2006 No.29
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唐山地震で被災した人々は今

――唐山地震は1976年7月28日午前3時42分53秒に起きた。それからすでに30年。今、被災した人々はどんな生活をしているのだろうか。

馮建華

「太陽に幸せを感じる」

李玉林さんは唐山地震の罹災状況をいち早く中央政府に報告した貢献者だ。職場から授与された「英雄」の称号の表彰状がリビングに掛かっている。李さんは73歳。30年前の地震発生時の記憶は今でも鮮明だ。

前日の27日、唐山鉱業労働組合の副会長だった李さんが家に戻ったのは夜11時過ぎ。熟睡していると、妻に揺り動かされた。外を見ると電光が光り、猛烈な地響きが起こった。「今思い出しても身の毛がよだつようです」。地震だと悟ったが、逃げるのはすでに間に合わず、妻を引っ張ってベッドの下に身を隠した。3人の子供を起こすことさえできなかった。

20秒後に家は崩れ落ちた。幸い、洋服ダンスが屋根を支えたその隙間から急いで脱け出し、次いで妻と子供も廃墟から救い出したが、大きな怪我は負っていなかった。

彼らを落ち着かせると、李さんは鉱区に走った。気がかりだったのは、地下で作業をしていた2000人余りの労働者の安否だ。「当時は真っ暗闇で怖かった。心臓の鼓動が聞こえ、世界に自分しか残っていないような気がしたものです」と李さん。レールはS字形に曲がり、2メートルの高かさまでアーチ形に盛り上がったレールもあったと言う。労働者が無事であることを知った李さんは、実情を党中央に報告することが最重要だと考え、鉱区の救急車で北京に急いだ。被害状況を直接報告したことで、政府は間髪をいれず軍隊を派遣し救援に乗り出すことができた。

交通・通信手段が完全に遮断されたため、唐山の現状はなかなか把握できず、また救援活動は素手に頼るしかなく、救助の遅れで亡くなった人も少なくない。

「北京に第一報を知らせた時、中央政府に500台のクレーン車の出動を要請すればよかった。そうすれば、多くの人を救うことができたはずだ」。この30年来、李さんは自分の粗忽さを深く後悔し、自責の念にとらわれてきた。

李さんが家族と再会したのは地震から3日目。その時、14人の親戚が命を落としたことを知らされた。

「悲しい過去のことは思い出したくもないですね。毎朝太陽が昇ると、いつも幸せを感じますよ」。生来、楽観的な李さんは相好を崩した。

「命を再び取り戻した」

現在、王瑩さんは58歳。当時は唐山第九中学で教師をしていた。自らの境遇を語ると、気持ちがコントロールできないのか、涙を流した。

王さんは地震で両足を失ったが、娘と夫は無事だった。障害を負っても、気丈な王さんは教師の仕事を続けた。だが、後遺症で常に手の指をかむほどの痛みに襲われた。周りに人がいないと、大声で叫び、泣きながら歌を歌って自分を慰めたと言う。

だが、王さんにとってそれ以上の痛みは家庭内にあった。夫の浮気だ。数年後に離婚。一人娘を立派に育てると心に誓い、今まで以上に仕事に情熱を傾けた。彼女にとって娘は精神的な支えだった。

1998年に退職。娘は就職。この頃から王さんは痛みに耐え切れなくなり、唐山市の「地震下肢障害療養院」を訪れた。市政府が地震で下半身が麻痺、あるいは下肢を失った患者を対象に設立した専門の医療福祉施設だ。

治療の術がなくなった王さんは病床で、返事がなくとも元々という気持ちで、市共産党委員会に嘆願書を送ってみた。ところが、市政府はすぐに支援すると表明、北京で手術を受けることができた。現在、痛みはほとんどないと言う。

「命を再び取り戻したようです。大変な時は我慢していました。今は、何も求めるものはありません」と王さん。

「唐山から離れられない」

父と母が亡くなった時、劉宏さんはわずか9歳、弟は7歳。地震が起きた時の状況はほとんど覚えていない。ただ、「夢のなかの戦争」のような感じで、目が覚めると瓦礫の上に横たわっていた。

その後、劉さんは父方の祖母と、弟は母方の祖母と生活する。祖父は劉さんにこう告げるだけだった。「お父さんとお母さんは、遠くの地に人を助けに行ったのだよ。すぐには戻って来ることはできないのだ」。劉さんはすでに予感していた。父母は間違いなくこの世の人ではない、と。ただ、それ以上聞こうともせず、それ以上考えることもしなかった。

劉さんは勉強に全力を挙げた。言葉数が少なくない、殻に閉じ込もるようになった。だが、高校に入ると、閉ざしていた心の扉を次第に開くようになり、友達とつき合うようになった。

これも運命なのだろうか。劉さんは父親の母校である河北医科大学に入学。これは祖父の最大の希望だった。卒業後は、父親が生前勤めていた唐山工人医院に就職。

「父の記憶はあまりありません。ただ、厳しかったのは覚えています。父に近づいているような気がします」。そう話す劉さんの目に涙が。しばらく黙っていたが、気を取り戻したようだ。

劉さんは2001年12月に米国に留学し、神経学を専攻した。そして2005年2月に帰国。その間に父親になった。米国に残ることもできたが、故郷を思う気持ちが強く、帰国を選択。再び父が勤めていた病院に復帰した。

「唐山からは離れられないですね。気に掛かることもあるし、強い思いもありますから」。劉さんは笑みを浮かべた。

「すでに満ち足りた」

王宝さんは19歳の時、地震で下半身が麻痺した。面倒を見てくれる人がいなかったので、地震下肢障害療養院に収容された。

唐山地震では、王宝さんのように体に障害を負った人は3817人に達し、後半生を車椅子で送る生活を余儀なくされている。

施設での生活には不満や問題はない。ただ、それでは気のすまない王さん。仕事を探し、車椅子で毎日勤務先まで通った。「ふがいない生活が嫌だったのです。もっと生き生きと生活したくて」と王さん。

3年後、今の奥さんの朱徳芹さんと出合う。彼女も5歳の時に地震で下肢を失い、父母も亡くし孤児となった。

王さんはスポーツ愛好家で、海外試合にも何度も参加している。「妻の支えがなかったなら、続けられなかったでしょうね」。妻への思いは深い。

市政府は1991年、40万元を拠出し、さらに社会からの募金80万元を充てて地震による障害者専用のコミュニティーを建設、「リハビリ村」と名づけた。住宅は26戸。同年、市民生局は10組の障害者を対象に集団結婚式を主催。王さんと朱さんも参加した。

翌年、王さん夫妻はコミュニティーに引っ越した。

二人の日常生活は淡々としている。王さんは外出することが多いため、妻に子犬を買ってあげた。それから十数年、ペットには子どもができた。

昨年9月、王さんは検査で肺がんであることが判明した。それも末期がんだ。「本当のことを言って、ここまで生きてこられたのですから、満ち足りた思いです」。王さんの表情は和やかで、悲しみや怒り、重苦しい雰囲気はまったくなかった。

「現実を直視しなければ」

55歳の賈秀雲さんもリハビリ村に住んでいる。地震で夫と生まれて1カ月の娘を亡くした。生き埋めになって12時間後、生息吐息のところを救助され、一命をとりとめた。

1981年、療養院に来た賈さんは2番目の夫となる雷啓才さんとめぐり合う。彼も同様、地震で妻を亡くした。二人ともスポーツ愛好家。次第に心を寄せ合うようになり、10年後の1992年、リハビリ村に家庭を築いた。

だが2000年、夫は心臓病の発作で突然に他界。賈さんは再び苦しみの淵に落とされた。

2003年に障害者の小章さんと再会。彼はまだ独身。二人は療養院に入院したことがあり、互いに理解し合っていた。そして結婚へ。生活は非常に質素だ。

歳月の流れとともに、亡くなった娘の顔もおぼろげになっていく。30年前の地震の話をしても、賈さんは昔ほど悲しむことはなく、あと数年生きられれば、非常にうれしいと話す。「この30年は大変でした。現実を直視しなければいけません」