2004 No.48
(1122 -1128)

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儒教の思想は人類の現代文明を前へ推し進めることができるのか? 

経済のグローバル化が進んでいる中、人間はいったいどのように共存すべきか、地球の生態環境が悪化しつつある今日に、人類はどのように自然と共存すべきか、テロリズム、覇権主義、新植民地主義の暗い影に覆われている人類は、どのように理性的精神を改めて樹立するか、これらは中国の儒教の思想から答案を見つけることができるのか。

儒教の思想は2500余年前に中国古代の偉大な思想家の孔子が中国の夏、商、周の三つの時代の伝統的文化を受け継いだ上で構築した整った形の思想システムであり、2000余年に及ぶ封建制社会でほとんど支配的地位を占め、中国の伝統的文化と歴史の発展に大きな影響を及ぼし、中華民族の伝統的文化の重要な構成部分である。20世紀の初期に起こった「新文化運動」および20世紀中ごろの「文化大革命」という災禍の中で、封建的残滓と見なされた儒教の思想は排斥されたり、非難されたり、見捨てられたりしたことがあった。

現在、人々はまたも儒教の思想を研究するようになり、数年前には孔子の「論語」が子供たちに読まれるようなブームまでも現れた。この間、儒教の思想が人類の発展史において果たしうる役割についての話題が各分野で討論されてきた。ここに掲載するのは正論と反論の一部である。

儒教の思想は人類の文明を促進する上で積極的な意義をもっている

中央民族大学の牟鍾鑒教授 儒学の粋をはっきりと指摘することは、世界の異なった文明間の対話を強化し、人々が平和的に付き合う道を探り当てることに役立つかもしれない。儒学が歴史的に異なった文明間の対話と交流を促進することができる故は、次の三つの特質があるからである。@儒教は社会的に普遍的な意義をもつモラルの準則と規範を設定した倫理的人文主義である。「仁者は人を愛する、人なら皆持っている」、「己れの欲せざるところ、人に施すなかれ」などはいずれもヒューマニズムや平等、寛容の精神を含むものである。A儒教は和をもって貴しとすことを主張している。「和して同ぜず」、「万物並び育せられて、相害はず、道並び行はれて、愛悖らず」などは、しだいにすべての人間関係を処理し、異なった文化の交流を繰り広げる普遍的な原則となっている。B「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」(「荀子・王覇」)」(やり過ぎることも及ばないこともいけない)、「その両端を執りて、その中を民に用ふ(「中庸」)」(物事の両はじをわが手に捉って放擲せず、その中ほどだけを他人に示す)など儒教の中庸(中道)の思想は中国の文化に、強さと柔らかさが調和し、全般的に配慮し、義理人情に合った価値観を持たせることになった。

言わずもがなのことであるが、農耕文明の土壌に生まれた儒教にはどうしても時代としての限定がある。現代文明の強味をもつ欧米の文明が世界を巻き込んだことによって、儒教は中国が伝統から現代へと進むプロセスにおいて周縁に後退させられてきた。しかし、それは滅びなかったのはなぜか。外からの衝撃を受けた後の反省を経て、自らの生命力を失ったものを振り捨てた後、儒教は20世紀の後期に新たな生命を獲得し、中華民族の伝統的文化として復興をとげ、しかも世界公認の価値のある文化的資源として世界に進出することになった。従って、儒教の復興は世界の危機に応じて現れたというわけである。

北京大学の湯一介教授 西洋文化は数百年にわたる歳月の中で人類社会の発展に巨大な影響を与えてきた。しかし、今日において、私達は目にしているのは人類の自然に対する略奪的開発によって、資源の浪費、オゾン層の希薄化、海洋と環境の汚染、生態系のアンバランスなど人類の生存条件が脅かされていることである。こうした状況は欧米の哲学の「天人の二分化」という思想と関係がないとは言えない。1992年に世界の科学者1575人が発表した「世界の科学者の人類に対する警告」の中の名言で形容すれば、「人類は自然と互いに抵触する道を歩んでいる」のである。

欧米の哲学と違い、中国の哲学は「天人合一」を強調している。「天(天道、自然界の法則)」を研究すれば、「人(人道、人間社会の法則)」にかかわらないわけにはいかず、「人」を研究すれば、「天」にかかわらないわけにもいかない。「天人合一」という「周易」によって解明されたものは、儒教の思想の重要な基盤であり、「人」と「自然」の内在的関係を説明したものであり、今日の「人」と「自然」の関係を処理する面で積極的な意義をもっている。

米ハワイ大学の成中英教授 中国は直接に西側の経験をそのまま持ってくるなら、中国の問題を解決することはできないが、西側は中国の経験をそのまま持っていくなら、西側の問題を解決することもできない。われわれは源にさかのぼり、中国の文化・思想と西側の文化・思想の接点を探りあて、それが新たな起点となるようにすべきである。

21世紀に入った今日において、われわれは、西側の理性主義の成果――先進的科学技術や発達した経済、民主および法秩序によって作り出された富と繁栄を目にする一方、西側の強権が世界に全面的な大災禍を2回ももたらしたことをも目にしており、今日に至ってもわれわれは依然としてテロリズム、覇権主義、新植民地主義、将来の科学技術戦争による脅威にさらされている。もし18世紀の西側に生まれた理性主義が孔子の「己れの欲せざるところ、人に施すなかれ」(「論語・顔淵」)というヒューマニズムの精神と孔子の「和して同ぜず」の胸襟をもっているなら、人類の平和と繁栄は恐らくはやくからこの世の大勢となっているかもしれない。

今日において、われわれは孔子の知恵と卓見を理性的に再現し、解き放すべきであるだけでなく、その生き生きとした生命の知恵で新たな時代が必要とする新たな理性的精神を作り出すべきである。つまり、人類の徳と知識を十分に結びつけ、人類全体に人類の生活と人類の生命が存在する価値の内在性や発展の相関性、多様性の中の差異、学習の開放性、基本的な行為基準の普遍性を認識させ、「人の再度の目覚め」という「世界の倫理の進化」を実現すべきである。

儒教は今の現代化建設に役立たない

「環球」誌のライター許博淵さん ネットを通じてから知ったことだが、先般、北京の街頭に中国の明代の服装をまとって歩いている若い男女が現れ、それは文芸復興(ルネッサンス)を呼びかけるためであるということであった。すると、ある人は文章を発表して賛同の意を表した――ヨーロッパのルネッサンス期には科学が振興し、中国にも当今の社会問題を解決するため、ルネッサンス運動を行い、儒教を復興させる必要がある。このことから、復古傾向がすでに少数の年配者に限らず、一部の若い者の間でも見られるようになった。

ところが、これに対し疑問を提起人もいることに私は喜んでいる。中国の状況はヨーロッパと違っている。ヨーロッパでは、はやくも古代ギリシャのごろにサイエンス精神とデモクラシー精神があったため、ルネッサンスが科学革命と産業革命を突き動かすことができたのである。しかし、中国の古代にはサイエンス精神とデモクラシー精神がなかったため、今日において古代の文化を復活させることは中国の現代化建設にとってプラスにならない。

古代ヨーロッパの学者は自然に対する考察と思考を重視して、著名な大学者を多数生み出した。しかし、中国にはそのような大学者はいなかった。孔子が国の文化を整理し、欲望を抑えて礼に従い、周朝の氏族の社会的本質を帯びた社会秩序を回復するよう提唱していた時、老子が人類の知恵を壊滅させ、原始状態に戻るよう提唱していた時、古代ギリシャと古代ローマの思想家たちは、万物の本源とは何か、水か、火か、土か、風か、数か、それとも原子なのかと考えていたのである。

哲学が解決しようとした根本的な問題は精神と物質の関係の問題であるが、中国古代の哲学者たちはこの哲学の根本的な問題に関心を示さず、注意力を政治や社会と倫理道徳のみに集中して、より多くの場合彼らを政治理論家、社会学家または倫理学家と見なすべきだろう。宋代になって、さらには「心性」のみが中国の学者の研究のテーマとなった。アメリカの著名な漢学者のフェアバンク氏の国学レベルが国学を提唱している国の人より決して劣らない。氏は「アメリカと中国」という著書の中で、「人類社会と個人関係が依然として中国についての学問の中心点であり、自然を征服することではない」とあった。中国と西側の学者については、氏は、中国の古代の役人の選抜制度によって、知識人と職人が引き離され、「こうした手と頭の分離はダ・ビンチ以降のヨーロッパ早期の科学者たちとは鮮明な対照となっている」と述べている。

人類の歴史は、生産力の発展で、古い秩序が打ち破ぶられたが、新しい秩序がまだ構築されていない時に、復古の思潮が現れることがしばしばあった。人々は未来を展望することではなく、過去を顧みることを好むものである。しかも、過去を顧みるとき、それを非の打ちところがないと思うことがある。中国でも復古運動が数回も起こったが、いずれも成功しなかった。

儒教が大流行した宋代と明代のごろは、西側で科学が日に日に発展をとげ、外国へはばかることなく拡張しているときに当たった。儒教は中国の立ち遅れにとって逃れることのできない責任を負っていると言うべきである。実践は真理を検証する唯一の基準である。儒教が中国を振興さえないことはすでに歴史によって立証済みの事実であるのに、どうしてそれを提唱するのか。

科学技術は第一の生産力である。今の世界では、総合国力の競争が白熱化しつつある。技術の立ち遅れが中国の経済発展を抑制する主要な障害となっているこの際、われわれにとって必要なのは何か、ルネッサンスや復古ではなく、未来と世界に目を向け、斬新な思想と姿勢で挑戦を迎えることである。

フリー・ライターの呉流明さん 中華民族は儒教の思想の支配の下、封建制社会の長い過程で静態的バランスを形成するに至った。その過程では、安定は発展より大切であり、安定はまず支配階級の統治にプラスとなるが、被支配階級も強権に抑圧されることより、静態的安定を受け入れられるからである。中国の古代社会においては、家族を単位とした小農経済は社会の荒波の衝撃に耐えられない弱いものであり、しかも、商品生産と競争に対し先天的な恐怖感を抱くものであったため、農民たちは安定した社会秩序を望んでいたのである。それにしても、過酷な抑圧があった場合、農民たちは蜂起と抵抗を起こすこともあるが、社会秩序を徹底的に打ち破り、静態的バランスの取れた閉鎖的な囲いから飛び出し、より明るい活路を探し出すことはほとんど考えなかったのである。これはまさか儒教の思想と伝統的文化がもたらした悲劇であろう。