2006 No.36
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>> 中国の博物館

故宮博物院

故宮博物院は明・清両王朝の宮殿建築と宮廷収蔵を基礎として設立した総合的な国立博物館である。北京市の中心に位置しており、前方に天安門、後方に景山、東に王府井商店街、西には中南海という昔の皇室庭園がある。同博物院は1961年に中華人民共和国国務院によって指定された全国初の「重点文物保護単位」の一つであり、1987年にはユネスコ世界遺産に認定された施設でもある。

中国古代の星象学では、紫微垣(北極星)は天の中心であり、天帝の居住するところである。天人対応の思想によれば、人間の皇帝が居住する皇宮は天上の紫微宮に相当する。そのため皇帝の皇宮を紫禁城と称するのである。明の第三代皇帝である朱棣は帝位を奪ったのち北京に遷都することを決め、紫禁城宮殿を建て始めた。明の永楽l8年(1420)、この宮殿は完成した。1911年の辛亥革命によって封建帝制最後の王朝―清王朝が倒れ、退位した溥儀は1924年に紫禁城を追われた。この500余年の間、24人の皇帝がここに住み、中国全土への統治を行なったのである。

紫禁城は南北961メートル、東西753メートル、敷地は72万平方メートルの規模を誇る。高さ1Oメートルの城壁に囲まれ、その外に幅52メートルの濠がめぐらされている。四面に城門があり、南の午門は現在、参観者の入り口であり、北の神武門は出口となっている。紫禁城には、南北に通る中軸線に沿って宮殿建築が配置され、左右対称につくられている。赤い壁に黄釉の瓦をいただき、柱や梁の表面は文様や彫刻で埋められ、きらびやかである。数多くの宮殿や楼閣からなる建築群は、壮麗で、雄偉である。朝日と夕暮れの中の紫禁城は幻想世界のようで、ひときわ美しい。

紫禁城は前朝と後寝のニつの部分に分かれる。前朝は太和殿、中和殿、保和殿を中心とし、左右に文華殿、武英殿を配している。ここは皇帝が国家の行事を行ない、政治活動をする場所である。後寝は乾清宮、交泰殿、坤寧宮、東西六宮、御花園を中心とし、東側に奉先殿、皇極殿、西側に養心殿、雨花閣、慈寧宮などを配している。ここは皇帝と后妃たちが居住し、宗教活動を行ない、日常の政務を取り扱う場所である。建築面積が延ベ16万3千平方メートルに達する宮殿建築群はうまく配置され、整然としている。その一つ一つの建物は封建的礼制によって建てられ、封建帝王の最高至上の権威を現わすものである。このため昔は、民衆が紫禁城に近づくことは許されなかった。

辛亥革命の後、紫禁城宮殿は国有にすベきであるが、「清皇室優遇条項」によって、退位した皇帝溥儀が「暫居宮禁」を許され、後寝に住み続けた。当時の政府は、承コ行宮と瀋陽故宮の文物を紫禁城の前朝部に移し、1914年に古物陳列所を開設した。後寝に居住する溥儀が清の残党と結託して復辟の夢を見ながら、恩賞、抵当、補修などの理由で宮内の文物を大量に盗んだ。社会各界の人々の関心の中で、1924年、馮玉祥が国民軍を率いて北京に入り、溥儀を紫禁城宮殿から退去させた。「清室善后委員会」が発足し、故宮の接収、宮廷文物の点検を行なった。そして一年間の準備を経て、1925年1O月1O日、故宮博物院発足儀式が乾清門前の広場で盛大に行なわれ、故宮博物院が正式に成立したという公開電報が全国各方面にあてて発信された。一般公開の初日、紫禁城の神秘な宮殿と皇帝の秘宝を見ようとする人々で交通が渋滞し、大変な賑わいを見せ、その日の様子は各新聞のトップニュースとなった。

1925年に出版した「清室善后委員会点検レポート」によると、当時の文物は総数117万件を超え、三代鼎彝、古代玉器、唐・宋・元・明各時代の晝と絵画、宋・元代の陶磁器、七宝、漆器、金銀器、木竹牙角匏彫、金・銅製の佛像、織物、装身具、家具などが含まれ、まさに天下の珍宝が集まっていた。その他、大量の図書典籍、文献資料もあった。故宮博物院は、古物館、図書館、文献館を設け、各種文物の整理をするとともに宮殿内に展示室を開設し、多様な陳列を行なった。また、多種の出版物を出し、多くの歴史資料を公開した。

第二次世界大戦全面勃発の直前、日本帝国主義が中国東北地方を併呑し、華北地方に迫った。故宮の文物を戦火と日本帝国主義の略奪から護るために故宮博物院は重要文物を南方ヘ疎開することにした。1933年2月から5月までの間、13,427箱と64包の文物は五つに分けられ、上海、そして南京に運ばれた。南京で文物倉庫を建て、故宮博物院南京分院を設立した。1937年、盧溝橋事件が発生し、抗日戦争が全面的に始まった。南京に置かれた文物は再び運び出され、三つのルートでそれぞれ四川省の巴県、峨嵋山、楽山に送られた。抗日戦争勝利後、南遷文物は重慶を経て、南京に帰った。中国人民解放軍が揚子江を渡る直前の1948年末から南京国民党政府は南京の倉庫から2,972箱の文物を選んで台湾に運んだ。その後、台北市士林外双溪で博物館を建て、一般公開を始めた。1949年以後、故宮博物院は一万箱余りの南遷文物を南京から少しずつ取り戻した。残った2,221箱は南京博物院に頼んで保存してもらった。戦争中、故宮の大量の文物は困難な道を辿ったが、故宮職員の粘り強い努力で紛失や損失が一切なかった。しかしながら、今日に至っても完全に故宮に戻ることなく、別々の状態になっている。この状態はいずれ終わると思われる。というのは、故宮コレクションは本来分割できない統一体だからであり、それらは紫禁城建築と分離できるはずもないのである。

文物の面では、故宮博物院は五、六十年代に清代宮廷の旧蔵品をあらためて点検登録した。過去の記録のミスを直し、漏れを補った。例えば、廃棄物の中に薦で包まれていた象牙筵、漱芳斎舞台の下に置かれていた唐代蘆稜伽のものと見られる「六尊者像」という冊等の文物が発見された。文物に対する鑑別、分類も行ない、より正確な文物資料ができた。十数年の整理で清代宮廷の旧蔵品が71万件以上あると分かった。その他、募集、購入、個人寄付を通して社会から広く文物を集め、新たに22万件以上の文物を収集した。それで、製造時代、種類における故宮収蔵品の不足を補充した。例えば、石器時代の彩陶、商・周時代の青銅器、玉器、漢代の陶俑、南北朝時代の石像、唐代の三彩などである。最も人々の注目を集めたのは数多くの古代の書と名画である。中には、晋代陸機の「平復帖」、王cの「伯遠帖」、顧ト之の「洛神賦図巻」、隋代展子虔の「遊春図巻」、唐代韓滉の「五牛図巻」、杜牧の「張好好詩巻」、五代顧中の「韓熙載夜宴図巻」、宋代李公麟の「臨韋偃牧放図巻」、郭熙の「 石平遠図」、張擇端の「清明上河図巻」等があり、どれも精品で、宝である。故宮博物院の文物収集は数十年続いてきた。近年では、大金で宋代張先の「十詠図卷」、金代迺賢の「城南詠古詩」、明代沈周の「倣黄公望富春山居図卷」、清代石涛の「高呼と可図」等を買い戻した。この中の「十詠図卷」と「城南詠古詩」は溥儀が褒美として溥杰に与えたもので、宮中から民間に散逸した文物である。

陳列展覧の面では、太和殿、中和殿、保和殿及び后三宮、西六宮などの原状陳列以外に、青銅器館、陶磁器館、工芸美術品館、絵画館、珍宝館、鍾表館などの文物陳列がある。また、さまざまなタイトルで期間限定の展示を行なう。近年では、「古書画真僞対比展」、「古陶磁真僞品対比及び古窯址資料展」、「清代宮廷包装芸術展」、「五十年入藏文物精品展」などがあり、いずれも社会各界から好評を受けた。その他、国内外のほかの博物館の収蔵品の展示も行なう。また地方や外国の人々の要請に応じて各省、市博物館での小規模の故宮文物展や、外国でのさまざまな形の故宮文物展を開催した。改革開放以来、外国での故宮文物展が増え、これまでイギリス、アメリカ、フランス、旧ソ連、ドイツ、オーストリア、スぺイン、オーストラリア、日本、シンガポールなどの国で展覧会をしており、それぞれの国の民衆から大きな関心を得た。外国での故宮文物展は中華民族の悠久の歴史と絢爛たる民族文化芸術を世界の人々に紹介し、各国民衆との友好往来と文化交流を大いに促進している。

この十数年来、故宮博物院が受け入れた国内外観光客の数は年間6OO〜8OO万人であり、観光業の発展に従って増加傾向にある。