2006 No.24
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国学はいかに復活させるべきか

「国学」への関心はこの1年来、中国また世界で高まりつつある。中国文化を教え、中国古代の傑出した思想家、儒学の代表的人物である「孔子」の名を冠した学校、孔子学院は世界にすでに40数校。中国政府は100校の設立を目指すことを明らかにしている。

国学とは一般に、哲学や歴史学、考古学、文学、言語学などを含む中国伝統の学術・文化を指す。国学という名称は20世紀、当時中国で次第に台頭しつつあった西洋文明の「西洋学」と区別するために付けられた。一般の人にとって、最も関心の高いのは儒学や道学などだろう。それらは数千年に及ぶ歴史をもつ中国の封建時代にはほぼ「国教」に位置づけられてきたが、20世紀に入って以降、国学の命運は起伏の道をたどっていく。なかでも、1960年代に始まった「文化大革命」で受けた打撃は最も激烈だった。この運動の時期、道家と儒家思想を主体とした中国の伝統文化は封建的な“カス”として批判、排除された。

80年代に始まった改革開放政策。中国の伝統文化の魅力は、歴史に対する反省と見直しの中で再び重視されるようになった。90年代以降、国学ブームは次第に高まりを見せていく。当初は児童用儒学の教典(『三字教』や『論語』『老子』『荘子』など)ブームから始まり、大学での「国学クラス」の設置や「国学院」の開設にまで発展し、国学の追求は次第に高揚していった。

国学ブームが再び熱を帯び始めたのは、昨年末から。有名大学の北京大学は同年11月に「乾元国学教室」(一部メディアは「国学企業社長クラス」と呼んだ)を設置。年間授業料は2万4000元(約3000ドル)だが、それでも定員が募集人員に追いつかない状態だ。多くの企業の社長が飛行機で北京に来て授業を受けているという。中国人民大学は国学院を開設し、昨年から全国から募集を開始。これまでに、国内で著名な文科系大学はどこも国学クラスを設置している。

今年、北京大学哲学部は「携帯電話国学課」を開設。携帯利用者はニュースや天気予報と同様、国学に関するショートメッセージを受信できる。「教史子集」(教典、歴史、諸子、詩文集)にある語句の精髄のほか、国学専門家の分析・解釈もある。費用は1カ月10元。受信できるのは1日1本。また、広州や深センにも「国学養成学校」が一気に5校オープン。企業管理での国学の実際的応用について講義しているという。養成期間は数日から数カ月とさまざま。授業料は数千元から数万元。

国学に関心が寄せられるのは悪いことではない。だが、一部の問題が論議を呼んでいる。国学の復活と伝承は教育に依る。これは議論の余地のない道理だ。だが、現代という時代を背景に、どんな方法で伝承していけばいいのか。これがさまざまな論議がある中での焦点だ。過去のように書斎に戻すのか。国学院に戻すのか。それとも現実的に応用すべきなのか。復活させることで一体、国学から何を学び取るべきか……。

ブームの形は重要ではない

◆北京「文化博覧」雑誌社編集長・秋子氏

客観的に言えば、国学は過去、私塾や書院、社(やしろ)、仏教学は寺院や廟を通じて伝承されてきた。だが、今はこうした社会体制は存在していない。では、どうやって伝承していくのか。今は市場経済であり、社会体制は大きく変わった。国学は現実の生活から離れつつあり、国学の教育を円滑に進め、国学という学科を現実の生活に、民間に取り戻すことが、国学に生命力を再び吹き込むカギとなる。

寛容性、これは本来、国学にとって重要なものだ。模索すべきなのは、現代企業が求めるものと、伝統文化が提唱するものが矛盾する状況にある中、国学と経済活動をいかに結びつけるかを冷静に検討し、これを効果的に進めるための時代に合った方法と形態を早急に総括することである。

◆首都師範大学文学院教授・呉相洲氏

庶民が関心を寄せる学術とは本来、社会の進歩だ。人々が必要とするものは異なるが、多くの人が学術に関心を寄せるのはいいことだ。

国学で研究するのは伝統文化だ、と私たちは言っているが、最終的かつ根本的な目的について言えば、文化の伝統である。では、何をして伝統と呼ぶのか。伝統と文化は1つの概念ではない。伝統とは1つの流動する文化である。過去にあったものであり、現在も役割を果たしているもの、これが伝統だ。伝統とは人間の生活方式なのである。私たちが国学を研究する目的は、人々にどの様に生活するか、言わば、生き方を教えることであり、国学は非常に大きな意義を持っている。

◆「北京晨報」特約記者・小琳氏

高尚とされる国学に“通俗的”な方法を用いるのは受け入れ難い、と言う人がいるが、実際には全くそんなことは必要ない。ショートメッセージで国学を教えることについて言えば、私たちは国学のもつ知恵を認めており、国学を社会に広めるよう呼びかけているところだ。北京大学哲学部の教授は通信手段を使って、自ら国学にある言葉の意味を庶民に伝えている。しかも費用合理的だ。。これは実にいいことだと思う。

ショートメッセージそれ自体はいいものだが、政府の主管部門が法に基づいて厳しく管理しなければならない。ネット業者やコンテンツ(情報内容)提供者の自律、社会的責任(CSR)が必要だ。

◆北京大学哲学部教授・湯一介氏

90年代以降、国学熱は2度起きた。第1次は1992年前後。大学で、学者の間で次第に湧き上がり、第2次ブームでは全民に広がり、国学は象牙の塔を抜け出した。企業家は国学を学び始め、幼稚園や小中高校も儒教教典の課目を開設するなど、国学は21世紀に入って発揚されるようになった。ショートメッセージは、国学の普及に重要な意義があると考える。

産業化による国学復活は誤り

◆北京大学哲学宗教学部教授・楼宇烈氏

伝承していく中で、いかに我々の伝統文化を発展させるかが根本的な問題である。それは、現在の国学熱が直面している問題でもある。国学教育の多くは利益を追い求めるためであり、その対象として照準を当てているのが社長階層だ。これが国学を文化産業としての道を歩ませるのは間違いない。これは国学ブームを決して一種のファッションとして追い求めてはならないと、我々に警鐘を鳴らしているものでもある。

20世紀初めに国学は出現したが、それはわれわれ民族文化自身の発展の必要性から出発したものだった。国学の台頭は西洋文明によって生じた問題を反省することであり、同時に伝統文化の反省と交錯する中で生まれたものであり、主に自身の文化の主体を向上させるためだった。従って、その出発点から提唱、呼びかけに至るまで、形式や内容がどうであれ、いずれも非功利的なものだったのである。

だが、現在の国学熱は違う。その形式や内容は、往々にして功利性を考慮したものだ。

個人的には、携帯電話による国学のショートメッセージは一種の文化産業としての運用だと考えている。国学の基礎知識を現代技術に応用して生まれたものであり、我々が言う国学とは一つの文化産業である、ということの証左だと見なしてもいいだろう。

現在、我々がしっかりと見つめなければならないのは、国学熱は結局、一種の表象なのか、それとも文化の発展過程での主動的な追求なのか、ということだ。

国学の出現は、近代化された国家が追求する過程において、西洋文明だけでは解決できない問題であり、伝統文化だけでも駄目だ、ということを我々は認識した。従って、本当の国学はこうした矛盾を解決する上で独特の役割を果たすことができるのであり、この様な国学においては功利追求を目標にすべきではない。

◆北京の学者・除友漁氏

率直に言えば、現在の国学ブームに見られる様々な現象の中で最も不満に感じるのは、追求と伝授を超えた傾向があることであり、あれこれと大げさに騒ぎ立てる姿勢だ。“ブーム”を助長している人が多いが、彼らは言辞にたけ、陰に隠れて没頭しているだけに過ぎない。宣言をしたり、会議を開いたり、対話集または取材談話録を作ったりするのに熱心で、ひいては、“会合”や“サミット”などといったものを行ったりするのに熱心だ。そのどこが儒学の弟子の様なのか。まさにPRマネージャー、セールスマンまたはテレビ番組のキャスターだ。

現在の国学ブームに商業化、利益追求への芽が育ち始めていることは、不安を感じさせる。例えば、北京大学哲学学部が開設した「乾元国学教室」は、参加者の多くが企業の社長であり、年間授業料は2万4000元。これは、古代の聖賢が教え導いた「その誼を正すにその利を計らず、その道を明かすにその功を計らず」の反対を行くものだ。

最近オープンした「中国国学倶楽部」に至っては、明らかに国学ブームに乗じたものである。このクラブでは学生は企業家または中高管理者でなければならない、開設したのは企業管理者専門の課程だ、と宣伝している。これが国学クラスなのか、それとも国学の看板を掲げたカネ儲けクラス、名誉を盗み取るクラスなのか、私には分からない。

◆北京師範大学中国語学部院生・呉明氏

国学は、幾つかの文を暗記するだけで理解できるものではなく、決して風流人ぶるために学ぶものでもない。携帯電話のショートメッセージで国学の一部の名句を知るのは、知る、ということに過ぎず、本当に国学を学びたければ、教典をしっかりと研究する必要がある。

◆北京大学国学研究院々長・袁行霈氏

国学は数千年にわたり蓄積されてきた内容の非常に豊富な学問であり、実用主義の姿勢で接してはならない。国学から商工業管理や金融、経済、PRなどに役立つ一部の技巧や方法の模索に応じるだけだったら、それは全く単純化したものだ。