2005 No.51
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正真正銘の経済学者とは?

2005年は、中国で主流となる経済学者にとって多事多難な年だったと言えるだろう。民衆とメディアからの批判や非難が絶えなかったことから、その頭上に輝いていた名声は暗影に包まれ、信用はこれまでになく失墜してしまった。香港科学技術大学の丁学良教授が「国内で正真正銘の経済学者は5人以下である」と発言したことで、経済学者への関心が再び高まっている。

「中国青年報」が関係メディアと丁教授の発言について行ったアンケート調査によると、支持するは83%、反対は8.3%に過ぎなかった。

「経済学者は知識人であるため、公衆への信用を厳格に守り、良識を持ち、公衆の利益を代表してものを言わなければならない」と大多数の人は思っている。だが、その一方で「経済学者は一種の職業であるため、お金を出した者のために発言しても、職業道徳にかなっている」との声も聞かれる。反対、賛成それぞれに意見がある。

◆利益集団のスポークスマン

※香港科学技術大学の丁学良教授:西側先進国では、経済学は通俗的(パブリック)な学科ではなく、物理学や数学と同様、討議されるのは非常に専門化された問題である。経済学がパブリックな学科に変わることはない。

しかし、中国では経済学が賑やかだ。誰もが自分は経済学者だと考えており、しかもどんな問題でも敢えて語ろうとする。これは経済学が中国ではまだ真の科学になっていないことを示すものであり、厳粛なる学科というものはかまびすしく語られるものではない。

民衆とメディアが主流となる経済学者を批判する原因は非常に複雑だ。最も重要なのは、経済学者が経済科学の研究にあまりにも精力を注がずに、ある利益集団のために発言することに多大な精力を注いでいることだ。中国ではそれぞれ異なる産業のために代弁者を務める経済学者が少なくないが、西側先進国ではこんなことはめったにない。西側諸国では経済科学の研究に従事している中で最も優秀な経済学者は、銀行や投資銀行にしか雇用されず、産業経済学の研究に従事している。中国のいわゆる経済学者の大半が行っていることは、西側諸国の銀行に勤める経済アナリストと比較的似ているが、産業のために発言はしても、そのレベルは西側とは比べものにならない。外国の最も優秀な経済学者は、全世界で最も優れた学部で教授になったり、研究に従事したりしている。

中国では正真正銘の経済学者は多くとも5人以下である。

正真正銘の経済学者はまず、科学として経済学に対応する必要があり、経済学を、私財を築いたり名声を得たり、官僚になったりするための手段としてはならない。もしそうであるなら、経済学の分野で独立した研究を行うことはできないだろう。

※清華大学の梁小民・EMBA客員教授:われわれは丁学良教授の見方に全く賛成するわけではないが、現在の中国の学者の中で、経済学者は輝かしい地位に置かれている一方、人々の非難の的ともなっている。これは争えない事実だ。経済学者と称する人は、その数は非常に多く、観点も奇異であり、一部の経済学者は自らの役柄をはっきりとわきまえておらず、自らが何を行っているかも分かっていない。

経済学を専門にするには、学問をすることが必要だ。経済学という学問は純粋に理論的なものもあれば、応用的なものもある。純粋理論を専門とする経済学者は、寂しさに耐えながら、先端を行く理論的問題を追跡、研究しなければならない。抽象的な理論は現実から遠ざかるかも知れないが、国家にとってこうした研究に従事する人はいなくてはならない。これらの研究に従事するには功名心を抱いてはならず、学問のために学問をする必要がある。遺憾なのは、中国ではこのような研究に従事する経済学者がほとんどいないことだ。経済学の発展はかなり急速だが、すぐには名誉や利益につながらないことを一心不乱に研究することを望む人は非常に少ない。これが経済学の悲劇である。

応用研究に従事する学者は、政府機関で政策の制定に参与したり、企業で職務を務めたり、また学者の身分でさまざまな現実的問題を研究することもできる。こうした研究に従事するには理論的素養のほかに、実情を深く把握して、第一線の資料を把握し、また専門知識を身につけている必要があり、どんな問題に対してもいわゆる“高見”を発表したり、生はんかであったり、無責任な発言をしてはならない。中国では応用研究に従事する学者は少なくないが、“応用”を“金稼ぎ”に変えている経済学者が多いのは残念だ。

どんな研究に従事するにしても、経済学者はその他の知識人と同じように良識や独立した人格、社会的責任感を持っていることが必要であり、経済学を金儲けの手段としてはならない。

経済学者に個人の利益や自らの立場があるのはもちろんだが、経済学者の身分で発言する場合には、公正な立場に立ち、社会的責任感を持つべきだ。経済学者は裕福であるかも知れないが、富裕層のための代弁者となって、その利益を守ることを自分の責務としてはならない。

◆経済学者の利益追求には寛大に

※中国経済体制改革研究会のケ聿文氏:中国の経済学、経済学者について改めて考えることは必要だ。だが、中国の経済学界を全面的に否定し、経済学者が改革・開放の中で果たしてきた役割や払った努力を無視し、しかも経済学者に道徳的なモデルになるよう求めるのは、当今の利益の多元化という時代において現実的ではないだろう。そのため、私達は平常心を抱くべきであり、理知的かつ実務的な姿勢をもって経済学者の利益追求を評価すべきだ。

過去20年間、経済学者は社会で主役を演じてきた。その原因はなにか。中国の発展と改革はいずれも経済をめぐるものであり、経済学者は社会生活の中で自然、より多くの発言権を持つようになったからだ。一方、「経済の発展は経済学者に関係する事だ」という誤った考えがあったことから、経済学者はさまざまな場所で“貴賓席”に座らされ、公共政策や自ら熟知しない分野についても随意に見解を発表し、その見解が世論に金科玉条と思われたからだ。

また、メディアや民衆の経済学者に対する重大は“誤読”がある。つまり、伝統的な知識人は国を救い、民を救う使命感がある、という影響を受けていることだ。理想化された標準的な概念をもって、富の中心に置かれた経済学者の人格や品性、道徳を見ようとすれば、現実の中にいる経済学者と想像する経済学者の間に距離があることに気づいた時、経済学者に対して良心があるのかどうか、との疑念が生じるのは自然なことだ。

こうしたことを失くすには、私達は先ず、経済学者を普通の人として見なし、彼らに対して高すぎる道徳観を求めるべきではない。経済学者も自らの利益があり、利益の最大化を求めるものだ。普通の人に比べより経済学の知識を備えている、というのが経済学者の比較的優位なところであり、それによって彼らを高い価格で買い求める主が決まるのだ。

経済学者は、普通の人となれば、公共の利益を旗印に掲げて、ある利益集団のために私利を図る必要はなくなる。民衆について言えば、ある経済学者の発言を奉る必要はなくなり、彼らを公共利益の代弁者とする必要もない。経済学者の利益追求を容認、はては寛大になり、感情的な非難や道徳観に対する批判を少なくするのは、まさに社会の進歩を体現するものではないだろうか。

※「東方早報」執筆者の東方愚氏:経済学について言及すれば必ず、経済学者のことが口に出てくる。默々として研究に没頭する経済学者は往々にして無名な存在であり、メディアとの関係や公開で発言する権利もない。公共の利益を目的にしながら、強力な利益集団のために代弁する経済学者は非難や批判を受けるべきだ。だが、メディアや民衆が経済学界や経済学者の弱点を突くことに力点を置き、はては経済学者の道徳観についてランクづけすることを楽しんでいるのは、多少行過ぎではないだろうか。