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2004 No.32
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社会主義市場経済の父――ケ小平

今年8月22日は、ケ小平氏の生誕百周年の記念日にあたる。7年前のこの日、かつて中国の歴史を変えたこの偉人は安らかにみずからが深く愛した祖国と人民を離れ去った。内外の政界からもケ小平氏の逝去に大きな関心と哀悼の意が寄せられた。この「倒されることのない小柄な」偉人は生涯を祖国に捧げただけでなく、逝去後も、移植可能な器官はすべて寄付し、遺骨を大海にまくという遺言も果たした。

7年後の今日、中国人民と世界の人々がケ小平氏を記念するに当たり、もっとも想起されるのは、氏は中国の人びとを豊かにさせたことのほか、何ものをも恐れない精神とその人格的魅力である。

馮建華

中国の歴史の舞台にとっても、世界の歴史の舞台にとっても、ケ小平氏は忘れられない偉人だと言えよう。度重なる仕打ちや挫折にもくじくことのなかったこの小柄な偉人は「一部の人たちを先に豊かにさせる」という改革・開放の政策や、「試行錯誤の中で前進する」という実務精神、および「発展こそ根本的な道理である」という確固不動の信念を提示した。

経済が急速に発展している今日の中国では、ますます豊かになった人々はこの顕著な功績のある偉人をしのばずにはいられないだろう。

1997年は中国人にとっては悲喜こもごも至るの感を胸にした年であった。7月1日、中国は香港の主権を回復し、百年以来の恥をそそぎ、全国人民を奮い立たせた。疑いもなく、ケ小平氏の提唱した「一国二制度」は香港の円滑な復帰を実現させるうえでかなめの役割を果たした。「香港へ行ってみたい」ということはケ小平氏が晩年の最大の願いであったが、この日まで後5カ月足らず残して逝去されたのはこの上なく遺憾なことであった。

1997年2月19日21時8分、パーキンソン病を患ったケ小平氏は肺の感染の併発で呼吸循環の機能が衰弱し、治療の効がなく、93歳の高齢で北京で逝去された。

角膜寄付、遺体解剖、大海への散骨はケ小平氏の生前の願いであった。1997年3月2日午前11時25分、ケ小平氏の遺骨をのせた特別機は1800メートルの上空まで上昇した。81歳の未亡人の卓琳女史は涙を目に浮かべながら、ぶるぶる震え続ける両手で夫の遺骨を海面に向かってまき散らした。

ケ小平氏が逝去された時は指導者のポストから引退してすでに7年3カ月経ていた。にもかかわらず、氏の逝去後、百近くの国と地域の要人が弔電を寄せ、国連は半旗を掲げ、開会中のすべての会議の参加者もケ小平氏のために黙祷をささげた。これは世界でも稀なことである。

アナン国連事務総長は声明の中で、「ケ小平氏は活気に満ちた中国に消し去ることができない跡を残した」とたたえた。クリントン米国前大統領は、「ケ小平氏はこれまで20年来の世界の舞台における傑出した人物」と評価している。

DPA社は「ケ小平氏は中国を立ち遅れと孤立から救い、社会主義市場経済の父だ」とたたえている。

苦難にみちた海外留学体験

ケ小平氏は1904年、中国南西部の四川省広安県(現在は広安市と改称)の豊かな農民の家に生まれた。当時の中国は封建王朝の末期にあり、社会は激動の中にあった。ケ小平氏は幼い頃から頭がよく、朗らかで、利口な子であり、6歳で学校へ行き、次第に苦しみに耐えることのできる、質素の品性の持ち主となり、度胸も識見もずば抜けていた。

1919年に中国で全国に波及した売国的な軍閥政府に反対する学生運動が起こった。ケ小平氏の在学していた中等学校もそれに巻き込まれ、学生の授業拒否が始まり、学校の正常な授業ができなくなったため、ケ小平は家に戻るほかなかった。

家に帰ってまもなく、父親の後押しの下で、ケ小平はフランス留学のための予備校に合格した。中国の若者の目の中では、当時のフランスは民主政治の手本であり、文化も栄えで科学も発達し、見習うべき国であった。翌年、16歳のケ小平は願いどおり他の82名の若者と一緒にフランス留学に赴いた。40日間余りの旅を経て、一行はパリの西郊外のコロンブスに到着した。

しかし、第一次世界大戦終結直後のヨーロッパは不景気の中にあった。就職や入学どころか、生活さえ困窮する状態であった。ケ小平はお金を節約するため、高い生活費のかかるパリから200キロも離れた町にやってきて、その市立中等学校に入った。しかし、半年も経たないうちに、生活のために学校をやめなければならなかった。

半月後、ケ小平はフランス南部のある鉄鋼工場で働くことになったが、1カ月も経たないうちに仕事があまりにもきつすぎることと、職場の親方の差別扱いに耐えられなくなったためこの工場をやめた。後に生活のため、レストランのボーイや埠頭の運搬労働者、清掃労働者などの仕事をした。自分の背が低いのは恐らくフランス滞在中いつも腹いっぱい食べられなかったからかもしれないと、ケ小平氏はかつてこう語ったこともある。

苦難にみちた生活の試練を経て、ケ小平氏は次第に円熟することになった。1922年10月になって、なにがしかのたくわえができたので学校に入ろうと思い、費用を節約するため、再び仲間と別れ一人で辺鄙な町の市立中等学校に入り、3カ月学校に通った。これはケ小平氏のフランス滞在の5年間の最初で、そして最後になった学生生活となった。

1923年2月の初めに、ケ小平氏はパリ近郊のルノー自動車工場に入り、仕上げ工の見習いになった。数カ月後に、一人前仕上げ工になり、収入も増えた。こうして、ここでかなり長い間働きつづけた。

フランスで働きながら勉強する期間、ケ小平氏は国内の政治闘争に呼応するため、ひそかに革命活動に携わっていた。1925年、わずか21歳のケ小平氏は中国共産党ヨーロッパ支部の指導メンバーとなった。そのためにフランス政府ににらまれ不満を招いた。身の安全に鑑みて、1926年1月7日、ケ小平氏はフランスでの留学生活を終え、パリを離れて当時の共産主義の故郷といわれていた旧ソ連へ向かった。ケ小平氏がパリを離れた数時間後に、フランスの警官はその住居を捜査した。10日間後に、パリの関係当局はケ小平氏らを国外に追放する命令に署名した。この追放令は歴史の資料としていまでも残っている。

ケ小平氏にとって、5年間のフランス留学体験はみずからの意志を鍛え、政治の才能と経験を積み上げ、後に傑出した政治家になるうえで役立ちとなり、その人生に大きな影響を及ぼしたと言っても過言ではない。

苦難にみちた「文革」の10年間

1956年9月15日、52歳のケ小平氏は毛沢東の強力な推薦を受けて、中国共産党第8回全国代表大会で中央書記処(中国共産党中央政治局とその常務委員会の事務機構)総書記に選ばれ、毛沢東を中核とする中国共産党の最高指導層に入ることになった。

1966年までの10年間、ケ小平氏はずっと総書記を務めていた。ケ小平氏の話によれば、この平穏な10年間は自分の一生の中で最も忙しい時期であった。しかし、その後の10年間はケ小平氏にとってはさまざまな仕打ちと苦難にみちた10年間だったと言えよう。

1966年に中国で10年間にわたる「文化大革命」が始まった。一部の下心のある人たちはケ小平氏ら党内のハイレベルの指導層に対しての排斥と報復を始めた。ケ小平氏はタナ上げされ、党中央の日常活動にも参与できなくなった。

1969年10月22日、ケ小平氏夫妻は北京から数千キロ離れた江西省に追いやらされた。地元のトラクター修理工場で矯正労働を強いられたのである。仮の住居には暖房がなかったため、部屋の中の氷が張るほどの冬の寒さは、黄河流域やそれより北の地域で長年過ごしてきたケ小平氏にとってしのぎがたいものであった。65歳のケ小平氏は毎日冷たい水を使って身体を拭くやり方でしのがざるを得なかった。

その間、毎日夕暮れ時になると住居の庭を散歩することがケ小平氏の日課となった。散歩の時には、氏はいつも押し黙って速い足取りで歩いた。散歩しながら考えるという習慣はケ小平氏の晩年まで続いていたそうである。中国の重大な方策の中にはケ小平氏が散歩の中で考え出したものがたくさんある。ケ小平についての専門家、中央文献研究室の閻建h研究員の見方では、あの動乱の年代において、真の社会主義とはなにか、中国はどこへ向うのかという二つの事柄は当時ケ小平氏がよく考えていた問題であったようだ。

この間、ケ小平氏にとって最も大きなショックは長男のケ朴方さんが飛び降り自殺未遂で体が不自由になってしまったことであろう。1968年8月、当時まだ北京大学物理学科4学年の学生だったケ朴方さんは父の件に巻き込まれて、そそのかされた反対派の学生の侮辱と虐待を受けた。強い個性の持主で気骨のあるケ朴方さんは飛び降り自殺をもって抗議しようとし、胸椎の圧迫骨折という大けがをし、いちはやく適切な応急手当がなされなかったため、両足切断で身体障害者となってしまった結果となった。

このことが起きた後、毛沢東の認可を経て、ケ氏夫妻は息子を自分のいるところに呼び寄せた。卓琳女史の回想によれば、その時、ケ小平氏は毎日息子の体のすみずみまできれいに洗ってあげ、入浴介助役をつとめていたという。息子さんは「今でもこのことを思い起こすと、悲しさがこみ上げてくる」と胸を痛めている。

1973年4月12日、ケ小平氏は周恩来総理に伴って外国要人と会見している画面がテレビに映った。敏感な外国人記者はケ小平氏復活のニュースを素早く報道した。「倒されることのない中国の小柄な人」という言葉は外国のある雑誌のケ小平氏に対しての表現である。同年12月、ケ小平氏は再び党中央指導部の仕事に加わわるようになった。

二度も失脚に追い込まれたケ小平氏は再び復活し、政治の実権を握った後、「文革」の十年間の誤りの是正に取り組むことになった。しばらくすると、ケ小平氏は毛沢東が自ら起こした「文化大革命」を否定しているといううわさがたびたび毛沢東の耳に入ってきた。このため、ケ小平氏は毛沢東に呼び出されて、「文革」に対する見方を変えてほしいと言われたが、婉曲に断った。1975年12月、ケ小平氏は再び批判され、三度目の失脚となった。1977年7月、党内外の職務を一年3カ月ももぎとられたケ小平氏がまた復活した。これによって、中国は本当の「ケ小平時代」に入った。

全盛期に勇退

20世紀の70年代末頃から、中国は先進諸国の産業構造の調整というチャンスに際会した。このチャンスを逸することなく国の経済をテークオフさせることができるかどうかが、当時の中国の指導者たちの面前につきつけられた。

再び復活したケ小平氏はこのまたとないチャンスをはっきりと見とっていた。ケ小平氏の影響力と促進のもと、中国は長く閉ざされていた門戸を徐々に開き、改革開放のテンポを速めた。

1978年12月に、中国共産党内のハイレベルの会議で重要な戦略的決定が打ち出された。つまり、活動の重点を「絶え間ない大衆運動と思想面の論争」から社会主義現代化建設に移し、改革開放を根本的な国策とし、中国の特色のある社会主義の道を歩むことがそれであった。ケ小平氏は「いまこの時に改革を行わなければ、社会主義現代化事業は葬られてしまう」と語った。この会議でケ小平氏をはじめとする中国共産党の第二世代の指導グループが生まれた。

ケ小平氏は中国共産党の第二世代指導グループの中核になってからは後継者のことを頭に描き始めた。1979年11月にケ小平氏は、幹部の若返りを実現させるには、定年制度を設けることが必要だということを提起した。翌年8月にケ小平氏は、指導幹部の終身制を廃止すると厳かに提案した。1984年にはさらに全国人民政治協商会議主席を辞任した。1987年10月、ケ小平氏は中央軍事委員会主席のポスト以外、中国共産党中央政治局常務委員、政治局委員、中央委員会委員の職を離れた。

「私の重みがありすぎることは国や党にとってマイナスとなる。国の運命が一人や二人の人望にかかることは、不健全で危険だ」と、ケ小平氏は強調した。

1989年11月9日、党中央の職から離れてから二年後に、ケ小平氏は最後の職――中央軍事委員会主席を辞任し、権力の交替を無事終えた。

当時の中国では高度に集中した政治体制のもと、最高指導者が健康な状態のままで自ら権力を交替させることは稀なことで、ことなく交替することはさらに珍しいことだという論評さえある。ケ小平氏が切り開いた権力の入れ替わりのモデルがあったればこそ、その後の中国の最高権力の交替はいずれもスムーズに行われることになった。

1992年に巻き起こった「ケ旋風」

1989年以後、東欧の社会主義国と旧ソ連には相次いで政治的動乱が発生し、世界の社会主義事業は大きな挫折を被った。これを受けて北京でもその年に政治的波風が起こった。これは社会主義の道を堅持する中国にとってはかなりの衝撃となった。その上、G7は中国に対して経済制裁を実行すると同時に政治的手段で中国にプレッシャーを加えることを決定した。

このような環境の下で、中国の対外貿易額が急減し、外商たちは対中投資に形勢観望の態度を取るようになった。それと同じ時期に、中国の周辺諸国と地域経済は急速な発展をとげ、「アジアニーズ」と言われる香港、台湾、シンガポール、韓国、およびマレーシア、タイなどの一部の国と地域が中国を追い越すことになった。

中国国内では、1989年の北京の政治的波風が静まった後に、いかにして改革を深化させるかについて懐疑と戸惑いを覚える人が一部現われた。また、「中国は当面経済建設を中心とするべきかそれとも社会主義が平和的に資本主義に変質することに反対することを中心とするべきか」という疑問も現われた。「中国が市場経済を実行することは資本主義の道を歩むことと同じだ」と見る人もかなりいて、ひいては、ケ小平氏の経済特別区創設に疑問を持つ人さえいた。

すでに定年で退職したケ小平氏は国内外の情勢を綿密に分析した後、それ以上じっといられなくなった。ケ小平氏は自ら切り開いた市場経済の道が横道にそれることによって、中国経済の衰退を招くことを非常に心配していた。中国の政治の安定と国民の生活水準の向上は、いずれも経済の急速な成長に頼るもので、経済を発展させてこそ、東欧の社会主義国のような解体の運命を免れられることをケ小平氏ははっきりと見て取っていた。氏は当時の党の指導者に「自らが足取りを乱してはならない、改革開放を真剣にやりさえすればよいのだ」と戒めた。

1992年、すでに88歳高齢のケ小平氏は「南巡」を始め、中国の改革開放の最前線である深いセン経済特別区と珠海及び上海を視察した。道中、ケ小平氏は改革開放の堅持について透徹した論断を発表し、人々の懸念は消え去り、中国の再度の改革のブームを盛り上げることになった。

1992年10月、江沢民氏を中核とする第3世代の指導グループは、社会主義の市場経済体制の構築を改革の目標とすることを確定し、ケ小平氏の理論をもって全党を指導することを初めて打ち出した。中国の改革開放と現代化建設はその時から新しい段階に入った。