、発揚する上で重要な作用を果たした。だが、私塾教育は結局、中国伝統の農業文明の発展に伴って発展したものであり、また当然ながら、現代工業文明の進展に伴って消滅の方向に向かっていった。私塾の消滅は歴史発展の必然だ。しかも、教育規律から言えば、私塾の教育方式は少なくとも現代の教育理念とは完全にマッチしない。
一時、国学を再び高めようと訴える声がよく聞かれたが、私塾が消滅して1世紀近くもたった今、蘇州に突然に「現代私塾」が飛び出そうとは、誰も想像すらしていなかった。これは国学熱狂者による精神の帰先現象ではないかと思う。
菊齋私塾の2人の創設者は国学の愛好家であり、子供を通わせる父兄の一部も国学に特殊な感情を持つ「確固たる追随者」だと言うことだ。私塾の創設者も、また父兄にしても、いずれも国学に気がふれたかのように熱狂し、まさにそうした熱狂さが、教室を古代の私塾にできるだけ近いようにさせ、果ては「教師」に古代の衣装を着用させたのだろう。形式面からできるだけ古代の私塾を造ることが、国学熱狂者がまず第1に追求したものであり、彼らは精神の帰先現象を通じてこれまでになかった満足を得ようとしているのだ。
※中国現代文学館々長の長舒乙氏
私塾の消滅は惜しむに値せず、また保護される必要もない。それが淘汰されたのは、淘汰されるべきだったことを物語っているからだ。私塾教育は非常に遅れたものであり、教育方式であれ、教育内容であれ、いずれも現代社会の状況に完全に適するものではない。教育内容には数学も、外国語もなく、コンピューターもなく、スポーツすらない。子供たちに現代教育のシステムに溶け込ませることができないのは、彼らの知育がシステムにおいて十二分に開発されていないからだ。
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