2006 No.47
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孔子像、標準化は誰のためか

孔子生誕2557年の記念日(9月28日)を控えた23日、中国孔子基金会(以下「基金会」と略称)は孔子の古里の山東省曲阜で全世界に向け、高さ255.7センチ、青銅製の立体彫刻を孔子の「標準像」にすることを最終決定したと正式に発表した。

基金会の張樹秘書長は「標準像は歴史に基づき、一般に慣れ親しまれたイメージを尊重し、唐代の呉道子が描いた『孔子行教肖像』を参考に、歴代の孔子像の作品に見られる優れた要素を最大限に吸収して、形と精神の統一を目指して設計したものだ」と強調した。

基金会は1984年に中央政府の認可を得て設立された非営利の学術団体だ。学術界を組織して孔子、儒家と中国の伝統的な文化と思想を普及、研究するとともに、法律に基づいて国内外から各種の寄付を受理、管理する責任を担うことがその趣旨である。

今年1月、基金会は孔子の「標準像」を作製することを決定した。その後、絵画・彫刻作品を幅広く収集した上で、儒学の専門家や歴史学者、彫刻や絵画などの芸術家、孔子の末裔などを組織して設計案の策定に着手。6月には意見を聴取するため原案を内外に向け発表した。最終案は彫刻専門家が各方面の意見を反映させて修正を加えたものだ。

基金会の王大千副秘書長は「標準像を作ることにしたのは主に、国内にはさまざまな形の孔子像があり、なかには孔子を神格化したり、醜悪化したりしたものもあるからだ。曲阜で売られている観光記念品でも、孔子のイメージは異なり10数種もある。工場によっても塑像はそれぞれ違い、同じ工場でさえも異なる像を作ることがあるほどだ」と説明する。

「孔子は中国の歴史と文化の名刺のような存在であり、その学説に関心を寄せ、賛同する人々は世界各地で増え続けている。だが、孔子のイメージが統一されていないことは、世界範囲で公認されたイメージを樹立する上でマイナスとなる」と、張樹秘書長は指摘する。

「標準像はあり得ない」との批判に対し、孔子75代目の孫にあたる孔祥林氏(孔子研究院副院長)は「標準像は非常に必要である。イメージの不統一は、中国人にとってはたいした問題ではないかも知れないが、外国人にとっては大きな問題だからだ。イエスには顔が数十種もあるだろうか。孔子に千面あったのでは、外国人はどれが真の孔子だか分からないだろう。対外交流が拡大するにつれて、統一的な孔子像の作製が必然の流れとなっているが、これは非常に必要なことだ」と真っ向から反論する。

商業PRではないかとの一部学者の懐疑論に対し、基金会は「商業的な目的はなく、主に孔子の文化の対外普及に役立たせるためだ」と強調する。

●儒学精神の普及に役立たない

◆李万剛氏(新華サイト):歴史的な記載がないため、孔子のイメージ「復元」はまったく不可能である。どんな形象化された絵画や彫塑であれ、いずれも個人あるいは少数者の理解に基づく「文化的な創作」に過ぎないからだ。孔子のイメージを統一させることはできず、統一させるすべもない。こうした「標準化」というやり方は、一種の文化に対する解釈の権利を独占しようとするもので、かえって孔子と儒学文化の普及の妨げとなる。

今日、基金会と山東省はいわゆる孔子の「標準像」を明らかにしたものの、歴史上の数え切れないほどある孔子のイメージ創作と同じように、これもまた一種の文化的創作であり、現代または自らが付与した権威によってその他の作品より高い真理性を得たものではない。孔子はすべての人のものであり、「論語」を読んだことのある人なら誰であれ、孔子のイメージを「創作」する権力を持ち、どんな人であれ、彼らに孔子のイメージを解釈する権利を主動的に放棄させて、いわゆる「標準」となる孔子を受け入れさせてはならないことを知るべきだ。「標準化」というのは実は、一種の慣性的な文化的思考であり、歴史的にも前例は少なくない。例えば、漢王朝は儒術のみを尊び、明と清の王朝は朱熹の注釈した「四書」と「五経」を標準化した。その結果、文化の多様化された発展は停止し、儒学の経典は教条化されて、生命力が失われてしまった。今日、解釈の権利を独占するような孔子のイメージを標準化するといったやり方は、孔子と儒家文化の真の精神の普及にとって妨げとなるほか、“商品化”された孔子のイメージがもたらす利益を独占する嫌いもある。

◆欧木華氏(正義サイト):確かに、統一された孔子像は文化の普及に役立つとはいっても、両者の間に必然的なかかわりがあることを意味するものではない。でなければ、そういう論理に基づくなら、歴史上のあまたの著名人についても例外なく「標準像」を描くべきではないだろうか。そうしなければ、中国文化をよりスムーズに普及させることはできなくなる。文化は多様性を持つものであり、著名な文化人に対する描写にも多様性がある。ファーストフッド店のマクドナルドのように「統一された」考え方で文化を普及しようとすれば、恐らく正確な普及にはマイナスとなるだろう。例えば、孔子については、その評価は歴史的に毀誉褒貶相半ばしている。「統一された」キャンペーンのためには、単に孔子を称賛する視点を「標準」とする一方で、孔子の思想を批判する視点や孔子自身の弱点は「非標準」だとして取り除くことしかできないとでも言うのだろうか。

また、「標準」の孔子像が実際の段階でもたらすかも知れない一連の影響も懸念される。張樹秘書長が「まさに孔子文化の対外普及に役立たせるために、統一された孔子像を作製することを考えた」と認めているからには、迅速な「統一」という目的を達成しなければならない。それには2つの方法がある。1つは、将来にわたって作られる画像や彫塑に対しては、「標準」を求めることで統一を図る。いま1つは、すでにある「非標準」の孔子像に対しては、「標準」に照らして責任を持って改めさせる。だが、この変更は文化面に大きな災禍をもたらすかも知れない。孔廟をはじめ各種の教科書や彫塑、さらに切手も変更する必要があるからだ。こうした標準化が実行されれば、その結果として、あるいは一部の企業に利益を得る絶好のチャンスが訪れるだろう。だが、孔子の思想の普及にとっては、それは一体、幸いなことなのか、それとも悲しいことなのか。

法治社会では、食品の生産については標準をもとに量産化し、生産技術についても標準的なプロセスを定めることはできても、人々の考え方や文化の普及は「標準」を用いて強制的に統一させることはできないのだ。言い換えれば、いわゆる「標準像」といったやり方では「統一」の目的は決して達成することはできず、ただこの世に孔子の像を増やすだけなのである。

◆廖保平氏(華商報):我々は孔子の標準となる容貌を知るよしもなく、伝えられてきた孔子の画像にどれだけ手が加えられているかも知らないため、総じて言えば、標準を定めるのは難しい。現在、無理に標準を定めようとしている人がいるが、“死人に口なし”とはいっても、多くの標準を1つの標準で統一させようとするのは、賛同を強いるようなもので、一方的な願望でないとすれば、“文化的な暴力”に近いものだと言ってもいいだろう。実際、我々が伝達し普及すべきは孔子の広く奥深い思想であって、孔子がどんな容貌なのかは、孔子のイメージの樹立とはまったく無関係なのだ。

◆魏英傑氏(東方朝刊):基金会の関係者は、「標準像」の作製に商業的目的はないと言っているが、意見聴取書では、像の著作権は基金会に属すると強調していた。また数カ月前にも、「標準像」が正式に決まった後は、それを基準に形態の異なる孔子像を作製し、入札で企業を選別するほか、作品に「中国孔子基金会監製」の字を明記すると言っていた。「標準像」の使用料を徴収するのかとの記者の質問には、王大千副秘書長は肯定するとともに、「徴収は過度に非難されるべきではない」と述べている。

著作権の独占や入札による作製、使用料の徴収などは、基金会が孔子の産業化を狙っていることを明確に物語るものであり、「標準像」の作製は、これによって商業的色彩が濃厚になってきた。これが普通の商業行為であれば、疑義をただすべきでないのはもちろんだ。問題は、基金会の商業行為が孔子の肖像権を独占することでなされるところにある。孔子や儒家文化は全国民が共有する文化的財産であり、もともと著作権などといったものは存在していない。基金会の行為は実質的には、まさに公衆の権利を一部化するものだ。一体、誰が孔子にまつわる文化的権益を独占する権限を基金会に与えたことがあるだろうか。誰が基金会のこうした文化を代表する権利を認めたことがあるだろうか。

また、「標準像」の作製は、孔子を対象にCSI(企業イメージ識別システム)を開発しようとする行為だと見なしてもいいだろう。商業界では、ロゴマークと企業精神を統一するためのCSI導入は、企業の知名度を高める上で効果的な手段だ。しかし、文化交流や文化の普及では、世界で普及する価値を持つ文化であるなら、地域や皮膚の異なる人々がそれぞれの文化を背景に理解しても、もともとそれを懸念する必要などなく、さらには誤解されることを懸念するために「標準化」という戦略を講じる必要もない。さらに言えば、多元化された交流の下で初めて、文化の普及はより深まっていくのだ。文化交流を商業面での交流と同一視して文化の普及それ自体の法則を無視しては、誤った道を歩むのは避けられないだろう。

●過度の非難にあたらない文化的措置

◆張樹氏(孔子基金会秘書長):孔子は世界的に認められた著名な文化人であり、中国史上で偉大な思想家、教育家、儒学の創始者、中華民族の優れた伝統的文化の代表でもあり、中国の歴史と文化の名刺のような存在である。今回、幅広く意見を聴取するなど社会が参与する方法を採用して孔子の「標準像」を塑造することにした。長年にわたるイメージの不統一といった問題が解決されたほか、世界的に認められた孔子の標準的なイメージを樹立することで、孔子文化の発揚と普及に積極的な推進作用を果たしてくれるだろう。同時に、世界に儒家文化を示し、また世界により良く中国を理解してもらう上でもプラスとなる。

この「標準像」は専門家や社会各界、孔子の末裔など多くの方々が賛同したものだ。孔子のヒゲや衣服、履物、装身具、剣などはいずれも歴史学者や文物専門家による考証を経ている。

新しい事物の出現には議論がつきものである。議論するのは良い事であり、意見の違いがないのはかえって良くない事だ。大事なのは、主流となる承認が得られるかであり、伝統的文化の継承と発展に役立つかどうかを見極めることだ。

◆郭齊家氏(北京師範大学教授):中国の地位が向上するにつれ、孔子の国民の間での地位も、民族の自尊心と自信も向上してきた。こうした時に、商業界が参入しても、過度の非難にはあたらないと思っている。オリンピックと同じように、1つのビジネスチャンスであって、関連商品を作ったり、文化産業を発展させたりしてもよく、この面で保守的になってはならない。だが、文化産業は必ず儒家の考え方で運営する必要がある。カネを稼ぐのは許されても、そこには経済的価値だけでなく、社会的価値もなければならない。

◆王大千氏(基金会副秘書長):我々が孔子の「標準像」を制作することにしたのは、国際社会に孔子のイメージを伝えるには「統一された媒体」が必要だという考えからに過ぎず、いかなる場合においても「標準像」を使用することしか許さない、と言ったことはない。我々はそうしないだろうし、そうした強制的な規定を設ける権利も持っていない。

我々が「標準像」の著作権は保留すると重ねて表明しているのは、「標準像」の作製は基金会が自らヒトとモノを投入して、発起から意見聴取、選定、原案の作成、最終案の決定まで、手順に沿って進めてきたものであり、プロセスは合法的で、手続きは完全であり、基金会に属する創作品であるからだ。何をもって著作権は持てないと言うのか。

著作権を強調するのは、ただ一種の主張と権利にすぎず、商業行為に当たるものではない。我々はこの著作権に対しては、有償を主張しても、無償を主張してもいいからだ。自らが自らの文章を発表するかどうかを決めるようなものであり、「独占」するというのは自らの作品に過ぎないからであり、そうできないわけではあるまい。

◆李微敖氏(成都商報):「書同文、車同軌」(本は同様の文字、車は同様の軌道を使う)とよく言われるが、対外交流と普及に役立たせるために「技術的側面」から標準化することは、目に見えた効果を上げるものである。だが、基金会が発表した孔子の「標準像」がこれほど大きな論議を呼んだことに、どれほどの人が考えさせられたことか。

こうしたやり方には「商業化の嫌いがある」、というのが最大の争点だと言っていいだろう。基金会はこれを極力否定し、「決して商業化などではない」と弁明している。しかし私は、いつどこででも暴き責められるこの鋭利な武器である「商業的な嫌いがある」というレッテルなど実際には、たいして気にもしていない。

2005年の「国学ブーム」の間、中国人民大学が率先して設立した国学院であれ、その後に中国社会科学院が開設した儒教研究センター、北京大学や清華大学の国学班や国学教室、李嘉誠氏の出資で設立された国学クラブであれ、いずれも「商業化」だとして非難を浴びた。

商業は文化の天敵ではない。最も古く、最も優れた文化が豊かな経済を基礎に形成されたことはさておき、現在の勢い盛んな欧米文化もハリウッドやディズニー・ランドといったビジネスコートを羽織ってやって来たのだ。中国の空前のクリスマス人気に至っては、やはり商業運営による巨大な成功だと言える。市場経済という大きな背景の下で、ビジネスに対して「ノー」と言いながら国学の復興を切望しようとすれば、痴人に夢を説くようなもので、目的など達成できないだろう。

◆柯暁軍氏(上海華誠弁護士事務所):著作権については、基金会が自ら設計した「標準像」だけを支配するのであれば、異議はない。だが、その前提となるのは、「標準像」があるからといって、他人が孔子のその他の肖像などを使うことを制約してはならないことだ。同じように、事前に基金会の同意または権利授与を得ずに「標準像」を商業目的に用いた場合は、「権利侵害」と見なされることになる。