2004 No.52
(1220 -1226)

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クリスマス、「我々は過ごしますか?」

12月に入って、デパートやレストランなどがクリスマスツリーで飾られ、街は祭日の雰囲気に包まれた。市民の間では、とりわけ若者の間ではパーティーを開いたり、レストランやバーなどでクリスマスを過ごすのが習慣になってきたようだ。携帯電話でもクリスマス祝賀ショートメッセージが飛び交う。この数年、クリスマスをはじめバレンタインデーやエイプリルフールなど、俗に言われる「洋節」(外国の祭日)を祝って過ごす人が増え続けている。その日が来ると、メディアも決まって報道し、商業界はまさに書き入れ時とばかりと、あれやこれやの“大演出”を前面に押し出し、街はまさにお祭り気分となる。

そんな中、「中国は洋節に包囲されてしまい、自らの統的が遠のきつつある。洋節から離れてこそ、自らの伝統文化を守ることができる」と、そんな声も聞かれるようになってきた。こうしたことから、一部専門家は伝統的な文化を守ろうと、国内5大祭日である「春節」と「清明」「端午」「中秋」「重陽」の全て或いは大半を、単なる民間の祭日から国が休日に指定する祭日に格上げする立法化を提言。だが、その一方で、「これは神経質な『洋節脅威論』で、それによって覆い隠そうとするのは、民族の文化に対する不信と卑下であり、説得力に欠ける姿勢だ」と反論する声もある。

賛成・反対それぞれの立場から意見を聞いた。

――洋節とは一定の距離を保持すべきだ

◆山東省民俗研究学会々長・李万鵬氏

人々の主観的な願望には西洋文化を追及するとの気持ちはないが、西洋の祭日によってもたらされたファストフッド文化を享受する中、我々の民族文化が無意識のうちに顧みられなくなっているのは確かだ。周囲に少しでも心を配れば、マクドナルドやケンタッキーフライドチキン、ハンバーグ、ピザなどが大小の都市、さらには農村部でも流行っており、クリスマスやバレンタインデー、ハローウィン、エイプリルフールなどが社会風俗の一部になっているかのようだ。我々の民俗や祭日は今、失われようとしており、その一方で洋節が虚に乗じて入り込み、幅を利かせつつある。都市化が進むに伴い、一部の大都市では祭日の民俗的な雰囲気が薄れようとしている。一部の年配者は伝統的な祭日には無理してでも気持ちを寄せることはできるが、精神的な充足を必要とする若者たちにすれば当然、リズムに合わないものだ。そのため、我々の伝統的祭日の文化を救済することを含め、民俗や民間芸術を救済することが焦眉の急となっていると考える。

◆フリーランサー・黄琳斌氏

祭日そのものには、特定化された文化的な意味合いがある。民族の文化的シンボルであり、民族の信仰や倫理、情感といったものがそこに蓄積されているからだ。それは言語と同様、各民族が文化を伝承し、気持ちの疎通を図り、人心を凝結させる上で重要な手段となる。ある祭日を受け入れるということは、程度の差こそあれ、その文化を認めることを意味しており、自主的にその祭日を過ごすという意識が強まれば、それ相応にその文化を認める気持ちも強まることをも意味している。仮に大多数の中国人が洋節に熱を入れ、伝統的な祭日に対する気持ちが薄れるようになれば(人々は既に伝統的な祭日に関心をなくしつつある)、民族の伝統的な文化を発揚し、民族精神を奮い立たせ、民族の凝結力と認識を増強する上でマイナスとなる。更に言えば、仮に、大多数の中国人が外国語を話し、西洋料理を食べ、洋節を過ごし、外国の映像を見ることを誇りに感じ、楽しみとするようになれば、中華民族は恐らく危険にさらされることになるだろう。

米国の社会学者は、こう指摘する。「長年にわたり人々が全世界を統一するために為してきた数々の努力の中で、最も実行性のあった行動が、米国で流行した文化を伝播することだった」と。米ランド社はその戦略的研究報告の中で、西側の生活スタイルの薫陶を受けた後に帰国した外国人留学生について、「彼らが発揮する威力は、数十万の軍隊の派遣より遥かにに勝る」と指摘している。

バレンタインデーや母の日などは、国内で広まっていくだろう。表面的に見れば、個人による共鳴(愛を求めることや気持ちを大切にすることは人類共通のもの)とも言えるが、実質的には、中国人ことに若い世代は西側の文化に追随し、それを認めようとしている。現在、西側の文化では米国が全体的な優位に立つ。マクドナルドやハリウッド、マイクロソフト、グリーンカードといった言葉が若者たちを強く魅了している。西洋人は我々の春節や中秋節、端午節を過ごすことには興味はない。そのため、こうした祭日は彼らにとっては「源のない水」であり、「根のない木」でもあり、文化を伝承するいかなる意義もないのだ。重大なのは、非対称的な文化的な枠組みが原因となっていることだ。重陽節は敬老節でもある。「老人を敬う」のは階級を超越したもの、民族を超越したものでもあるのに、西洋人がそれに興味を抱かないのは何故なのだろうか。

私は、中国人は西洋料理を食べない、洋服を着ないようにと呼びかけるわけでは決してないが、外国の文化の中で我々の精神的生活と物質的生活を豊かにするのに役立つものは積極的に吸収しながら、だが、それに対しては一定の距離と相応の警戒心が必要であり、それがもたらすマイナスの影響を最大限度抑えるべきだと強調したい。同時に健全であり、独立し、かつ開放されたわが国伝統の文化の品位を保持するよう努めると共に、そうした文化が主流となった社会を定着させていく必要があると思う。

優れた外来文化は歓迎するが、朽ち果てたものは排斥しなければならない。洋節については、禁止せず、提唱せず、導入するというのが、政府の姿勢であるべきだろう。メディアは主動的に世論を導く任務を担っていく必要がある。洋節を過ごすことが国内でかなり広まっているのは、商業界による“演出”はむろんだが、メディアがそれを掻き立てていることは否定できない。

現在、多くの若い世代が伝統的な文化に対する理解と情熱、そして自信に欠けており、むしろ西洋文化に対しては強い親近感を抱いているのは、絶対に好ましいことではない。メディアに対しては、クリスマスを迎えるに当たり、従来行ってきたような大々的な宣伝を控えるよう期待したい。

◆「天津日報」契約フリーランサー・張洪偉氏

いつからか、洋節は市民の生活に深く入り込み、今や我々の伝統的な祭日に取って替わる勢いだ。洋節は休日にはならないが、若者の多くはデートやカラオケ、パーティーと、その日はかなり多忙なようだ。だが、祭日の由来や文化的意義について彼らに聞いてみると、多くの若者が十分に理解していない。全く理解していない若者もいて、単にブームに乗っているに過ぎないのではないか。

洋節が国内で流行りはじめた主因は、と言えば、まず第1は商業界による演出。第2は若者が快楽を求めるようになったことだ。生活水準が向上し、次は生活の質的向上を求めるようになってきた。血気盛んな若者たちはただ、これをチャンスとばかりリラックスしようと思い、西洋人以上に洋節を騒ぎ立てるように送っているだけではないのか。

適度にリラックスしたり、洋節を過ごしたりすることに対しては、行き過ぎた非難は慎むべきである。中華民族の文化はもともと心が広く、何でも受け入れるところがある。だが万事は、節度があってはじめて理性的であると言える。クリスマスを迎えるたびに、気飾った男女の姿をあちこちで目にすると、深い憂慮と不安を感じてしまう。洋節を過ごすことに熱を上げていけば、我々の伝統的な祭日がすたれていくのは必至だ。

どんな民族であれ、文化が本である。祭日こそが、民族の文化を伝承する重要な媒体である。伝統的な祭日である春節や元宵節(旧正月の15日)、仲秋節は、とりわけ家族の団欒を重視しており、また全ての人々が同じようにその喜びを感じることを大切にしている祭日であり、東洋の文化的色彩に溢れる祭日でもある。そこに民族の求心力と向上心が体現されており、そこにこそ我々民族の文化的魅力がある。

――洋節を過ごす ≠ 伝統的な祭日を放棄する

◆あるフリーランサー

例えば「大多数の中国人が外国語を話し、西洋料理を食べ、洋節を過ごし、外国の映像を見ることを誇りに感じ、楽しみとするようになれば、中華民族は恐らく危険にさらされるだろう」、と言う人がいる。だが、それは誇張であり、神経過敏で、あら捜しをする様なものだと思う。クリスマスといった洋節を送るのは、大都市の一部の人に過ぎず、多くの中国人、特に農村部の中国人は伝統的な祭日を過ごしている。

更に言えば、西側の文化を認めるのは、どこか悪いのだろうか。彼らの文化は、バカげたもので罪深いもの、あなた自身の文化がずっと文明的で、ずっと力のあるものだ、とでも言うのだろうか。ビールは外国の産物だが、中国人が飲み始めて既に数十年になる。だが、これによってどの民族が危険に直面したのだろうか。「三八」(国際労働婦人デー)や「五一」(メーデー)、元旦といった祭日はいずれも西側のものだ。これを受けて入れて既に数十年、じき百年にもなろうとしているが、中国文化は、これによってダメになったとでも言うのだろうか。そのために中国人は、春節や清明、仲秋を忘れてしまった、とでも言うのだろうか。そういった洋節は「西側文化の侵略」なのだろうか。伝統的な祭日は民族を奮い起こし、求心力を持たせる、などと言うのは、極端な民族主義を推し進めるための無責任な放言だ。

事実、こうした「洋節脅威論」が物語っているのは、脆弱な文化であり、虚弱で世界にはばかる民族でもある。仮に1つの国が、洋節を過ごす公民がいるために、その国が伝統的な文化を失う脅威にさらされて、その国の民族精神が奮わなくなり、その国の「求心力」がなくなったとするならば、その国の文化は非常に脆弱であり、非常に遅れていると言わざるを得ないだろう。極端な民族主義を推し進めるための無責任な放言は、ある意味で、国をより愛するというようなものであるかも知れないが、実際、彼らは自らの国の文化を軽蔑し、少なくとも彼らには、自らの国の文化に対する最低の自信さえも欠けており、彼らは、自らの国が、世界の民族の中で自立していける能力を備えていることをも信じていないのだ。

◆江西大学の学生・趙韋氏

西側の祭日を過ごすと言っても、形だけ過ごすのであって、西側の文化を追求する気持ちはないですね。祭日を過ごすという問題を、文化の浸透と結びつけることはやはり、どうかな、と思います。こうした西側の祭日を過ごすことで、西側の文化により多く接触することができるので、風土や人情にどんなマイナス点があると言うのかな。中国はずっと、開放や国際化、異質なものに対する寛容性を唱えてきたのではないですか?

この数年の間に中国が得た最大の成果と言えば、生産力が大幅に伸びたことや、GDP(国内総生産)がいくら増えたことではなくて、考え方や意識に大きな変革がもたらし、人々を解放させてくれたこと、より開放された、自信ある姿勢で世界の挑戦を受け入れることができるようになった、というのが一番貴重な財産になったと思う。全く新しい思考形態で世界を見わたすと、その幅の広さを感じることができる。5000年の輝かしい文明史を持ち、十数億の人口を抱える僕らの中国、大国が、自らその手足を縛る以外に、誰が、国が突き進む歩みを阻むことができると言うのだろう。外国の良いものは拒絶しないが、そのモデルをそのまま引用するのではなくて、僕たちは良いものは発展させ、その一方で、そぐわないものは捨て去って、良いものを吸収していく必要があると思う。「発展させるもの」と「捨てるもの」について論議を深めていけば、失敗の座に立たされることはないのではないかと思う。