2006 No.16
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北京動物園、15日で設立から100年に

毎日たくさんの行楽客がくぐる北京動物園の「三拱門」だが、門の上にある「農事試験場」の文字が示すように、この門が歴史の生き証人であることを知る人は少ない。

北京動物園の前身は、清朝政府が設立した農事試験場である。光緒32年3月22日(西暦1906年4月15日)、欧米や日本の進んだ農業技術を取り入れて研究するため、当時の政府で農業・養蚕を管轄していた役所が申請し、作られたものである。

1907年、南洋大臣の端方はもともと上海に送る予定のドイツから購入した珍獣を、恐らく“西太后への機嫌取り”のために試験場へ送ってきた。動物園の歴史を研究している園関係者によると、当初送られてきたのは138匹説と700匹説があるという。当時の一般民衆は試験場を「万牲園」または「三貝子花園」と呼んでいたが、この名前はどの公式記録にも記されていない。

試験場に併設された「万牲園」は有料で公開され、公開日は月・水・金曜が男性、火・木・土曜が女性だった。中国で初めてライオン、キリン、シマウマが見られる公園として人気を集めたという。入場料は、当時の新聞「順天時報」によると「銅元20枚」だった。20世紀はじめ、銅元が1枚あれば軽食のパンを買うことが出来たので、庶民には高額だったと言える。

試験場は農業振興の名の下に作られたが、宮廷の庭園としても使われた。このため、動物園内にも宮廷用の休憩場所や美しい建築物が作られた。最も有名な「暢観楼」は西太后が保養地の「頤和園」へ行く途中、休憩に立ち寄っていた場所で、清朝廷唯一の欧風建築である。試験場は1908年に竣工し、西太后と光緒皇帝は2回訪れた記録がある。

記録によると初めて虎を見た西太后は、「この虎は弱っているみたいだけど、餌は足りているのか?」と話し、“もし虎が餓死したら、飼育係を処刑する”と左右に告げたという。またシマウマを見て“どの国から来たものか?”と侍従らに尋ね、誰も答えられないのに立腹して“お前たちは牛馬と同じだ。どおりで動物学も分かっていない”と罵ったとされている。

1912年、民国政府初代内閣の農林総長・宋教仁が試験場内の「鬯春堂」に移ってきた。ここに移り住んだ理由は、「資産階級民主革命」と関係していると言われる。パンダ館のうしろにある「四烈士墓」には袁世凱らが葬られ、1912年8月、孫中山も葬列に参加している。

北京動物園がすでに100年の歴史を持っている、と知られていないのは、何度も名称が変わったことが原因と思われる。清末の農事試験場から民国期の農商部中央農事試験場、北平農事試験場、国立北平天然博物韻、実業総署園芸試験場、名前の変遷は動物園もまた激動の時代を生きていたことを現している。

第二次大戦中、日本軍がゾウを餓死させたほか、猛獣たちを毒殺した。その他の小動物は中山公園に移され、動物園は日本軍に押収され、倉庫代わりに使われた。新中国誕生時、園内に生き残っていたのは13匹のサル、3羽のオウムだけだった。

それから50数年が経過した今年2月、園内には457種(4,461匹)の動物と、約1,000種(5万匹)の魚類が飼育されている。2003年からは拡張工事がはじまり、2008年の北京五輪までに竣工が予定されている。