2004 No.51
(1213 -1219)

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大学キャンパスは観光客に
一般開放すべきかどうか

ゴールデンウィーク連休四日目の10月4日、大勢の観光者が中国の名門大学である北京大学に見学に訪れたが、門前払いとなった。大学側の説明では、キャンパス見学の観光客が多すぎるため、学内の安全から、観光客の見学を制限せざるをえなくなったということである。

キャンパス見学がブームになったのは1999年以来である。特に北京大学、清華大学など有名な大学には、出世願望からキャンパス見学に訪れる観光客や親子連れが殺到している。

北京大学の規制措置が発表されるやいなや、世間で大きな反響を呼んだ。この制限は開放の精神に合わないとか、北京大学は納税者たちの税金によって運営されている大学であるので、納税者たちのキャンパス見学を規制する権利はないといった反対意見が続出した。しかし、キャンパスが朝から晩まで大勢の見学者で騒然としているなら、学生たちの権利は誰が保障してくれるのか、彼らの授業も影響を受けることになろう。これまでのキャンパス見学は観光客の権利だけを強調し、大学の現状や教員、学生の受容度ということを無視してきた。

規制政策は開放の精神に合わない

中国社会科学院哲学研究所の徐友漁研究員は次のように述べていいる。

大学キャンパスは一般開放したほうがよい。キャンパスの一般の人たちへの開放は観光地の混雑を緩和することにもなれば、人々の人文科学や文化へのあこがれに応えることもできるため、資金をしなくても望ましい社会的効果と利益が生まれることとなり、国のためにも個人のためにもプラスとなると言えよう。

2年前のウエストポイント陸軍士官学校見学の体験を例にあげると、そこは「軍事要地」とみなされていないばかりか、逆に設備の整った観光施設が揃っており、サービスも申し分なく、

若者たちに学校のことを知ってもらい、学校に親しんでもらうことにもなり、入隊志願者を応募するイベントも着実に行われている。

私の見方では、ウエストポイントのキャンパス公開は観光客のお金をもうけるためだけではなく、人々に親しまれようとする姿勢とサービスによって国防意識を強化し、若者の入隊を促進するためである。中国では大学への資金投下、特に近年来の資金投下がかなり増えている。大学の人材育成の長期的利益が期待されているわけであるが、国の資金の重点的傾斜の配分に恵まれた名門大学として、短期的利益ための貢献を通じて一般納税者にいくらかでも還元することを、どうして喜んでやろうとしないだろう。一般の人たちは名門大学にあこがれているので、観光客にキャンパスを開放することはエリートと一般の人たちとの間の心理的なミゾを縮めることができるのだから、おおいにやるべきことだと思う。

「中国青年」誌編集者の江南木氏は次のように見ている。

北京大学の規制措置の裏には意識面の問題が底流にある。一つは学校の所有権の問題である。つまり、北京大学は北京大学のものであるのか、それとも中国のものであるのかという問題である。実はこれは言わずもがなのことである。経費の出所という点だけについて言えば、国から毎年北京大学に支給される億単位の大金はすべて納税者のお金である。たとえ北京大学が自分で賄った資金だとしても、北京大学という国有資源の名義に頼って集められたものである。北京大学のある人は「北京大学は公園ではない」と言っているが、一般的に言えば大学と公園に違いがあるのは当然のことだが、よく考えてみると、そうとは限らない。北京大学が「公園」ではないと言うならば、まさかある人、あるいはある部門の「お庭」だとでも言いたいのか。

いま一つの意識面の問題は北京大学がどのように一般の人々を見ているかということである。北京大学が「観光客が多すぎて管理がしにくくなる」、「安全から考慮してのこと」などを口実にキャンパス見学を規制するのは、観光客を信頼していないからである。それでは、規制対象はいったいどんな人たちなのか。暗闇に乗じて悪事を働く不法者ではなく、全国各地からやってきた父兄たちとその子供たちである。出世願望の父兄たちは子供によく勉強して将来名門大学に進学するという人生目標を確立させようと、休暇を利用して子供を連れて北京大学を見学にやってきたのである。このような見学は北京大学のイメージアップとなり、北京大学をPRし、一般の人たちの北京大学に対する理解を強化することにも、科学・教育による国の振興という民族意識を高揚させることにもプラスとなる。

アメリカの一流大学もほとんど観光客に一般開放されている。米国の同時多発テロ事件後においてさえも安全のために観光客を規制したことはなかった。ハーバード大学にしろ、エール大学にしろ、中学生や高校生のために無料でガイドをつけ、さまざまなことを紹介したり、授業を聴講してもらったりして大サービスである。それではこれらの大学は北京大学ほど「安全」を考慮に入れていないとでも言うのか。

また今日の北京大学と昔の北京大学を比べてみよう。関連資料によれば、昔の北京大学は自由に出入りすることができ、正式の学籍のない聴講生や潜りの人でも自由に教室に入って授業を受けることができ、北京大学の学生かどうかと聞かれることもなければ、受講料を取られることもなかった。図書館も自由に利用することができたし、それで本が盗まれたということはなかった。昔は開放的で包容的であった北京大学は、今日北京大学の名を慕って訪れてきた観光客さえも入れることができないのだろうか。

したがって、海外の大学と比べても、往時の自分と比べても、どのような理由であろうと、北京大学が見学者を門前払いすることは遺憾千万なことである。

エール大学教授の薛湧氏は次のように述べている。

北京大学の卒業生として、母校は旧来の意識を変える必要があると思っている。

私は北京大学を卒業した後、エール大学で8年間も勉強してきたので、キャンパスの一般への開放についてはよく承知していると言ってもよい。

エール大学ではキャンパスには塀がなく、一般の人たちが自由に出入りできる。また、観光客のためにはガイドの無料サービスもつけている。各学部の昼食講座も、年に一度の大型講座も一般の人たちに開放されている。

キャンパスばかりでなく、大きさが世界一と言われているスポーツ・ジムや卒業式典の式場になるホールもよく現地の小中学校や高校の利用に供している。

エール大学は自らすすんでキャンパスを開放しているのに、北京大学は観光客を規制しているのはなぜなのか。

まず、エールは私立大学で、学生の授業料に頼って運営されており、優れた学生を募集しなければならない。

次に、エール大はみずからの社会的責任をちゃんと意識しているからである。功利的な角度から言えば、教育機構としてのエール大は納税の面で多くの特権を与えられているため、地元の政府はエールから税金を取れないこともしばしばある。税金がなければ、都市建設は影響を受けることになる。また都市の発展が遅れると、エール大の学生の生活環境も影響を受けることになる。そのため、大学はどうしても地元のためにいろいろな便宜をはかり、ざまざまな公益事業に施設を提供している。

実をいうと、エール大のような私立大学は、理論的に言えば地域に開放しないという自由もある。学校は納税者のお金を使ってはいないからである。北京大学は別だ。北京大学が毎年国の財政から受け取っている教育割当金はすべて納税者のお金であり、納税者のキャンパス見学を規制する権力はまったくないはずである。

見学規制は学校と学生の権益の保障にプラスとなる

フリーライターの恵銘生氏は次のように見ている。

北京大学は北京大学の教員と学生の北京大学ではなく、中国人全体の北京大学であるから、観光客の見学を規制すべきではないと主張する人も一部にはいる。この観点については理論的に見れば確かにそうだと言えるが、現実問題として、北京大学が常時開放されることになれば、どうなるだろうか。

北京大学は構内の環境が美しく、文化の息吹きにみちており、歴史的に知られた旧跡もたくさんあり、北京市内のどの公園にも負けないと言えよう。キャンパスを無料で開放するならば、きっと大勢の観光客が訪れることになり、そうなればキャンパスはキャンパスではなくなり、「北京大学公園」になってしまうだろう。北京大学のキャンパスが一日中観光客で賑わっていたら、学生たちの欠くことのできない権利はいったい誰が保障するのか。彼らは勉強することができるだろうか。

その次に、一般開放の公園には、観光客の安全や公園内の清潔を確保するための警備員や清掃労働者などが必要である。北京大学を一般開放するならば、現有の警備員と清掃労働者だけに頼っていては、教員と学生の学校生活での安全の確保は大問題となるだろう。

北京大学は中国では百年の歴史と伝統を誇る学校であるから、キャンパス見学を通じて北京大学の人文的思想を体験したいという人々の考えも理解できるが、まだ一般開放の条件が整っていないうちに、個人の主観的な願望だけから大学側を非難するなら、観光客の権利のみが強調され、北京大学の現状及び教師と学生の受容度は無視されることになる。

さらに「北京大学は中国人全体の北京大学である」とか、「北京大学を観光客に開放すべきだ」とかという見解に至っては、無責任な話しだと思う。北京大学どころか、新聞社や政府機関、社会団体及び学校など数多くの部門は市民に一般開放を実施しているのか。物事を評価する際、何事も客観的な事実と具体的な状況からはずれると、正しい結論を引き出すことは不可能となると思う。