2006 No.49
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06年の中日関係 ピークへの回帰と路線転換

――2006年、中日関係は一時悪化した時期もあったが、日本の政権交替で、両国関係に春を取り戻そうとする勢いが見えてきた。

(中国国際問題研究所・趙大為研究員)

06年の中日関係を見わたせば、前後2つの部分に分けられる。小泉首相が在任していた9月まで、中日関係は国交正常化以来最悪の状態にあったと言えるだろう。安倍晋三氏が首相になって13日目にすぐさま訪中、いわば「砕氷の旅」を開始した後、中日関係に新たな1頁が開かれた。総じて言えば、06年の中日関係は変化と起伏に富み、苦境の中に希望が見えてくる、といった特徴を呈した。

一.中日関係の基本的な特徴

(一)小泉内閣の9カ月間、中日関係には何度も寒気が吹き出した。

政治面では、ハイレベルの相互訪問が中断した。05年5月に呉儀副総理が訪日して以降、高官の相互訪問はなくなり、国際会議の場でさえも、両国首脳の会談は実現しなかった。中日という二つの影響力のある大国、しかも近隣の国でありながら、長期にわたりハイレベルの相互訪問や深層的な交流がなかったのは、遺憾だと言わざるを得ない。

安全面では、対立的な感情が高まった。日本側は何度も物議をかもすような「中国脅威論」を振りかざした。06年2月に東中国海の石油・ガス田の周辺で米軍と合同軍事演習を行ったが、その矛先はもちろん中国に向けてのものだ。8月1日、日本は06年版「防衛白書」を発表した。中国の軍用機は頻繁に日本周辺に進入して情報を収集している、中国の軍事費は08年に日本を上回る、中国のミサイルは日本の国土をカバーするに十分だなどと書き立て、中国を「現実的な脅威」として位置づけている。

経済面では、協力の熱度が低下した。1〜9月の日本の対中直接投資は32億7000万ドルと、昨年同期に比べ30%減少し、年間の伸び率はマイナスになると予想されている。10月までの貿易額は1685億ドルで、中米間の2145億ドル、中国・EU(欧州連合)間の2189億ドルをはるかに下回った。

中日間の国民感情は一段と希薄になった。06年8月、日本の法人「言論」と中国日報社、北京大学は6月から両国で同時実施した世論調査の結果を発表した。それによると、日本人の36.4%が中国に対して印象はあまり良くない、または非常に良くないと答えており、なんとも言えないが51.5%だった。これに対し、中国人では56.9%が日本に対する印象は良くないと回答している。中国に行きたくないと答えた日本人は43.5%、一方、日本に行きたくない中国人は60.2%にのぼった。両国民の間に互いに好まない傾向が強まっていることが明らかになった。

東中国海をめぐって何度も問題が生じた。東中国海の境界線問題では中日間に原則面で意見の食い違いがある。中国側は、国際法上通用する「大陸棚の原則」に基づいて、中国に属する経済水域は自然、沖縄の海溝まで続くと主張した。一方、日本側はいわゆる「中間線の原則」を主張している。06年上半期、日本は中国の東中国海での石油・ガス田の採掘に対し何度も難題を吹っかけ、いわゆる「抗議」を行った。中国側の石油・ガス田の位置は、たとえ日本のいわゆる「中間線の原則」に基づいたとしても、やはり中国側の範囲内にある。

中日間の多角的な競争はますます顕著となった。日本は対中武器禁輸政策を継続実施するようEU諸国に公けに働きかけると同時に、石油・天然ガスや鉄鉱石などの資源市場で中国と競争を展開した。中国での上海協力機構(SCO)サミットが閉幕すると急きょ、小泉首相はその土台を突き崩すかのように関係諸国を歴訪した。国連や東アジア地域協力フォーラムなどさまざまな国際会議の場で、中日は常に競い合う姿勢を見せた。

中日関係は小泉首相の8月15日の靖国参拝により、氷河期に陥ってしまった。いわゆる「選挙公約を履行する」ため、国内外の強い反対の声を顧みることなく、靖国参拝に固執した。中国政府と人民は「国際的な正義に挑戦し、人類の良知を踏みにじった」として小泉首相の参拝行為を位置づけるしかなかった。

(二)安倍氏が首相に就任したことで、両国関係に重大な転機が訪れた。

安倍晋三氏は首相に就任すると13日目に中国を訪問し、中日関係は重大な転機を迎えた。

一つ目の転機は、首脳対話への扉が再び開かれたことだ。10月8日、胡錦涛主席ら中国の指導者はそれぞれ安倍首相と会談し、両国政府は「共同コミュニケ」を発表した。共同コミュニケでは、双方は中日関係を発展させるための三つの政治文書の厳守を再度確認し合うとともに、政治や経済、文化、安全保障、民間交流を強化することでも合意し、戦略的な互恵関係を確立することを表明した。中国の指導者が、日本の指導者による個別の靖国参拝が中日関係を困難に直面させた根本的原因だと指摘したのに対し、安倍首相は再度、侵略の歴史について「深い反省」をし、「一つの中国」の立場を堅持していくと表明した。11月18日、胡錦涛主席は安倍首相とベトナムで再び会談した。席上、胡主席は(1)両国関係の発展の方向性を明確にする(2)両国人民の友好的な感情を増進する(3)互恵協力を着実に推進する(4)アジアの平和と安定、発展を共同で促進する(5)敏感な問題については適切に処理する――の5項目を提言した。安倍首相は、双方は一日も早く経済担当閣僚会議やエネルギー関連機関の対話を開始し、人的往来を共同で推進し、歴史問題に関する共同研究を始めて、東中国海が平和で友好的かつ協力の海になるよう努めるとともに、日中韓3カ国間の協力を強化し、東アジア地域の協力を共同で推進していくよう提案した。

二つ目の転機は、両国の対話と協力を発展させる分野を改めて確認したことだ。2度にわたる首脳会談を通じて、今後とも交流と協力を行う方向で合意した。

経済協力では、閣僚クラスの対話と関連機関の緊密な話し合いや官民の対話を推進し、経済協力関係をより高いレベルにまで押し上げることを目指し、両国の自由貿易地域の設立についてさらに検討していくことになった。

東中国海問題では、「交渉のプロセスを加速し、共同開発の方向性を堅持し、双方が受け入れられる解決策を模索する」として、平和で友好的かつ協力の海という新たな姿を目指すことになった。

歴史問題では、新たな局面を打開するため、中国社会科学院近代史研究所と日本の国際問題研究所が両国の歴史学者を組織して、中日の古代と近現代の関係史を研究するプロジェクトを年内にも開始することを決定した。

安全問題では、「中日間の対話と防衛交流を通じて、安全分野での相互信頼を増進する」として、防衛対話や艦船の相互訪問、防衛当局間の交流、合同軍事演習などを再開して、相互信頼関係を確立することになった。

民間交流では、国交正常化35年に当たる07年に、「中日の文化・スポーツ交流年」を催すことになった。

多角的な協力では、国際・地域問題で調和と協力を強化するほか、東アジア地域の協力と一体化プロセスについて合意し、国連の改革問題についても対話を強化するとともに、朝鮮半島情勢では、双方は、6者協議の枠組み内で対話を通じて朝鮮の核問題を平和的に解決し、半島の非核化を実現するよう主張した。

三つ目の転機は、首脳会談の精神を貫徹し、政治関係を正常化させたことだ。安倍首相が10月8日に訪中した翌日の9日夜、李肇星外交部長は麻生外相に電話を入れ、首脳会談の共通認識を着実に実行することについて意見や考えを交わした。10月15日、参議院の扇千景議長が両国の議会間の交流を強化するため代表団を率いて訪中した。同日には、中国共産党中央対外連絡部の王家瑞部長が団を組織して5日間の日程で日本を訪問し、「与党交流協議会」に出席した。10月23日、温家宝総理は「中日友好21世紀委員会」の中日双方の委員と会見し、中日の戦略的な互恵関係確立のために献策するよう求めた。10月16日、両国の外相はベトナムのハノイで会談した。

四つ目の転機は、両国民の友好的な感情が相互に連動し始めたことだ。先ごろ日本の「産経新聞」が行った世論調査によると、日本の国民の14.6%が安倍内閣に最も期待する事項として「中韓両国との関係改善」と答えており、靖国神社に参拝すべきでないと答えたのは52.2%だった。「中国青年報」が行った調査では、中日関係は重要だと考える中国人は76.9%、安倍首相の訪中はプラスの意義があると答えた人は45.2%にのぼった。

二.中日関係に上述した特徴が生まれた要因

(一)小泉内閣時代に中日関係が困難に陥った原因は以下の5点にある。

第1は、日本が中日両国の実力の対比の変化に適応できなかったからだ。戦後、日本経済は高度成長を続けて世界の奇跡を創造し、80年代に世界第2の経済大国となった。だが、90年代に入ってバブル経済は崩壊し、経済が長期低迷を続けたことから影響力は大幅に低下した。逆に中国は、改革・開放政策を28年維持してきたことで、経済は年平均10%を維持して高成長を続けており、世界経済と貿易に占める比重は絶えず上昇し、総合国力も増強し続けている。そのため、中国がいずれ日本を追い抜くのでは、との見方が出てきた。小泉内閣にとってこうした事実は受け入れ難いものであり、中国の台頭は日本のアジア太平洋地域での地位を脅かすのではないかと懸念し、一部の分野で常に中国をけん制しようとした。

第2は、日本国内の右翼勢力がますます勢いづいたことで、日本政府が中国に対して強硬な姿勢を取ったからだ。経済大国としての地位が確立するに伴い、日本は朝野を挙げて政治大国を追求するようになった。一つの国が国際的地位の向上を求めるのはもともと過度に非難されるべきことではないが、日本の一部右翼勢力は世論の力を借りてこうした追求を助長し、対外的にタカ派の従来路線を歩むよう惑わしてきた。米国に対して「ノー」と言い始めたのをはじめ、歴史問題でも否定する姿勢へと変わった。この影響を受け、小泉内閣の対中政策はずれることがあった。

第3は、国際環境が変わったことで、中日間の競争が強まったからだ。冷戦時代、中日両国はいずれもソ連の脅威に直面していたため、国交正常化後の両国は互いに依存し合う戦略的関係を容易に結ぶことができた。このような関係は冷戦の終結に伴って存在しなくなった。とりわけ中国がここ数年の間に台頭してきたことから、日本はアジア太平洋地域をめぐる主導権の問題で、常に中国を競争相手と見なし、至るところに障害を設けようとした。

第4は、日米同盟による負の効果として、日本が米国に追随し中国を潜在的な競争相手と見なしたからだ。日米同盟は一貫して戦後の日本外交の「基軸」である。冷戦後、日本は一段と米国の顔色のみを伺って行動するようになり、その対中けん制政策に呼応し支持してきた。小泉氏は01年に首相に就任して以降、日米同盟を強化するため何度も訪米し、しかも公然と台湾を安全保障の範囲に組み入れた。

第5は、小泉氏の個人的性格によるものだ。小泉氏は中国やその他のアジア諸国の強い抗議と断固とした反対を顧みることなく、連続して6回も靖国神社に参拝し、特に今年の「8・15敗戦記念日」を選んでの参拝は、その頑迷な特性を最も明確に反映している。

(二)安倍氏が首相に就任した後、中日関係に転機が訪れた理由

まず、安倍首相が時代の流れに順じて、小泉首相の対中政策とは反する行動に出たからだ。中日関係に障害が生じて、ハイレベルの相互訪問が中断することは、中国側の利益に合致しないうえ、日本にとっても重大な損害となり、ひいてはアジア太平洋地域の平和と安定にも影響を及ぼすことになる。そのため、物事極まれば必ず逆に向かうと言われるように、安倍首相は中日関係の難局を打開するために、活路を見いだす必要があった。

次に、日本国内では、政界から一般庶民まで、大多数の人が小泉首相の靖国参拝による悪影響を一日も早く取り除くことを願っていたからだ。日本の外務省が今年3月に発表したアンケート調査の結果を見ると、首相の靖国参拝で悪化した中日関係を改善すべきだと答えた人は77.9%にのぼった。

第3は、米国の要素だ。06年9月、米議会下院の国際関係委員会は日本の歴史問題に関する公聴会を開き、小泉首相の靖国参拝で悪化した日中、日韓関係について討議した。これは異例なことだ。米国は、中日関係の冷え込みは米国のアジア戦略にマイナスとなり、首相の参拝は日本国内にある東京裁判の審理を認めないという動きを助長することになる、と考えたからだ。米国は日本の「米国からの離脱」を目にするのも、日本のアジアでの孤立を目にするのも望んでおらず、近いうちに日本が中国との関係を改善することを望んでいたのである。

第4は、日本経済が危機から抜け出し、景気の回復軌道に再び戻ったからだ。それにはかなりの程度、中日間の経済貿易関係の急速な発展が寄与している。中日両国は経済面で互恵と相互補完の関係にあり、政治面で良好な関係を保つことを前提に経済関係を発展させることは、両国人民の利益に合致する。

第5は、安倍首相個人の政治的決断によるものだ。安倍氏は戦後生まれの若い政治家であり、朝鮮による日本人拉致事件の処理で名をあげ、対外的にはその強硬さで知られてきた。だが、中日関係の問題では、時機を判断して情勢を推し量る能力があり、また戦略的視野を備えていたため、「砕氷の旅」に成功した。

06年は中日関係の発展史で稀な一年であり、冬から春に至る過程をたどってきた。しかし、中日関係のピークへの回帰と路線転換は、山中でのピークへの回帰であり、山中での路線転換でもあり、その両側には断崖もあれば絶壁もあって、まだ一望できる平原にまでは至っておらず、まだ紆余曲折があり、徘徊もするだろう。そのため、当面の有利な状況を生かして、中日関係を発展に向けて指導者の交替による波瀾に真に左右されないものにし、冷戦時代の思考を捨て去って、両国人民の根本的利益に合致する新しいタイプの関係を確立する。つまり、胡錦涛主席が指摘しているように、全方位かつ幅広い分野にわたる、多層的な互恵協力という新たな枠組みを切り開けられるかどうかが、中日両国の政府と人民が直面する重要な課題となっている。