2006 No.26
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歴史を正視し、未来に目を向け、
中日友好を永遠に

先ごろ遼寧省の葫蘆島市で、日本人帰還60周年記念大会が催された。

百万人にのぼる日本人の帰還は重大かつ歴史的な出来事だ。1945年、日本政府は無条件降伏を宣言。「ポツダム宣言」の精神に基づき、原則的に中国にいる日本人と捕虜はすべて日本へ帰還されることになった。当時、中国東北各地に在留していた日本人と捕虜の数は約145万人。中国人民は人道主義立場から、自らも傷を負い、食物にありつけない状況の中、多くの財力、物力と人力を投入し、日本人を母国に帰還させた。そのうち葫蘆島港から日本に戻ったのは105万人にのぼる。

それから60数年の歴史が流れた。戦争の煙は消えたものの、戦争の悲惨さは体験者の脳裏に今でも深く焼きついている……。

この重大な歴史的出来事を記念し、中日両国人民の相互信頼と理解を増進し、両国関係を改善し発展することを目的に、「葫蘆島百万人日本人帰還60周年記念大会」と関連行事が中国人民対外友好協会と遼寧省政府の主催、葫蘆島市政府の協力で6月24日から26日まで葫蘆島市で催された。

帰還60周年回顧・中日関係展望フォーラム

25日午前、会場となった葫蘆島市学術報告ホールは内外のメディアと日本の参加者で埋め尽くされた。そのうち60年前に日本に帰還した生存者とその家族、犠牲者の遺族、日本各地で中日友好運動に携わる日中友好協会々員を含め、20代から90代までの老若男女は180人を超す。

9時、帰還60周年回顧と中日関係展望フォーラムが開幕。

カメラ・陳 イ

唐家セン国務委員と日本の村山富市元首相がそれ挨拶に立った。

唐国務委員は「歴史を鑑とし、未来に目を向けて世々代々、中日友好を推し進めよう」と題して次のように述べた。「中国政府は中日関係を重視し、中日友好の方針を常に堅持している。中日関係の発展は、両国民に巨大な利益をもたらし、アジア太平洋、さらには世界の平和と安定、発展にも重要な貢献を果たした。中日関係はすでに、世界において最も重要な2国間関係の1つとなっている。近年、中日関係は深刻な政治的障害に直面しているが、これは中国の政府と人民の望まないことであり、多くの日本の人民と有識者も望んではいない。われわれは、日本の指導者が、歴史と人民と未来に対して強い責任を負うという姿勢をもって、正しい決断を下し、両国関係をめぐる政治的障害を取り除いて、中日関係を正常な発展の軌道に戻すことを希望する。これは両国人民の根本的利益に合致しており、国際社会が広く期待しているものでもある」と。

村山元首相は「現在の『政冷経熱』という日中関係は憂慮に堪えない。日本政府には、一衣帯水の隣邦である中国との関係およびアジア諸国との関係に真剣に対処するよう期待したい」と強調した。

10時半から始まったフォーラムでは、陳昊蘇・中国対外友好協会々長、村岡久平・日中友好協会理事長、穂苅甲子男・信州葫蘆島友の会々長、国弘佑子・劇作家国弘威雄氏の夫人がそれぞれ講演した。

カメラ・陳 イ

村岡理事長は「日本軍国主義は近現代において、中国の広範な地域で侵略行為を行い、実に甚大な被害を中国の人々に与えたのであります。私たちはこの歴史の事実を忘却してはなりません。今日、この地に立ち、博愛の精神で日本人の祖国帰還にあたられた姿を思い起こすにつけ、一層その思いを深くするものであります」と述べた。

さらに村岡理事長は「現在の日中関係は決して良好ではありません、冷え込んでいる主要な原因は、我が国の小泉首相が靖国神社参拝を続けていることにあります。日中友好協会は去る6月16日に東京で開いた定期全国大会で『我が国の首相に対し、日本と中国との外交関係を重視する立場に立ち、日中関係の望ましい発展を考慮して、8月15日を含む首相在任中の靖国神社参拝をとりやめるよう要求する』との決議を採択しました」と強調。

穂苅会長は、葫蘆島に熱い思いを寄せる長野県の帰還者を主体に結成した「信州葫蘆島友の会」について紹介。国弘夫人は戦争体験者として、戦争が人々にもたらした災難を痛感し、助けてくれた中国人の善良さと寛容さを謳い、多くの心血を注いだ亡き夫、威雄氏の記録映画『葫蘆島大帰還』の制作過程について語った。

最後に「葫蘆島平和宣言」が読み上げられ、出席者は署名した。

平和を祈る思いを託す

葫蘆島市東南の海に臨む傾斜地(張学良築港記念碑の北側)に、「葫蘆島和平公園」が造られることになった。25日午後、建設予定地は中日友好関係者とメディアの注目を集めた。

カメラ・陳 イ

午後2時、数百羽の平和のハトと風船が空に向かって一斉に放たれると、太鼓が鳴り、音楽が奏でられた。次いで、唐国務委員や村山元首相、津村重光・宮崎(葫蘆島市の友好都市)市長らが鍬入れ式を行った。

完成したばかりの花崗岩の石碑には「日本僑俘遣返之地」と刻まれている。60年前に105万人の日本人がここから帰国の途についたことを示すものだ。植樹されたばかりの60本の松柏は、帰還60周年を意味している。

宮崎市の松本伸男さんは、自ら折った千羽鶴を葫蘆島市の子供たちに手渡した。初めて中国を訪れた松本さんは帰還者ではないが、60年前の不幸な歴史、また博愛の精神で日本人を祖国に帰還させた中国人のことを知り、感激で胸がいっぱいになったと話す。

平和公園は日本に帰還した人たちの「再生の地」であり、中日両国人民の平和を祈る思いが託されている。

世代の友好・永遠に戦わない

記念行事の会場で、中国の軍服を着た一人の日本の年配者に目が止まった。

長野県安曇野市に住む幅敬信(はばよしのぶ)さんで、今年82歳。「なぜ中国軍隊の服装をしているのですか」とたずねると、「私は中国人民解放軍だよ」、と大声で笑った。

1930年代、日本は中国東北地方を占領。日本政府は「満州国」を成立させるため、多くの日本人をこの地に移住させた。

 

カメラ・陳 イ

幅さんは17歳の時、家族とともにハルビンに渡り、ハルビン農業公社で小麦を栽培するなど、農業に従事した。

1945年8月8日、日本は敗戦となり、軍隊の大部分は日本に帰還。だが、100万人余りの日本人住民は置き去りにされて難民となり、誰もが不安に駆られた。幅さんも避難する人の群れの1人となった。

中国人はこうした日本人に危害を与えることはせず、人道的立場から、援助の手を差し伸べた。中国人から食べ物をもらったり、お金をもらったりして、命を取り留めたのだ。

1946年冬。砲弾の操作に熟知していた幅さんは中国人民解放軍に従軍。第四野戦軍第四四軍傘下の中隊の小隊長となり、中国人との間で強い友情を育んだ。

そして1953年。幅さんは7年間の軍隊生活を終えた後、58年に母国に戻った。

今回の行事に参加した感想について、幅さんは「日本の侵略戦争は中国人民の数千万人の命を奪っただけでなく、日本人民にもかなりの被害をもたらした。現在、日本と中国では3人に2人が戦後生まれだから、『葫蘆島大帰還』のような歴史を彼らに、特に若い世代に伝えていくことが大切だ。日中両国が世々代々、友好的につき合い、永遠に戦わないよう心から祈る」と話すと、感極まった表情をみせた。

26日、内外のメディアと訪中団は葫蘆島市を見学し、市民と交流会をもった。

短い期間でも、葫蘆島市はずっと友好的な雰囲気に包まれていた。

平和共存、代々友好、素晴らしい未来を切り開く。これは葫蘆島市民の願いだけでなく、中日両国の人たち共通の願いでもある。

(陳 イ)