2006 No.45
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僕にもできる!

――スペシャルオリンピックスは知的発達障害者にさらなる勇気をもって自らの運命と潜在能力の極限に挑戦させ、彼らの人生を徐々に変えていった。

唐元ト

10月14日、19歳の徐闖さんがこの1日に話した言葉は3年前の1週間に語った言葉に比べずっと多かった。

上海でこの日、07年開催の第12回スペシャルオリンピックス夏季大会代表団団長会議の開幕式があった。席上、徐さんは「スペシャルオリンピックスの世界大使」と「スペシャルオリンピックスの世界のリーダー」、主催国代表の身分でメッセージを読み上げ、大きな拍手を浴びた。

「僕は知的発達障害者です。以前は恥ずかしくて、話をするのがいやで、10聞かれても、1つ答えられるとは限りませんでした……スペシャルオリンピックスに感謝しています。話をするのが好きになり、話ができるようになったのです。スペシャルオリンピックスによって僕は積極的に生きるように変わったのです。家族ももう僕のために苦しむことはなくなり、反対に、みんなは僕を誇りに感じています」

彼自身が最も誇りに思うのは、故郷の上海が07年にスペシャルオリンピックスを開催することだ。

「僕にもできる!」。このところ彼が最もよく口にする言葉だ。上海大会のスローガンでもある。「試合の時には、僕たち選手は、君は勝てるし、僕も勝てると言うことにしています。普段は、僕たちは全ての人に、君ができることは僕にもできる、と言っています。これは知的発達障害者の『平等、参加、融和、愉快』という心からの声を表したものです」。徐さんは一字一句、丁寧に説明してくれた。36年前にスペシャルオリンピックスを創設したユニス・ケネディー・シュライバー夫人は選手たちにこう語っている。「みなさんは勝利者です。以前は、いつも私はできないと言っていましたが、今は、誇りをもってできると言うことができるのです」

スペシャルオリンピックスはオリンピック種目に準じて実施されるが、参加できるのは知能指数が70以下で、8歳以上の知的発達障害をもつ青少年と成人。オリンピックが追求するのは「より速く、より高く、より強く」で、人類の極限に挑戦することにある。だがスペシャルオリンピックスでは、参加者がそれぞれの極限に挑戦することだ。

人を変えた

徐闖さんは音楽の名門に生まれた。祖父は上海交響楽団の指揮者、父親はバイオリニスト。中国語の「闖」は「新天地を切り開く」という意味があり、「闖」という名前に父親が願いを託したのは明らかだ。幼いころから音楽的才能を現し、名門の栄誉を引き継ぐことが期待された。だが、小学校に入学した6歳の時、「全ての希望」は突然消え失せてしまう。難病にかかり、中度の知的発達障害者になったからだ。

母親の鮑美琴さんは彼を自宅近くの小学校に入学させることにした。間もなく、母親と体育の教師は彼がスポーツに興味のあることを発見、スペシャルオリンピックス・スポーツチームに入団させた。スポーツを通じて体の機能は絶えず強まり、性格は次第に明るくなり、表現能力も高まり、競技レベルも向上。99年にアジア太平洋地域の30数カ国、約500人の選手が参加した卓球大会で、強豪を押さえチャンピオンになった。

02年6月にアイルランドのダブリンで開かれた夏季大会では、「より良き」を追求する徐さんは2つの使命を見事に達成した。1つは、ギリシャからの聖火を引き継ぐ世界9人の1人に選ばれ、しかも主催国の選手に手渡す最終ランナーになったこと。いま1つは、サッカーチームの一員として、準優勝を果たしたことだ。

04年にはスペシャルオリンピックス大使に。世界に12人いる大使のなかで最年少だ。

大使として徐さんは常に、様々な場でスペシャルオリンピックスを広めるために講演を行ってきた。「スペシャルオリンピックスのリーダー」に選ばれると、講演のための特訓を受けた。「彼は次第に要領を覚え、表現にますます強い自信を持つようになり、評価委員会をうならせました」と指導者は話す。

今年7月10日、徐さんと鮑さんはホワイトハウスに招待され、ブッシュ大統領夫妻が主催したシュライバー夫人85歳の誕生日を祝うパーティーに出席。彼は「2,256,733」の数字が書かれた記念ジャケットを着用した。この数字はスペシャルオリンピックスに参加した全世界の選手数を示したものだ。

鮑さんは「シュライバー夫人が創設したスペシャルオリンピックスは、知的発達障害者の希望に火を点けてくれました。息子のために人生の支点を探し出してくれたり、絶えず成長するよう励ましてくれたり、健康な体と精神を持つことができ、これまで以上に自信と勇気が出てきたようです」と感謝する。

多くの人が参加

中国身体障害者連合会の朴方会長は「スペシャルオリンピックスは最も困難な人に最も大切な関心と支援を与えてくれました。とくに、それが示す精神的な魅力と人道的関心は最も感動的なものです」と強調する。ケ会長はケ小平氏の長男で、「文化大革命」(66〜76年)の初期、まさにこの“身分”のために父親と同様に非人道的な迫害を受け、半身不随となった。ケ会長は83年から、身障者事業と人道主義の発展に力を入れ始めた。「知的発達障害者が人生を送るのは極めて難しく、社会環境と彼ら自身が障害だと言えるでしょう。社会環境は社会全体で解決し、私たちは素晴らしい社会環境を創造して、彼らを敵視したり、嘲笑したり、無視してはなりません。同時に、彼ら自身も必ず勇気を持つことが必要で、スペシャルオリンピックスはまさに彼らに勇気をもたらし、さらに自信を持たせ、社会に向かって歩んでいく新たな希望を与えてくれました」と指摘する。

現在、13億の人口を抱える中国では知的発達障害者は約1300万人。過去の一定の期間、障害をもつ子どもたちは家に閉じこもり、社会と接触したり、社会活動に参加したりすることは少なかった。中国のスペシャルオリンピックス事業はシュライバー夫人が85年に訪れたのを契機に始まり、やがてその活動は北京や上海など大都市の障害者学校で展開されるようになった。

85年6月17日、中国知的発達障害者体育協会が正式に発足し、04年4月1日に中国スペシャルオリンピックス委員会に名を改めた。これまでに国内スペシャルオリンピックスを4回開催。国際スペシャルオリンピックス委員会の会員国になってすでに20年。96年には上海で第1回アジア太平洋地域スペシャルオリンピックスが開催された。中国選手は87年以降、夏季大会は第7〜第11回、冬季大会は第5〜第8回まで参加。00年5月時点で、スペシャルオリンピックスの選手数は当初の5000人から7万6000人まで増えており、6年後の今年はすでに50万人を超えた。ますます多くの知的発達障害者が家を出て社会に入るようになったことで、市民もこうした人々の存在を改めて認識するようになった。

現在、政府はスペシャルオリンピックスをこれまでになく支援しており、直接あるいは間接的に資金投入を増やしている。この数年来、国際スペシャルオリンピックスの協力を得て、政府は養成クラスを設置し、全国31の省・自治区・直轄市からコーチや管理者、父兄、ボランティア数千人が専門教育を受けている。

05年の第8回冬季大会でコーチを務めた鮑靖氏はこう指摘する。「健常者と比べ、知的発達に障害のある選手は訓練を受けると、意志はより強くなり、負けることを恐れない自信を持つようになります。まさに、スペシャルオリンピックスのスローガンが掲げる『全力を挙げて勝利をめざし、勝てなくても、勇敢に試みる』姿を見せてくれるのです」