2005 No.11
(0307 -0313)
 

アドレス 
中国北京市
百万荘大街24号
北京週報日本語部
電 話 
(8610) 68326018 
(8610) 68886238

>>争鳴

中国人の英語教育をめぐっての論争

改革・開放実施以来の二十数年間に、英語の学習は中国人にとってますます重要なものとなってきた。中国人は小学校から英語を習い始め、中・高校進学や大学進学ための入試や、大学と大学院の卒業、修了資格を取得するための全国英語4級・6級試験(College English Test)、留学希望者を対象とするTOEICやIELTS、GRE、GMAT、WSKを含むさまざまな英語のテストを受けなければならない。英語資格証明書類は学生の進学と就職、社会人の昇進に欠かせない要件となっている。英語を重視しすぎるあまりに、さまざまの英語テストには大学生だけでなく、社会人からの希望者も殺到することになり、ビッグな英語教育産業が機運に乗じて現われた。

しかし、ここ数年来4級・6級英語試験実施の中でカンニング事件が頻発している。今年年初に起こった試験問題漏えい事件によって、中国の英語教育への反省が強まっているようだ。英語の圧倒的な地位は人材の養成と抜擢など諸方面にマイナスの影響を及ぼしており、教育資源の浪費となったという指摘がある一方、英語教育は教育資源を浪費しておらず、開放された中国にとって英語の重要性を強調することは非常に重要だとの意見もある。

英語教育は教育資源を浪費していない

在米学者の薛湧氏:最近の英語4、6級試験問題漏えい事件によって、現行の英語教育への反省が起こっている。専門家からは中国の現段階の教育は英語の重要性を強調し過ぎだとの批判があるばかりか、英語教育は教育資源の浪費となっていると非難する全国政治協商会議委員、中国科学院アカデミー会員までも現われている。

試験問題漏えい事件により、試験制度への反省と英語教育への批判が巻き起こったのは当然のことではあるが、これだけで英語教育のウエートが大き過ぎると非難するのは、いささか「喧嘩のそば杖」の嫌いがある。いま中国はグローバル化の時代にあり、ウォルマートによる商品発注は中国のGDPの1%を占めるに至った。このように国外の市場に依存している中国にとっては、いまの英語教育では恐らく社会のニーズに応えることができないだろう。

一部の学者たちが挙げている英語無用という例はほとんど似て非なるものだと思う。例えば、美術大学の中国画専攻の学生は英語を学ぶ必要はないとか、中国古典文学専攻の学生は英語を学ぶ必要はないとかといった言い方がそれである。いったいこうした専攻の学生は何人いるのか。13億人口を擁する大国の教育制度ははたしてこれらの少数のものを対象にして制定されるのか。たとえこれらの中国文化の研究に従事するエリートであっても、はたして英語を必要としないのか。私は長い間アメリカに滞在しているので、国内からの著名な学者が頻繁に訪問してくることを目にしている。この人たちに聞くと、ほとんどの訪問者は外国訪問の機会を大切にし、英語を学ぶ意欲もたいへんなものということが分かるはずである。

日本は今世紀に入ってから国際化を既定の国策として位置づけ、ひいては英語を第二外国語として学ぶことを提唱している。インドでは近年サービス業がめざましい発展をとげ、その産業グレードと利潤率は中国をはるかに上回っている。インドは今後数十年間で中国を追い越すと予測している経済学者も一部にはいる。インド人の強みは英語に堪能であることだと思う。問題はインドには英語スクールが多く開設されているのに対し、中国国内には英語を学ぶ必要はないと主張しているものが多い、ということである。

英語教育は資源を浪費している

全国政治協商会議委員、中国科学院アカデミー会員の謝克昌氏:中国の現行の教育体制において英語の地位が圧倒的に高いことは人材の養成と抜擢など諸方面にマイナス効果をもたらしている。

長い間、英語教育は大量のヒト・モノ・カネの資源を占用し、中国の経済と社会進歩を推進する中で取って代わることのできない役割を果たしているが、現状から見れば、その効果と投入にはつり合いがとれていない。注意しなければならないのは、現行の英語教育体系は科学技術、人文などその他の教育体系、特に人材の養成と抜擢など諸方面にもたらされるマイナス効果がすでに顕在化している。中国人は小学校から英語を習い始め、中・高校進学や大学進学ための入試、大学と大学院の卒業、修了資格を取得するための全国英語4級・6級試験、留学希望者を対象とするTOEICやIELTS、GRE、GMAT、WSKを含むさまざまな英語テストを受けなければならない。いま検討すべき問題は英語を学ぶ必要があるかどうかということではなく、どのように学ぶか、どの程度まで学ぶか、誰が学ぶべきかということである。

英語をコミュニケーションのツールとして学習する圧倒的多数の教育対象者にとっては、英語は学問ではなく、一種の技能である。中国では、中学校から高校までの六年間も自国語を学ぶように英語を勉強することになっているが、それ以上進学する気持のない学生にとっては、自らの努力と地域社会の教育資源がほとんどムダ使いになっていると言えよう。

英語の圧倒的な地位によって、限られた教育資源の分布に深刻なアンバランスが起こっている。中国では技術労働者の不足が深刻化しているのに、職業技術学校の学生募集数は大幅に減っている。一方、さまざまな英語スクールの開設が花盛りである。人材評価の基準は社会への貢献度で決めるべきであり、学歴や職名、ひいては英語力だけで決めてはならない。人材を解放し、社会の求める英語教育システムの確立こそが、中国の社会発展の教育にとっての必然的な要請である。

はっきりさせなければならないのは、英語教育は国民教育全体の一部を占めるだけであり、生涯教育を受けることや人材抜擢の必須な条件になってはならないということである。さまざまな進学試験の中の強制性的英語テスト制度を改革し、学生に職業選択のための余裕をもたせる必要がある。

フリーの作家である韓相柱氏:私は薛湧氏の見方と違った見解を持っている。中国画専攻の学生や中国古典文学専攻の学生も英語を学ぶべきだという言い方は正しくないと思う。いまここで討論している「英語教育は教育資源を浪費している」という問題は、社会のエリート層について言っているのではなく、一般の人たち、社会全体のことを言っているのである。

さらに重要なのは、薛湧氏は「英語を学ぶ必要があるかどうか」と「英語教育は教育資源を浪費している」との二つの概念をすり替えているということである。これはまったく関連性のない二つの事柄である。最近、いまの論争では英語無用論が台頭するのではないかと懸念している人もいるが、そんな心配は不要であると思う。人材の養成から言えば、利用できる外国語はいくつ勉強しても良い、つまり多ければ多いほどいいわけだが、問題は、一生懸命英語だけを勉強してもなかなか上達できないのに、その他の言語を学ぶ余裕があるのか。全社会の資金や教師など教育資源は限りのあるものであり、学習者の時間やお金も限りのあるものである。この限られた教育資源を合理的に配置し、調節を行うことによって最大の効果を求めるのが、「英語教育は教育資源を浪費している」を検討する際の起点であり、この「罪名」でもって英語教育を排斥するのではない。

「いまの英語教育は恐らく社会のニーズに応えることができない」というが現状かもしれないが、問題は国内の英語スクールが少ないからだと思う。国内では小学校から大学まで、学校から社会までというビッグな英語教育産業が形成されており、みんなで意識的に学べれば、いまのような論争はなくなり、どのように英語を学ぶべきかという問題となるにちがいない。

薛氏は「13億の人口を擁する大国の教育制度はまさかこうした少数の人たちを対象にして制定されるのではあるまいか」とさえ問いかけている。これが「英語は教育資源の浪費となるのかどうか」という問題に対する答えではなかろうかと思っている。