2006 No.26
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「天の鉄道」がわが家の前を

――好奇心、心定まらない、興奮……。この壮大な鉄道に対する沿線住民の思いは複雑だ。

馮建華

青海・チベット鉄道が開通した7月1日の前日、私は車で鉄道沿線全域の取材を始めた。全行程約2000キロ。日数は12日。沿線住民はこの鉄道をどう見ているのか、どんな影響をもたらすのか、を理解するのが取材の目的だ。

「汽車は飛ぶようだ!」

「家の前に鉄道が開通」。多少恥ずかしそうに話すチベット族の中学2年生、16歳のピンツォトウタン君は興奮気味だ。

「汽車は飛ぶようだ!」。彼の口からすらっと出た。その口調は少しもオーバーではない。

ピンツォトウタン君は16歳。チベット自治区堆竜徳県に住む牧畜民の息子だ。家は区都のラサからわずか30キロ。彼は汽車を見たことがない。長い速い汽車は新奇な存在だ。

彼のような思いは、村では普通だった。周りにいた子供たちも汽車は見たことはなく、ましてや乗ったこともない。汽車が連れて行ってくれる外の世界に憧れている。鉄道が家の前を通ると知った時、村人のほぼ全員が現場に押し寄せたという。汽車という神奇な大物を一目見たかったのだ。

着ているものは現代的だ。ほかの子供たちもそうだ。長年、チベット族牧畜民の子供は父母と同様、チベットパオ(裾の長い服)を着ていたが、今ではそんな姿をしている子供は少ない。

「汽車がない時は、チベットを出るのは大変だった。でも今はあるので、汽車に乗って内地の大学に行き、視野を広げたい」。鉄道の開通は、遠方への夢をかき立てる。だが彼の45歳の伯父、スジュさんの気持ちは複雑だ。

「トンネルが我々の山を突き抜けたので、不幸なことが起きるかも知れない。鉄道の開通で、家が振動で壊れるのではないか」。スジュさんは真剣な表情になった。「でも、チベット全体から見れば、鉄道は良いことだ。経済がすごく遅れているので、鉄道によって経済は発展していくだろう」。

鉄道のおかげで結婚

青海・チベット鉄道は総延長1956キロ。2区間に分けて工事は完成した。青海省の省都・西寧〜昆倫峠のゴルム間は1979年9月に線路を敷設し、1984年5月1日に正式開通。資金や技術的問題から、ゴルム〜ラサ区間はそれから22年後の2001年6月に着工した。この間、ゴルムはチベットから外に向かう交通の要衝となり、大量の物資はここからチベット内に運ばれた。

ゴルムは蒙古語で「河川が密集するところ」の意味。鉱物資源は非常に豊かだ。面積約5600平方キロのチャルハン塩湖があり、国内最大のカリウム肥料の生産基地でもある。年間生産量は400万トン超。鉄道開通後、豊富な資源は汽車で全国各地に運ばれるようになった。わずか20年余りの間に、青海・チベット高原の奥地に位置するゴルムは、遊牧民が羊を放つゴビから活力溢れる新興都市へと急速に変貌していった。

ゴルム育ちのウランさんの鉄道への思いは他の人と違う。汽車が開通した年、彼女は念願のドリンハ市の衛生学校に合格。3年間、往復汽車を利用したので、鉄道への思いは自然強くなった。だが、彼女の同級生のホンインさんは不合格で、帰郷。しばらくして、汽車がゴルムまで延び、地元政府は駅員を募集。激しい競争を制して採用され、のちに彼女と結婚した。

汽車は将来の生活の希望

バルドゥンさんは37歳。蒙古族の遊牧民。15平方メートほどのパオは、鉄道から約200メートル離れた小さな渓谷に張られている。ゴルム市からは100キロ余り。家から汽車が疾走する姿を眺めることができる。世の中のいろいろなものを見てきたバルドゥンさん。彼の鉄道に対する思いは「愛」、「憎しみ」とも言っていいだろう。

彼は2月にこの地に来た。現在飼育する羊は約300頭。鉄道はこの遊牧地を横切っているのだ。「鉄道は羊を妨げることになった。鉄道は便利をもたらしたが、羊たちがすぐにそれに慣れるのは難しい。いつも鉄道の上を走り回るので、大変心配だ」

バルドゥンさんの生活は非常にシンプルだ。朝6時に起床後、子羊にミルクをやり、9時頃に朝食を終えて放牧に出る。戻るのは午後6時。放牧している時の最大の趣味は、ラジオを聴くこと。「広大はゴビでは聴けるチャンネルは限られています。聴ける番組を聴いています。一番多いのが経済関係の番組です」。パオに簡単な太陽発電機が置かれていた。明かりを取るだけで精一杯なので、テレビはない。彼は毎日、ゆったりとした長い夜を過ごしている。

バルドゥンさんは「遊牧民は高圧の発電機を備えられるようになり、夜はテレビが観られるようになりました。だが私は不精なので、まだ取り付けていません。いつもあちこちを遊牧しているので、壊したらいけないので、持ち運ばないことにしています」と話す。

彼の年収は約2万元(1元約14円)。西部の遊牧よりはるかに多い。昔と比べれば、生活はずっと良くなった。

「生活条件はいいですが、本当のことを言えば、こんな単調な遊牧生活は送りたくないのです」と、彼は率直だ。実際、外的な要因もある。鉄道開通後、国が青海・チベット高原の生態保護を一段と強化するようになったことから、耕地の森林化が一段と進み、定住を奨励するようになったため、遊牧できる範囲が縮小しているのだ。

彼は「私たちも長期的な計画が必要で、言えば、現在は資本蓄積の過程なのです」と強調。詳細に検討して、将来は汽車を利用して生活するようにする。鉄道の開通で輸送コストは下がり、できる商売が増えると言うのだ。「この数年、定住する遊牧民は増えています。はっきりとは決めていませんが、汽車を利用して、レンガなどの建材の商売をしたらどうかと思っています」

鉄道による悩み

鉄道開通後、マジョンチャンさんは沿線で運輸業を始めた。ゴルムからラサまで貨物を輸送し、帰路に客を運ぶようになってすでに5年余り。

彼は「最初は、商売がどんなものか考えもしないで、1日に何回も往復したことがあります。実際、結構稼いでいますよ」と笑った。

だが鉄道開通後、汽車を利用する人が増えるので、商売は順調でなくなるだろう、とため息をつく。でも、もう心の準備ができているようだ。「本当にだめになったら、故郷に帰ってやり直しますよ」

マゾンドさんは、名勝の玉珠峰が眺められる鉄道沿線で食堂を経営している。彼の夢は、玉珠峰の下に展望台を造り、18キロのところに旅客輸送センターを建設し、多くの観光客を誘致することだ。「これは夢に過ぎませんが、実際はどうでしょうかね。今は1歩先を見て歩くだけです」。サングラスをかけてユーモアな表情をしながら、マゾンドさんは肩をそびやかせた。

●関係資料

青海・チベット鉄道の略史

※1919年前後:孫中山は20万字近い名著「建国の方略」で初めて、鉄道建設の大胆な構想を打ち出した。

※1943―1945年:鉄道の基点区間(甘粛〜青海)で実地調査を開始し、断面図を作成。国力と技術的問題から、その後の50年間、鉄道は1つの概念に過ぎなかった。

※1955年:中央政府は道路と鉄道を建設するため、鉄道部にチベット調査を指示した。

※1956年1月:鉄道部は蘭州〜ラサまでの約2000キロの鉄道について、全面的な測量・設計作業を開始した。

※1958年9月:西寧〜ゴルム間で建設に着手。国務院は青海・チベット鉄道工事局を設立した。

※1960年6月:工事局を廃止した。

※1961年3月:工事は全面的に中止された。

※19737月:西区間のハルガイ〜ゴルム間の652キロの工事再開を決定した。

※1974年3月:同区間で工事が始まった。

※1978年7月:技術的な問題から、鉄道建設は再び中止されたが、西区間はほぼ完成した。

※1984年5月1日:西区間で運行を正式に開始した。

1997年5月・9月:鉄道部は専門家を組織して4案について検討。意見の違いが大きく、議論は2000年初めまで続いたが、実施計画がまとまり提出された。

※2001年6月29日:ゴルム〜ラサ間で工事に着手した。

※2005年10月:全線で線路敷設作業が終了した。

※2006年7月1日:1年前倒しで正式運行を開始した。