東アジアの通貨協力に向けた進展は緩慢
―――将来に向けた「アジア通貨」という概念が定着するまでには、この地域の各経済体にとってかなり長い時間とより大きな政治的決断が必要だ。
張運成
中国現代国際関係研究院グローバル化研究センター副研究員
現段階で言う東アジアの通貨面での協力というのは、この地域の単一通貨構想が何度も試され何度も失敗した後の1種の現実的な選択であり、東アジア経済を再構築する上でも必然的なものである。だが、様々な原因に阻まれ、通貨協力は依然として低い次元に置かたままであり、一部実質的な内容を備えてはいるものの、総体的に言えばその進展は緩慢だ。東アジア経済全体が回復に向かうに伴い、地域経済と通貨協力の必要性は強まる傾向にあり、関係各方面は将来の協力に向けた歩みが加速され、突破口が開かれることに期待を示している。
「ユーロの父」と呼ばれる米コロンビア大学経済学部のロバート・マンデル教授の「最適通貨ゾーン」理論によれば、1つの地域における全ての経済体の経済モデルとレベルが一定の程度にまで相似してこそ、その地域において実施する単一通貨と統一通貨政策はその地域内にある全ての経済体にとってプラスとなる。東アジア自由貿易地域を最終的に確立することが21世紀における重大な経済革命だとする構想は、東アジア経済貿易地域が世界最大の自由貿易地域となり、人口20億を超える市場を代表するものになるからだ。この過程においては必然的に、資本の流動に対する監督、自助・サポートメカニズムの確立、国際金融改革の促進を含む東アジアの金融・通貨協力の強化が求められる。
日本は東アジアの通貨協力では一貫して積極的な役割を演じてきた。日本経済界の代表、著名な専門家や学者など80名余りが2003年に「東アジア経済共同体構想」と題する政策報告書を発表し、「東アジアに経済共同体を設立する時機は熟している。何故なら東アジア地域は現在、世界で最も重要な工業基地であり、緊密な経済依存関係が既に形成されているからだ」と指摘した。統計によると、域内の輸出比率は47%、輸出比率は58%である。報告書はまた、東アジア地域に通貨基金を設立し、金融市場を安定化させて最終的に単一通貨システムに移行すると提言すると共に、具体的な実施手順も示している。
肝要なのは、東アジア各国の政治的意志だ。ほとんどアジア全ての経済協力の分野においては、政治的条件が熟しているか否かが重要な要素であり、通貨協力に関しては言うまでもない。歴史や文化といった主観的、客観的条件もまた制約条件となる。1998年11月、北京の清華大学で講演したノーベル経済学受賞者、シカゴ大学のマートン・ミラー名誉教授は「東南アジア諸国は先ず通貨局を設立し、本国の通貨を日本円とリンクさせれば、東アジアが実現しようとする通貨連盟はスタートラインに立つことが出来る」との考えを示した。だがミラー名誉教授は、今日のアジア域内に多くの矛盾があり、中国と日本、という2つの軸心をなす大国間での競争が激化していることを忘れている。殊に経済大国である日本が歴史を正視せず、また真しに謝罪することを望んでいない状況では、周辺諸国の信頼を得られることはないだろう。アジアの大半の国々が日本円を念頭に置いて通貨を設定する、とするこの提案を厳粛に受け止めることは全くあり得ない。
カギとなる指標は、人民元の将来の動向だ。中国と日本は東アジアの通貨協力にとって最も重要な要素となる。「チェンマイ協定」という二国間通貨互換協定により、日本円と人民元の互換は実現された。これは通貨危機が生じた際に米ドルを基礎に本通貨と交換したメカニズムとは異なるが、外貨準備高で世界1位の日本と2位の中国との間で外貨融通システムが構築されることは、域内で生じる突発的な通貨危機を処理する上で1つの安全保障となるのは間違いない。だが、東アジアの通貨協力は結局、為替レートでの協力という次元にまで高めていく必要がある。日本円は別にしても、人民元の将来に向けた為替レート制度づくりが東アジアの経済協力にとっては非常に肝要だ。マンデル教授は2002年6月に天津の南開大学で講演した際、「アジアは早急に統一された通貨組織を立ち上げて“アジア通貨”を創設すべきであり、その過程で中国は主要な役割を演じられる」と強調した。
それにしても、外部からの干渉は無視できない。国際通貨システムの枠組みから見れば、経済面での既得権を維持するため、欧米先進国は強大な“アジア通貨”の出現を目にすることは望んでいない。当初、日本はあらゆる策を講じてアジア通貨基金の設立計画を宣言しようとしたが、アジア諸国から見れば、日本には別の思惑があり、警戒すべきものがあった。だが、計画は最終的にはやはり米国人やIMF(国際通貨基金)の圧力に押され流産してしまった。日本がアジアでの影響力を拡大するのを懸念し、国際金融分野でこれまで独占してきた自らの地位が低下するのを恐れたからだ。“アジア通貨”の誕生はまさに、米ドルの東アジア市場からの撤退を意味するものとなり、そのために極力反対し、阻害し、その構想を実現させない――。いずれの当事国も明々白々だ。
東アジアの通貨協力は当初、その最大の目的は域内での金融危機を克服する能力を増強することにあった。だが同時に「最適な通貨ゾーン」や「通貨の活力」といった理論にも影響も受けた。その一方で実践面から言えば、ユーロという単一通貨ゾーンの形成は間接的にアジアを鼓舞したとも言える。具体的な制度設計について国際通貨専門家は、東アジアでの通貨協力では第1段階において域内に流動基金を設立し、第2段階において為替流動幅を持つ域内通貨システムを構築し、第3段階において経済・通貨連盟を設立、即ち“アジア通貨”を最終的に誕生させる、との構想を示している。
2003年6月22日、タイのチェンマイで18カ国の外相が参加して開かれたアジア協力対話(ACD)の第2回会合は、アジア債券市場の発展に尽力すると強調する「チェンマイ宣言」を発表した。東アジア・太平洋地域11カ国の中央銀行はそれに先立って6月2日、域内諸国が発行するドル建て債券購入のための10億ドルのアジア債券基金を設立すると宣言した。この基金はある意味で、将来に向けたアジア通貨基金の雛形となるものだ。
2003年にマニラで開かれたアセアン(東南アジア諸国連合)財務相会議は「金融協力計画」を作成し、これにより2020年までにアセアン共同市場を設立する基盤が整った。目標の1つは通貨協力促進ゾーン内での貿易であり、そこには単一通貨の概念が実行可能か否かの検討項目も含まれている。2004年4月7日、シンガポールでのアセアン財務省会議では、この計画を着実に実行することが強調された。
将来を展望するに当たり、この地域の経済学者や政治家は「東アジア各国の現段階での通貨協力体制がすぐさま、通貨危機をコントロールするための単一通貨の創設につながるとは限らない。それには通貨統一を求める国の経済をかなりの程度、見直しすることが必要だ」との共通認識が強まっている。従って、将来に向けた「アジア通貨」という概念が定着するまでには、この地域の各経済体にとってかなり長い時間とより大きな政治的決断が必要だ。東アジア諸国の当面の急務は安定した国内金融システムを構築することであり、これが、各国が金融危機を回避する最良の武器となり、また将来に向けてより次元の高い通貨協力に向けた前提条件ともなる。
東アジア通貨協力の経緯
1990年、マレーシアのマハティール首相は「東アジア諸国は連合して域内の経済金融協力組織を立ち上げ、東アジア経済政策決定委員会(EAEC)を創設すべき」だと提唱した。米国政府はすぐさまこの提唱に反対の姿勢を示し、EAEC構想は流産してしまった。
1997年、アジア金融危機が勃発する。危機に見舞われている最中、日本政府は危機を円滑に乗り越えるためアジア諸国に対し、国際通貨基金(IMF)の補助機関としての役割を担うアジア通貨基金(AMF)の創設を呼び掛けた。この提唱も同様、米国の反対に遭った。米国とIMFは日本の影響力がアジア地域で拡大するのを懸念し、IMFの各国を支援する役割と重複すると考えたからだ。日本は相次ぐ反対により、アジアの大国としての機能を発揮する機を逸した。
東南アジア金融危機の余波が残る中、1998年2月、マハティール首相はタイとフィリピン、シンガポールの3カ国を相次いで訪問し、アセアン加盟国間の貿易決済を米ドルから本国通貨に代替するよう求めた。4カ国は通貨問題で「統一戦線を組織する」ことで合意し、(1)各国間の輸入商品については米ドルレートに基づき換算するが、米ドルではなく本国通貨で支払うことができる(2)域内の通貨とリンクされた通貨を使用する――との試案を打ち出した。
その狙いは、米ドルへの依存度を段階的に低めて、域内通貨の下落に対する圧力を緩和させることにある。仮に実践されていれば、東アジア地域の通貨協力はあるいは当時、実質的な変化が生じて大きな影響を及ぼしていただろう。だが、当時のアセアンにはその力はなく、その構想を実現する条件も整っていなかったため、米ドルと「グッバイ」を言うことは出来なかった。だが、国際通貨システムに係わる根本的問題、米ドルを伝統的な国際貿易通貨の単位にしているがために、それによる害が東アジア経済にもたらされていることも言及したい。この点は各国も認識している。
アジア金融危機後、危機によって明らかにされた問題について、各国はアセアン「10+3」(10加盟国+中日韓)会議やアジア太平洋経済協力会議(APEC会合)、東アジア・太平洋地域中央銀行総裁会議、マニラ会議など多地域或いは多国間協力システムを通じて域内の通貨協力強化について積極的に協議・検討を重ねた。
1999年10月、マハティール首相は再度、必要な時に本地域に経済援助を提供して経済危機から脱却するための東アジア通貨基金を設立するよう提唱した。長期的に見れば、こうした基金は東アジア地域の通貨面での協力にプラスとなる。同時に、マハティール首相は「アジアは広大な地域であり、文化や種族、言語も異なる。現在、真に実質的な進歩を遂げているのはアジアであり、従って、我々は東アジアから事を始めるべきだ」と述べた上で、この考えは2年前に日本が提案したアジア通貨基金に関する思いとは異なると指摘した。
1999年11月、シンガポールのゴーチョクトン首相は非公式首脳会合でアセアンを代表して中国と日本、韓国に対し、東アジア自由貿易地域の設立を提案した。この提言は「ユーロ」が正式に誕生する前に打ち出されたもので、アジア各国首脳がそれに鼓舞されたのは確かだ。それを機に、東アジア通貨協力のプロセスは急速に進展していく。
2000年5月、アセアン「10+3」財務相はタイ・チェンマイで金融協力の具体的内容と方式について協議し、「チェンマイ協定」に調印した。名を馳せた協定は(1)アセアン間の現有通貨を互換出来る範囲をアセアン全ての加盟国まで拡大し、資金規模を10億ドルまで拡充する(2)中国と日本、韓国も通過互換の対象とする(3)加盟国と中日韓の間で二国間通貨互換協定を締結する――としている。「チェンマイ協定」には総体的に、通貨協力方案を巡り、東アジア各国が手を携え突発的な金融危機を共に処理しようとする決心のほどがよく表れていると言えだろう。
この数年来、「チェンマイ協定」は実質的な進展を遂げている。域内の各加盟国が締結した二国間通貨互換協定は12件を数え、中国と日本、韓国の間、それに中日韓とアセアンと各加盟国との間でも、通貨を互換し資金を買い戻す協定(BSA)が結ばれた。累計資金は既に315億ドルにのぼる。
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