2006 No.16
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一流大学は誰のために

一流大学には誰が入るのか。貧しい家庭の子どもたちは、とにかく一流大学に入る夢など持つべきではないのか。一流大学に入るにはかなりの学費がかかり、その額は恐らく彼らの家庭の年収の数倍にもなるからだ。

1970年代末に始まった改革開放に伴い、中国は計画経済時代から市場経済時代に入り、教育も一連の変革を経てきた。なかでも高等教育改革への社会の関心は一段と高い。絶対多数とくに貧困家庭出身の中国人にとって、大学とりわけ一流大学のハードルを越えられるかどうかが、その人生を変えられるかの重要な一歩になるからだ。大学に入り卒業できることは、明るい将来、つまり、いい仕事といい収入を意味している。

現在の高等教育は、学費が高い、みだりに費用を徴収する、国の資金投入が不均衡である、募集定員の拡大で就職が難しい、といった問題を抱えていることから、教育の現状に対する不満は大きい。

統計によると、大学の学費は、改革開放前は無料だったが、20年前に1人平均200元となり、2005年には5000元まで値上がりし、この間に収入の伸び幅を大幅に上回る25倍に膨らんだ。宿舎費や生活費も含めると、4年間で平均して4万元以上(1元は約14円)が必要だ。2005年の農村部の1人平均収入は2936元。大学生1人にかかる総費用は農民1人の13年分の収入に近い。「2005年住民生活の質の指標に関する研究報告」によると、教育費が農村・都市部の家庭収入に占める比率はそれぞれ32.6%に25.9%。高等教育の年間コストは学生1人あたり約1万4000元で、学生は実際にその44%分を負担しているが、外国では一般に15%前後だ。

「学校は高い」といった問題が全国的に存在しているが、教育部の王旭明報道官は先ごろ記者会見し、この問題に対する見解を示した。「中国人は学費に対する考え方を変えるべきである。計画経済時代、小学校から大学までかかる費用が非常に少なかったのは、国が負担していたからだ。だが市場経済時代になって、状況は変わった。非義務教育段階(義務教育は小学校6年間と中学3年間)の教育はすでに家庭の一種の消費となっており、消費であるからには、自分の経済力や知力、実力に応じて選択しなければならない。北京大学や清華大学(最も有名な最高学府)などの優れた教育資源は限られているため、自然、高くなるのは当たり前であり、すべての人が消費できるものではない。マーケットを回って買い物をするようなもので、お金があれば、専門店で1万元の洋服を買ってもいいだろう。お金がなければ、小さな店に行って、100元の洋服を買う。多くの人が自分の力はどうなのかを考えずに、誰もが子どもをいい学校へと押しやっている。これは非理性的であり、『学校は高い』という考えはここからも来ている」

王報道官の発言はすぐさま極めて大きな論議を呼んだ。大学教育は本当に彼が言う洋服を買うような一種の消費にすぎないのか、貧しい家庭の子どもは一流大学を敬遠すべきなのか、富裕層の子弟だけが一流大学に入れるのか――。

◆誰にもいい大学に入る権利はある

〇フリーライター・周之南氏

報道官がこうも“たくし上げる”言い方をしたので、問題が明らかになった。もともと「学校は高い」といった問題は存在せず、主に大半の人は理性に欠けているから自分で悩んでいる。しかも、清華大や北京大はもともと庶民のために設立されたのではなく、こうした優れた教育資源も富裕層しか受けられない。だが、すぐにははっきりできない問題が幾つかあるので、報道官に教えを請いたい。

まず第1は、北京大や清華大は誰のお金を使って設立したのか。北京大や清華大は優れた教育資源になったのに、その他の大学がそうでないのはどうしてか。我が国の教育への資金投入は本来かなり限られており、困難な状況にあっても、教育の発展は基礎教育優先ではなく、高等教育優先で、高等教育の中でもこうした有名校が優先的に財政投入を受けてきた。こうしたお金は全人民のお金であり、つまり、こうした限られた、優れた教育資源は人民が受けるべきで、富裕層だけが受けるものではない。

第2は、我々のこの社会の人材選抜の基準は一体、何なのか。経済力か、それとも知力と実力か。中国古代に科挙が実施されて以来、知力と実力がずっと人材を選抜する際の唯一無二の基準とされ、しかも最も公平な基準だと広く認められている。では、今日なした金銭財物とやらの基準は、結局は市場経済の勝利なのか、それとも公平な意識の後退なのか。経済力を至上とする基準の下では、いきおい富裕層が教育資源を独占し、貧困層は教育を通じて運命を変えるチャンスを必ず失ってしまう。貧富の格差拡大が社会の調和を失わせるとすれば、富裕層が清華大や北京大を独占して何の意義があるのか。

第3は、こうした発言をよく耳にするが、それはどうしてか。高等教育は消費によって推進された、とする“教育消費論”から、すぐに“教育産業論”が思い浮かぶ。教育部は、自らは“教育産業論”に反対するとの言い方をしているではないか。では“教育消費論”については、何から語ればいいか。金がある者は1万元の洋服を買い、金のない者は100元の洋服を買う。金のある者は、私の造った破格の値段の建物を購入して富裕層区に住み、金のない者は部屋を借りる。富裕層のためだけに大学を設立し、富裕層のためだけに豪邸を造る、この2句は何と似ていることか。問題は、建物を造る社長が商売の話をするのは結構だが、政府の幹部は人民の利益を至上にすべきであり、話をすると、どうして商売人と同じ様な口調になるのか、ということだ。

〇第14期全国人民代表大会代表・温俊義氏

「学校が高い」原因はいろいろあって、一気に解決できるものではない。だが、解決する措置を模索すべきで、「街に出て洋服を買う」といったような市場化の考え方に立ってはならない。非義務教育段階の教育も公平性と負担できるという原則を具体的に反映させるべきであり、庶民に経済的原因から教育を受けるチャンスを失わせてはならない。

〇北京師範大学教育学院教授・労凱声氏

高等教育の費用徴収の問題については、費用の高低にかかわらず、やはり負担できない人も一部にいるだろう。現在、「費用一律制」が実施されているが、それは費用の徴収を適正にし、再徴収しないことに意義がある。北京は、小学生が1年に払う費用を600元以下と規定している。600元は大半の家庭に受け入れられる額だ。例えば、自動車市場なら、自動車を買える人が市場に行くだろうが、教育はそうではない。費用をさらに引き下げても、払えない人がいるのだ。従って、そこには弱者救済の問題があり、支援システムを確立する必要がある。確かに才能はあるが、家庭が貧しいために学費を払えない人については、いかに国の援助を通じて有能な人材に育てるか。これが問題のカギだと考える。

◆高等教育は無料の昼食ではない。

〇「仏山日報」ライター・知白氏

私は、王報道官の見解には道理がないわけではないと考える。まず指摘しておきたいが、現在の一般的に言う「学校は高い」との非難や批判には、「学」とは結局、国の義務教育段階に属する「学」なのか、それとも非義務教育段階での「学」なのか、それが疎かにされているようだ。それぞれ機能が異なるため、資源の供給と配分方式にも違いがあるべきである。

義務教育は公民の資質教育として、資源の供給の責任を政府が担うのは疑いを挟む余地がなく、政府が力を入れて改革を進めているのもそこにある。だが、非義務教育である高等教育もそうなのかどうか。現実的に言えば、恐らく、市場経済の道を歩み、その高等教育資源供給の責任を完全に政府が担っている国は世界のどこにもないだろう。政府が担うやり方は、まさに中国の計画経済時代の産物だ。

高等教育資源については、すべて政府が担うべきでないというのが不可能である以上、実施に当たっては少なくともかなりの部分の資源の供給ついては、市場化の道を歩まざるしかない。同時に、資源の配分も同様、市場での一定形式の取引で実現する必要がある。このため、高等教育は教育を受ける者の個人的な消費品だと言っていいだろう。この角度から見て、筆者は、報道官の発言には道理がないわけではないと思う。

大学の学費はこの20年間に200元から5000元と、25倍も跳ね上がり、庶民の収入の伸び幅より高い、と言う人がいる。そこには明らかに軽視されている1つの問題がある。つまり、最初の200元という起点が合理的だったかどうか、低すぎたのではなかったか、ということだ。大学の費用は一般家庭が耐えうる能力を超えている、と考える人もいる。ここでは、消費者の耐えうる能力をもって、大学という資源の価格を市場化手段で設定することを判断し、そして非難すべきなのかどうかが問題となる。

高等教育は決して公民の必要とする消費品ではなく、実際、社会や経済発展も、全ての国民が高等教育を受けるのに応えられるほど豊かになるまでにはまだ遠い。この角度から言えば、市場手段を通じて大半の高等教育資源を調達し配分する、これがまさに大学改革で堅持すべき方向性の一つだと考える。たとえ、多くの低収入の家庭が費用を納めるのが難しくなっても。もちろん、政府や社会、大学自身も品行、学力ともに優れた貧困家庭の多くの学生をないがしろにしてはならない。ただ、貧困学生の援助については、援助制度を考えるべきだ。

最後に言いたいのは、計画経済時代の無料の昼食に食べ慣れた大学生は、自分が消費した分の請求書は自分で払うことを学び、それを受け入れるべきだ。

〇北京市民・北海氏

私には王報道官の発言は理解できる。現在、社会全体の意識は、比較的浮き足立っており、高望みし、分相応ではない。これは一種の非理性的な消費観だ。教育であろうと、住宅であろうと、大きくて良いものを求め、そのために借金を惜しまず、生活に重い負担を背負わせている。実際に、私たちは社会全体に対して質朴な生活観を提唱し、「上には劣るが、下には優る」という無欲な気持ちを育てなければならない。収入に合わせて支出する、自分の力相応に行う。こうすれば、大学に入れないことで自殺したり、血を売ったりする多くの悲劇は少なくなるだろう。