50歳を迎えた中国の人民代表大会制度
李 子
3月5日、第10期全国人民代表大会(以下、全国人民代表大会は全人代と略称)第2回会議が北京で開幕する。今年、中国の根本的な政治制度と言われる人民代表大会制度が実行してからすでに50年になる。
50年前の1954年9月15日から9月28日まで、第1期全人代第1回会議が北京で開かれた。その会議では、中国史上初めての人民の憲法――中華人民共和国憲法が制定、発布され、国家の指導者が選出された。
第1期全人代の開催と最初の憲法の発布は、まったく新しい政治制度がこの東方文明の古い国で確定されたことを示している。
最高権力機関
憲法の規定によると、全人代は最高の国家権力機関である。その主要な職権には、憲法を制定、改正し、その実施を監督し、国家の基本的法律とその他の法律を制定、改正すること、国家行政機関、裁判機関、検察機関、軍事機関の責任者を選挙、決定し、同時にこれらの責任者を罷免する権限があること、国民経済と社会発展の計画と計画実施状況の報告を審査、認可し、国家予算と予算実施状況を審査、認可し、省・自治区・直轄市の設置を認可し、特別行政区の設置とその制度を決定し、戦争と平和の問題を決定することなどが含まれている。
1954年憲法の規定によれば、全人代の任期は1期4年である。1954年から1965年までに、全人代は基本的に期限通りに開かれた。しかし、1966年から1976年までの文化大革命期間に、全人代と各クラスの地方人民代表大会はいずれも定例会議を開かなかった。これによって、中国の民主と法制建設が重大な損害を蒙った。
1979年以後、各クラスの人民代表大会が回復され、ちくじ完全なものになった。1982年12月、第5期全人代第5回会議は現行憲法を可決した。現行憲法は、全人代の任期は1期5年とし、毎年会議を1回開催すると規定している。その後、全人代の会議は規定通りに開かれた。
50年来、全人代とその常務委は憲法の制定と改正のほか、刑事、民事、国家機構など各方面の基本的法律、香港特別行政区基本法と澳門特別行政区基本法、および経済、文化、教育、科学技術、行政、国防、民族、環境保全など各方面の法律を含めて多くの法律を制定し、憲法を核心とする法律体系が一応形成された。これらの法律は国家の政治活動、経済活動、社会活動など各方面で重要な役割を発揮している。全人代とその常務委はまた国家の一部の重大な事項を審議、決定し、憲法と法律の施行に対する監督と行政・裁判・検察機関の活動に対する監督を強化し、憲法と法律の貫徹・施行を保障し、国家の方針・政策の貫徹・実行を推し進めた。
実践がはっきり示しているように、人民代表大会制度は中国の国情に合致し、中国の社会主義現代化建設の需要に適する政権組織形態である。
人民代表大会の代表
今年61歳の理髪師何志清さんは海南省人民代表大会代表である。省人民代表大会の開幕前、陵水リー族自治県に住む何代表は県人民代表大会に提案を出した。この提案は彼が1年の時間をかけて、九つの郷鎮をかけ回り、自分の暇な時間をすべて使ってつくり上げたものである。
何さんが陵水県の県都で開いた理髪店では、近くに住む人が理髪に来るとよく庶民のことについてあれこれと話す。医者にかかるのが大変――これは近年彼がよく耳にする話題の一つである。
いったいどんなに大変なのか。何さんはそれを確めようとした。彼は言う。「医者のいない郷鎮が六つある。そこの庶民が医者にかかりたければ、十数キロ離れた隣郷の衛生院かまたは数十キロ離れた県の病院に行かなければならない。だから、医者にかかるのは大変なのだ」。
何さんは農村を回る時は古いオートバイを乗って行く。凸凹した道を走って庶民が医者にかかる難しさを体得する。しかし、彼をいちばん震撼させたのはこの凸凹の道ではなくて、一部郷鎮の医院のお粗末な医療施設である。「群英郷の衛生院は長年修理していないため、建物がいまにもつぶれそうだ。豚小屋のようにおんぼろの衛生院さえ何カ所かある。聴診器、血圧計など最も基本的な器械のほか、医療器械らしい医療器械がない」。
何さんは調査して、郷鎮の衛生院の経費は以前は財政支出に頼っていたが、ここ何年かは財政緊張のため、医務要員が流失するほか、医療器械もひどく不足していることを知った。
陵水県の総人口は約32万人で、そのうちの農村人口は8割近くを占める25万人である。何さんによれば、郷鎮の医院が足りないことは、農民がなかなか医者にかかれない重要な原因となっている。そのため、彼は今年の人民代表大会に郷鎮衛生院の医療衛生施設建設強化の提案を出して、郷鎮衛生院への投入を増やして、農民が医者にかかるのが大変という問題を解決するよう政府にアピールする予定である。
何さんはたてつづけに省人民代表大会代表を3期も務めている。この期間に庶民が理髪店でこぼした不平不満や意見は、彼の調査と確認を経て、往々にして分量のある議案か提案に変わった。
何さんは言う。「私は庶民のためにより多くのことをして、私を人民代表に選んだ人民の期待に添いたいだけだ」。
何さんのような人民代表大会代表は各地に大勢いる。彼らは人民代表大会代表の主流である。しかし、大衆意識がなく、代表になることを栄誉としか見ず、実際のことをしない代表も少数ながらいる。このようなことが20年前に発生したならば、ひょっとしたら代表をそのまま務めていったかもしれない。というのも、当時民衆が誰が彼らの代表になるかをあまり気にしていなかったからである。しかし、いまでは、このような職責を尽くさない代表は落選するか罷免されるという末路しかないのである。というのも、人民代表大会代表の役割を重く見る公民が増え、彼らは自分の出した意見がどうなるのかを気にし、誰が彼らに代わって権力機構でその意見を発表するのかを気にしているからだ。
政府を監督
全人代とその常務委の監督権は、人民が国家の主人公になる政治権力であり、その他の形の監督と比べて、最高の法的効力をもっており、その実質は国家機器が人民の意志に基づいて動くように保障するため、その他の国家機関の権力を制約することである。
監督の前提は状況を把握することである。広東省人民代表大会は省財政庁とオンラインする可能性がある。オンラインすれば、財政庁が国庫支出システムを通じて支出するすべての資金を、人民代表大会財政経済委員会がネットで調べればすぐわかるので、人民代表大会が政府をよりよく監督することができるのである。
名前を公開したくないある公共財政専門家はこう語る。「以前政府が各部門に渡す金はいずれも年初に各部門の口座に振り込まれた。どう使うかに至っては、人民代表大会が監督できないどころか、財政庁でさえかならずしも抑制できるわけではない。3年前、省財政庁は単一の口座を設け始め、各部門の口座をちくじ取り消した。こうすると、すべての支出はこの単一の口座を通して行われるようになり、この基礎の上で財政の集中支払いを実現する」。
同専門家は一歩進んでこう解釈する。このことは、今後の財政支出が具体的にある部門を経て行われなくなることを意味する。「年初の予算を組んでも、数字しか目にすることができず、金を目にすることができない。たとえば、机を買う場合、財政庁と相談し、財政庁の同意を得たあと、財政庁が直接金を商品供給業者に渡す。こうして、毎日各部門の使う金はすべてこの単一口座で決算し、財政庁は毎日各部門のすべての支出を目にすることができる。人民代表大会が財政庁とオンラインすれば、人民代表大会もそれを目にすることができるわけである」。
同専門家はつづいて、人民代表大会と財政庁がオンラインすることに重要な意義があると評価し、「メディアはよく人民代表大会は政府が金をどう使うかを監督すると報じている。もっと的確に言うならば、実際には以前はずっと政府が金をどう分けるかを監督しただけだが、オンラインしてからはじめてすべての金がどう使われたのかがわかるわけである。予算の実施状況を監督できてのみはじめて政府が金をどう使うのかを監督すると言えるのである」と語った。
人民代表大会の監督は大衆に奉仕することにも体現される。貴州省務川自治県泥高郷の個人経営業者蕭明強さんは、郷政府が食事代を遅々として支払わないことを裁判に訴えて勝訴したものの、未払い金をなかなか取り戻すことができない。そこで、蕭さんは判決書をもって省人民代表大会に行って陳情した。
蕭さんは泥高街で小さなレストランを経営している。1997年1月から1998年12月までの期間に、泥高郷政府に食堂がないため、同レストランで公務接待をし、会議出席者が食事をしたが、すべてつけであった。総額は2万余元で、その後一部分を支払ったものの、まだ1万1677元5角の未払い金がある。その後、郷政府の指導者が更迭し、新任の指導者が食堂をつくったので、同レストランでつけで食事することがなくなった。郷政府の財力が限られたものであるため、蕭さんに支払うべき金をずっと支払っていない。どうしようもなくなった蕭さんは県裁判所に訴訟を起こした。2000年4月20日、県裁判所は、被告の泥高郷政府は蕭さんに1万1677元5角の食事代を支払い、案件受付料、訴訟費は泥高郷政府が負担するという判決を下した。蕭さんは裁判所に判決執行を申請した時、郷政府の財力が困難であるという原因で、判決がずっと執行されていない。蕭さんは裁判では勝ったものの、未払い金は相変わらず取り戻せないでいる。
省人民代表大会常務委副主任の劉思培氏はこの件について、すかさず処理するよう指示した。省人民代表大会はこの件でとくに務川人民代表大会常務委に書簡を送り、務川人民代表大会常務委主任会議は判決執行を要求する書簡を裁判所に送致し、その実行を監督した。
省と務川自治県の人民代表大会の法による監督の下で、務川自治県裁判所は、個人経営業者が郷政府の食事代未払いを訴える案件を強制執行し、個人経営業者の蕭さんは訴訟を起こしてから1年余り以後に、ついに未払い金を取り戻した。
立憲の道
中華人民共和国では1949年の成立以来、前後して1954年憲法、1975年憲法、1978年憲法が制定、公布、施行された。
1954年憲法は歴史的経験、とくに建国後5年来の社会改革、経済建設、文化建設、政府活動の経験を科学的に総括し、人民民主主義と社会主義の原則を全面的、的確に体現している。しかし、同憲法自体は憲法の尊厳の保護、憲法施行の保障と監督をしかるべく重視せず、効果的な規定がかけている。全人代が憲法の施行を監督すると規定しているが、専門の機構とプロセスがないため、この規定が名ばかりの存在となった。当時たえず現れた違憲行為に対し、全人代はあろうことかそれと異なるいかなる意見をも出さず、これにもまして、いかなる措置もとらなかった。その後、全人代はそれ自体の存在さえ維持していくことができなくなり、憲法施行の監督などなおさら問題にならなかった。
法制が健全でなかった年代では、憲法は国家主席の権利でさえ保護できなかった。中国憲法学研究会常務副会長、中国人民大学法学院教授の韓大元氏はこう語る。1967年8月5日、国家主席の劉少奇が中南海で造反派の紅衛兵に批判された。劉少奇は引出しから1954年憲法を取り出して、「私は憲法に基づいて選ばれたのだから、私を罷免するなら、憲法の規定した手続きを踏まなければならない」と言った。しかし、造反派はそれを問題にせず、劉少奇は2年後に迫害を受けて死亡した。憲法が国家主席の権利でさえ保障できないのだから、公民の権利の保護などはなおさら問題にならないではないか。
1975年憲法は文化大革命期間に制定されたもので、その期間の「左」の誤りを反映しており、重大な問題がある。例えば、1975年憲法は「四つの存在」、「階級闘争は毎年、毎月、毎日語らなければならない」という基本路線および「プロレタリアート独裁下の継続革命学説」で理論を指導した。国家の性質が変わり、経済制度が極度にゆがめられ、民主制度がみじめにも踏みにじられ、国家機構が混乱に陥り、ひいては多くの極左の政治術語が憲法に書き込まれた。中国人民大学教授、中国憲法学研究会名誉会長の許崇徳氏によれば、1975年憲法は「1954年憲法の基本的な立法原則に背き、制憲史上の大後退である」。
1978年憲法は文化大革命の誤りを清算する余裕もない歴史的条件の下で制定されたもので、重大な欠陥がある。許氏は、当時文化大革命がすでに終了したが、1978年憲法が依然として1975年憲法の基本的思想を受け継ぎ、プロレタリア文化大革命の偉大な成績を肯定しているため、依然として明らかな欠陥のある憲法であると指摘する。
現行憲法は1982年12月4日、第5期全人代第5回会議で可決されたもので、着手から完成まで2年3カ月かかり、この間に憲法草案は全人代常務委が全国の人々に4カ月間討論させた。討論の規模の大きさ、参加人数の多さ、範囲の広さ、影響の大きさは、中国の法制建設史上空前のものである。
新憲法は高度の民主の基礎の上で高度に集中して生まれたもので、全国の人々は、同憲法は中国の社会主義発展の歴史的経験を科学的にしめくぐり、全国人民の共通の意志と根本的利益を反映し、国情にかない、中国の特色があり、新しい歴史的時期の社会主義現代化建設の必要に適応し、長期にわたり安定を保てる憲法であると言っている。
実践は際限のないものであり、憲法も社会実践の発展につれてたえず完全なものになる必要がある。1988年、1993年、1999年、全人代は前後して3回も現行憲法の一部内容を改正した。今年、全人代はもう一度憲法を改正する。
憲法は国家の磐石である。しかし、憲法が完全なものでないと、必然的にその貫徹、施行を難しくする。各国政府はいずれも憲法の改正を非常に重視している。統計データが示すように、アメリカは前後18回、連邦ドイツは34回、スイスは45回憲法を改正した。中国の今回の憲法改正は憲法の相対的安定を保ってもいれば、憲法をいちだんと完全なものにもしている。
50余年来、憲法改正から、中国の「人治」から「法治」への過程を見てとれる。1949年から1978年までの30年間に法律と法律問題に関する決定をわずか134件制定しただけで、平均して1年に4.5件しかなく、しかも、その中に1998年末になっても依然として効力をもつものは16件だけである。1958年の「人治を実行し、法治を実行しない」から「文化大革命」期間に「公安機関、検察機関、裁判機関をたたきつぶす」へと変わって、法治を主張する声が聞かれなくなった。1979年7月、第5期全人代第2回会議のあと、中国では立法事業が再び始動した。
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